【サンプル】野狐之嫁入

第22回博麗神社例大祭で頒布予定の新刊「野狐之嫁入」のサンプルです。

 

☆こんな人におすすめ!☆

・八雲家、特に八雲藍に一方的な慕情を募らせるも、上位存在の歯牙にも掛けられずに終わりたい。

・その他東方キャラによそ者として雑な扱いを受けたい。

・広義の夢小説に耐性がある、モブ人間の存在を許すことが出来る。

・けものになりたい。

 

 

 

暗闇にて。際限なくまつ毛に積もる氷雪を除けながら進む。その瞳がどちらの方角を向いているかはとうに分からなくなっていた。だが、吹雪く山の中でその場に留まるのも悪手であり、投げやりに足を出す。履き古したスニーカーが新雪に埋もれると足首から雪が入り込んだ。つま先の感覚はずいぶん前に無くなっている。グズグズに濡れた靴下の気持ち悪さを、心を殺して考えないようにして、機械的に歩みを進めると、踏みしめた雪に深く足元を捕らわれて前のめりに倒れ込んだ。空気を含んだ新雪にやわらかく抱きとめられて痛みはないが、こびりついた雪は時間が経てば体温に溶けて着衣を濡らし、結局は体力を奪うだろう。
もう何度目かの無意識にコートのポケットからスマホを取り出して画面を見る。ひび割れたガラス越しに見える時刻は夜明けの頃を示して光る。電波は圏外。買った時点で型落ちだった通信機器は電池の持ちも悪く、残り10%を切っている。GPSは確認することすら無駄に思えた。座り込んで上空へ目を凝らすが、空は未だ黒ぐろと闇深い。限りある希少な電源を使って周囲を照らすと、ぎょっとするほどの眼の前に、鋭利な角に削られた石がわずかに頭を出していた。転んだ時にもしもこれに顔面をぶつけていたのなら、と。悪い妄想が脳裏をかすめて、冷えた背筋に汗が滲んだ。
文明人の直感から、生活防水のスマホをスコップ代わりに雪を掘ると、やがて空洞が現れ、石造りの、やはり想像通りに小さな屋根の下から同じく石で作られた、場違いに柔和な顔をした獣の像が掘り出された。こんな山深くにも稲荷の類があるとは。危機的状況に置かれていることを一瞬は忘れて、オカルトサークルメンバーらしい好奇心がくすぐられる。一心に掘り進めるとやがて、陽に焼けて赤が抜け落ちた前掛けが現れ、石像の裾までを掘り当てると、異質な冷え固まった塊が転げ出てきた。スマホのライトで照らせば、凍てつく雪の純白とは異なり、人肌を思わせる暖かみを持った乳白色の物体で、鼻を寄せればわずかに米の甘い香りが鼻腔を掠めた気がした。
その人間は塊にかぶりつく。乱雑に並んだ隙間のある歯列を突き立て、白い息を漏らし、冷え固まった餅を喰らおうとするが、表面を浅く削り取ることすら難しかった。それでも冷えと空腹に追い立てられて、奥歯を立てる。まるで漁った死体の骨を砕き、髄を啜ろうとする獣のように。供物を浅ましくかじり、しかし貧弱な現代人の顎で満足に食えるわけでもなく、うなだれる。降り積もる雪に埋もれ、限界に達した眠気に呑まれていった。

それを見つけた黒猫式神の胸の内では、主の言いつけよりも好奇心と食欲が勝っていた。
主からの用命というのは、近所までの買い物のお使いだとか、家屋の掃除であるとかの、児童のお手伝いに類するものが多い。さらには最近になって業務は増え、結界の要所を巡るようにと司令されていた。とは言え特段何か作業をするわけではない。言わば縄張りの見守り、一般的な言い方をすればお散歩である。その程度であれば猫にも一匹で出来ることであった。そしてお散歩の際には「何か不具合や異常があったら、自分で動く前にまずは報告しなさいね」と常日頃、口酸っぱく聞かされていたのだが。猫の好奇心を前にしてはそんな言いつけは意味をなさない。
新雪に埋もれてそれはあった。嗅覚を頼りに異物を掘り当てて黒猫妖怪、橙は舌なめずりをする。
「この臭いは人間ね? 雪の夜に妖怪の領分に人間が迷い込むなんて」
柔らかい雪を払い、成人一人程度の質量を持った塊をつま先で転がす。まとうコートは見慣れぬ光沢とごわついた感触をした素材であり、重たく、ぐっしょりと水を含んでいる。びちゃ、と水音を立てて転げたものから飛び退いて、橙は顔をしかめた。
「うわっ……やだやだ。濡れちゃうじゃない」
手で触る気はしなくて、引き続き足で小突いて氷雪を蹴り落とし、様相を観察する。手元には手のひらサイズの板が落ちている。鋭利な爪の伸びた指の先でつまんで覗き込むと、ひび割れた黒いガラス面に自身の顔が暗く映り込んだ。
「出来の悪い鏡ね。重たいばっかりであんまり上手く映らないわ」
用のないガラス板はその辺りに放り投げ、観察を続ける。お燐の住む地獄での猫集会にて覚え込んだ死臭はまだ、しないようだ。〆る前の、新鮮な人肉の証拠である。さて、どうかぶりついたものか。吟味する。自分が見つけたのだから、ひとかじりくらい味見しても許されるはずだと橙は考えていた。主の元へ運んでも良いけれど、その前にちょっとした分け前があってもいいはずである、と。現金な欲がわき、教えなどすっかり吹き飛んでいた。
ザラザラとした舌で桃色の唇を舐め上げ、湧き出る唾液を飲み下しながら。小さく、鋭利な牙をむき出しにして。大口を開け、まずは喉笛を噛み切ろうとした、その時。
「橙」
名前を呼ばれて黒猫式神はしなやかに飛び上がった。思わぬタイミングでの主の来訪から顔をそらして一歩、後ずさる。
「ええと、藍様、えっと、これはですねえ……」
「これを、橙が見つけてくれたのね?」
藍、と呼ばれた妖狐は慈愛の笑みを湛えて橙を見下ろしていた。
「ちゃんと結界の見張りをしてくれたのね。えらいわ、出来るんじゃない」
「え、えへへ。ありがとうございます。そうなんです、私が見つけました! ねえ、こんなところまでのこのこと踏み込んでくる身の程知らずの人間なんて、今夜のおかず……」
「そうね、こんなところにまで、こんなに大きな外界の人間が踏み込んでくるなんて、大変なことだわ。人間はフィルタリングされて弾かれるはずなのに、どうしてかな……。紫様に教わったように組んだはずなのに、何か不具合が出たかしら。でも、橙が見つけてくれて助かった。お手柄ね。今夜のおかずはごちそうにしよう」
「えっ外の……? ああ、いえ、そうですよね! これは、どう見ても外の人間です。もちろん、分かってましたよ!」
「そうでしょう。いい子ね」
「へへへ……」
妖狐、藍は九つの尾を豊かに揺らして橙の頭を撫でる。すっかり調子の良い猫は、ごろごろと喉を鳴らした。
「さて、こいつをどうにかしなくちゃね。人間を妖怪屋敷のマヨヒガに入れるわけにも行かないし、介抱して起きたら、結界のデバッグも兼ねて自分の足で元の住処に帰ってもらいましょう」
藍はその細腕に人間を軽々と横抱きに抱え込んだ。泥を含んだ水分がぼたぼたとこぼれて、新雪を黒く濁らせる。橙は頬を青くして主を気遣った。
「そんなばっちい濡れねずみ、触ったら藍様が汚れてしまいます」
「大丈夫よ、橙は離れていなさい。知ってるかしら。外の世界の式神は今や手のひらサイズで、だいたいは防水・防塵機能が付いてるんだって」
「ふうん……?」
紫様が言っていたの、と付け加えて、いたずらに笑う主の口にした謎の物体がどんなものなのか、全く想像がつかなくて橙は曖昧な返事をした。確かに眼の前の主は、泥の塊を抱えても着衣には染み一つつかずに、スカートは白いままに撥水して水滴は玉となって転がり、朝日を柔らかく含んでいた。
「それじゃあ私は行くわ。雑用はとっとと終わらせるに限る。橙も玄関は掃き終わったかしら」
「もちろん、これからやろうとしていましたよ」
「ええ、頼むわ」
八雲藍は自身の式に微笑み、その白いブーツの先は音もなく地面を離れていた。飛翔して、空高く昇っていく主を見送って、猫妖怪は大きなあくびをひとつする。
「うーん、ひと仕事したし眠くなっちゃった!」
橙の意識には掃き掃除の用命など残ってはいない。今夜はごちそうだし、とびきり快適に過ごすべきだと思った。しんしんと冷える年の瀬に、どこで寝たら暖を取れるのか、お手軽に縁側で陽の光を浴びるか、少し頑張って薪を取ってきてストーブを焚くのが良いか。ストーブを焚くのであれば湯を沸かして紅茶でも飲もうか。そうしたらはちみつ漬けの生姜も入れよう、きっと温まるに違いない、と。主から賜った式を私的利用にフル回転させていた。

 

その人間は、久方ぶりに安心な夢を見ていた気がした。甘えたように揺蕩う意識を急速に浮上させて飛び起きる。
外気は、暖かい。遅れて胸の鼓動がけたたましく響き、身を縮めて周囲を警戒する。どうやら屋内のようで、それも今どきではちょっと見かけないような古民家、といった風合いだ。天井には黒い丸太の梁が巡らされており、ガラス細工のランプが吊るされて暖色で照らしている。壁は土壁、床は畳張り。障子は締め切られており、六畳ほどの個室となっているようだ。日本家屋になど住んだこともないのに、どこか郷愁を感じて、少々安堵する。落ち着きを取り戻して自身の様相を振り返れば、敷布団に寝かされて、いつの間にか空気の含みの良いガーゼ地の浴衣に身を包んでいる。
ここは天国、もしくは極楽浄土であろうか。いや、オカルト好きではあるものの、オカルトを自身の願望に重ね合わせて都合よく消費するだけの無宗教の自分がどこか死後の世界に迎え入れてもらえるなど、おこがましい話であろう。
立ち上がっても体に差し障りはないようだ。青い香りの残っている畳を抜き足差し足で歩き、四方のうちその一面だけ、障子ではなく引き戸にはめ込まれた曇りガラスから射す陽の光が甘く暖かであったので、誘われるように戸を開く。軋みもなく滑らかに戸は開き、待望の外界には木張りの廊下を挟んで、小さく区画された庭が現れた。樹木の大半は葉を落としているが、常緑の沈丁花の茂みは青々と葉を輝かせており、その上に雪はもう、積もっていない。
一歩、廊下へと足を進ませようとするが、その足が床に触れることはなかった。その先には空間が存在しないかのように、部屋から先に足が進まない。部屋から出ることは叶わなかったが、代わりに、狙ったかのようなタイミングで背後から声がかけられた。
「あら、やっと起きたの。この寝坊助」
嘲りを含む声をかけられて振り返る。金の双眸には獣の瞳孔が縦長の楕円に開き、背筋をまっすぐに伸ばしてこちらを見下している。しかしその顔つきは穏やかで、こちらの出方を伺い、気遣うような高い知性を感じさせた。背後にはいくつもの金色の毛の塊が蠢いており、それがどうやらその存在の尾であると認識するのには少々の時間を要した。ということは。頭にかぶる白い帽子からのびる二つの三角の突起には、獣の耳でもしまい込まれているというのだろうか。
二本足で畳に立ち、人の形を取りながら、人の子ならざるもの。未だかつて出会ったことのない、俗世の道理から外れた存在に対峙して、人間はその一挙手一投足を見逃すまいと瞳を開き、身動ぎ出来ずにいた。
「お前、名は言えるか」
「つ……つなえ。千井、綱江」
「なんだ。名が言えるのであれば帰れるな。手間を増やしやがって。ここはお前が居るべきところじゃない。さっさと帰れ」
「えっと……いや……」
「帰れ。立つんだ。立って歩け。着いてこい」
問答無用、といった様子で命令は下され、大人しく従うしか無さそうであった。少しでもこの時間を引き伸ばしたくて、思い当たって自身を見る。いつの間にか、自分のものである売れ残りだった綿入りウインドブレーカーを羽織っている。衣服に濡れたところは一つもなく、いつもどおりの毛玉だらのけニットに裾の擦り切れたチノパンの、着古しの洗いざらしのものであった。確かに、さっきまでは浴衣姿でいたはずなのに。まるで狐につままれたような心地がする。
「何してる。来い」
その存在がガラスのはめられた木戸の向こう側、中庭へと続く木張りの廊下へと何の支障もなく歩いていくのに従い、恐る恐る足を踏み出す。先程のことが嘘のように、あたりまえに空間は繋がっており、廊下へと歩みだすことが出来た。先が見通せないほどに長く続くと思われた廊下は、中庭に見とれて数歩歩くと、次に正面を向いた時には土間へとたどり着いていた。見慣れた、夏でも冬でも履いているかかとのすり減ったスニーカーは外へ向けてぴたり、と揃えられている。乾いた靴を履き、玄関扉の外へと一歩踏み出せば白い日差しが降り注ぐ。薄曇りの屋外は林の中。葉を落とした雑木林と背丈まで茂る低木の中に、人一人分がどうにか通り抜けられそうな隙間があった。
「この獣道を逆向きに歩いていきなさい。お前の居るべき場所にたどり着くのが道理だ。そのようにプログラムされているからな」
「あの」
「何だ」
「お名前、もしあれば……なんですが。聞きたいなって」
「無礼なやつ」
「すみません、でも、どうしてもあなたのことを忘れたくなくて」
「ふん。八雲藍だ。氏は大妖怪、八雲紫様から賜った」
「八雲藍、八雲紫……」
「気安く口にするんじゃない! 卑しい人間め!」
咆哮されて、萎縮しながらも人間は強欲にも再度、名前を口にした。
「八雲藍様……」
「無駄口ばかり叩いてないで早く行ってくれ。新春に紫様がお目覚めになる前にやることが山ほどあるんだ」
「はい、ども……」
人間はせめてもの抵抗として口の中で転がすような声で礼を言ったが、藍の表情が緩むことはなかった。

これ以上は相手の機嫌を損ねると分かり、名残惜しくも獣道へと入る。見た目に反して地面は踏み固められており、下草や落ちた枝に足を取られることもなかった。視界は藪に遮られて、どこを向いているのかも方角も、どれくらい進んだのかさえ分からない。それでも藍との約束を守り、人間は愚直に進む。帰る価値があるとも思えない、元居た場所を思いながら。

気の遠くなるほどの時が経ったであろうか。それともそれは、寸刻のことであっただろうか。俯きながら歩いていた視界が開けて唐突に藪が途切れる。空は橙色に染まり、宵闇が端から迫る頃合いであった。整然と並べられた石畳の上で周囲を見渡せば、頭上には立派な大鳥居がそびえている。と言うことは、と。正面を見据えれば、予想通りに年季の入った本殿がそこにあった。
明らかに人の手によって掃き清められた石畳を行く。確かに土埃や枯れ枝は少なく、掃き清められてはいるもの、石の隙間の所々に雑草が繁茂しており、日陰では苔も薄く生えているようだ。完全に行き届いているとは言い難い、緩い管理者の姿を思いながら、せっかく神社に来たのならば、と、鈴を鳴らすことにする。あまり期待はせずにポケットを探したところ、十円硬貨が見つかった。まあ、これでも良いかと賽銭箱に投げ入れて、鈴を鳴らして二礼二拍手一礼。お辞儀をして、顔を上げるより先に上ずった少女の声を掛けられた。
「あんた! もしかしてお参りね!」
ひゅ、と喉を鳴らしながら振り返る。紅白の、いかにもおめでたい様相をした黒髪の少女は目を爛々と輝かせ、握手でも迫らんばかりにずいずいと無遠慮に近づいてきた。苦手な陽とかハレとかのオーラを放つ動きに恐怖を感じて人間が返事も出来ないでいるうちに、巫女らしき少女はくるりと目の色を変えて思案を始める。
「でも、こんな季節、こんな時間にまともな人間が神社に来るのはちょっと、おかしいのかしら……? あんた、もしかして妖怪? それとも、なりかけ?」
先程までの友好的な態度とは打って変わって、お祓い棒を掲げて睨みつけられて、人間は両手を小さく挙げながらジリジリと後ずさった。
「あ、あ……あの、ここは……どこで……」
「ここ? どう見ても博霊神社に決まってるじゃない。冬眠中の蛙じゃないんだから寝ぼけてんじゃないわよ」
「博霊……? でも、藍、様……が、獣道を戻れば、帰り道だと」
「はあ? 藍? 藍ってあの、紫のところの?」
「えっと」
「もふもふした式神狐でしょ」
「式神……? もふもふ……は、してました」
「じゃ、確定ね」
お祓い棒を収め、殺気をかき消した少女はため息混じりに、さも面倒、と言ったように肩を落とした。
「そう言うことなら早く言いなさいよ。なんだ。期待して損した。ていうかあんた、こんな時間に人を騒がせておいてお賽銭はたった十円なわけ? しけてるわねえ……まあ良いわ。早いこと藍のやつに押し付けよっと。すぐ戻ってくるからここで待ってなさい! 動くんじゃないわよ!」
紅白の巫女は踵を返し、革のローファーをカツカツと鳴らして社務所らしい家屋へと向かった。
博麗神社など、地域で聞いたこともない名前である。昨晩目指していたのは、林の中に小さな祠と石像があるだけで鳥居などとうに土塊になった代物であったはずだ。このインターネットの発達した時代に、これだけの規模の建造物があれば、マップに掲載されていないことは無いはずである。念の為、確認しようとしたスマホは、いつものポケットの中に入っていなかった。
「うわ、ウソ……」
現代人の性として、スマホが無いというのはひどく落ち着かない心地になる。こんな場所で電源を付けたとしても電波が入るかどうかは怪しい。対等な友人も居らず、親との連絡はブロックしている。来る通知はサークルメンバーからの胡乱な誘い、店員に言われるままSNS連携したが滅多に行かない居酒屋の新メニュー、リボ払いに追われて常にかつかつなクレジットカードの引き落としくらいであるが、それでもなけなしの個人情報が入っているし、いくら格安の中古品であるとしても買い直すのは家計に厳しく、失くすのは避けたい事態であった。今どき、スマホがなければ大学の講義の教室確認も難しく、日雇いの派遣バイトすらままならないのだ。
改めて、落ち着いてポケットをひっくり返す。チノパンの右ポケットに入っていたのはコンビニで先輩の電子タバコのカートリッジを買った時に入れっぱなしになっていたレシートがクシャクシャに丸まったものと、鼻をかんだかぴかぴのティッシュ。そして、左ポケットから出てきたのは。
歯型の付いた乳白色の、餅であった。
慌てて、盗んだ供物をポケットの中へと入れ直し周りを見渡すが、見咎めるものは居なかったようである。

体中のポケットを探り、それでも失せ物は出て来ることはなく、立ちすくんでいると巫女は小皿を手にして戻ってきた。
「なにうねうねしてんのよ。大人しくしてなさい」
巫女は小皿を地面に置く。皿の中には半分に切られたいなり寿司が置かれていた。巫女は人間には目もくれずに、何やら怪しげな文字が書かれた札を並べ、円形の、等間隔に設置していく。チョークで札と札を繋ぐように幾何学模様を地面に記すとお祓い棒を恭しく振り、ぶつくさと、きっと巫女であるのだからありがたいのだろう祝詞を、唱え始めた。
疑問だらけのまま始められた謎の儀式を、目を見張って観察する。何か、魔法陣じみた紋様が光りだしたり、御札が宙を舞ったりでもするのかと期待していたが、そういった分かりやすく面白い派手な変化は起こらないようである。
それでも意義不明の儀式に浪漫の心をくすぐられない訳がなくて眺めていると、異変は上から降ってきた。金色の毛の塊が高速で回転し、轟音を立てながら降ってきて石畳をバウンドする。ひとつ、ふたつ跳ねてからこちらへと直進し、回転を止める。
再び相まみえた九尾の狐は、瞳孔を引き絞り、鼻の根に獰猛な皺を寄せて巫女を突き刺さんばかりに睨み、吠えた。
「霊夢ッッ! あんた、何してるのよ??」
「あ、やっと来たわね。遅いじゃない。ほら、御駄賃もあげるから、この面倒事を持って帰りなさい」
「このおめでた人間、さては呼び鈴代わりに大結界に干渉したわね……ただでさえ調子悪いのに!」
「へえそうなんだ。これが一番早いでしょ?」
食い破らんばかりの激しい獣の怒りを前にして、霊夢と呼ばれた巫女は自在に空を漂うかのごとく飄々として、どこか得意げですらあった。
「ああ、そうね。あんたに常識やらまっとうさを求めた私が愚かだったわ。もう、それに、食べ物を地面に置くんじゃない。巫女ならば穢れの概念くらい意識しなさい」
「狐のくせに。獣臭い上に説教臭いわね。要るの? 要らなかった?」
「もらっていく。ていうか、一個ですらなくて半分だけなのね……相変わらずケチだなあ」
「仕方ないでしょ。お腹いっぱい食べたからたまたま残したけど、今日になって食べる気も起きなかったの。あー、取っといてよかった! 残り物もたまには役に立つものね」
「いいわよ。ありがたーくもらってあげる。もう、せめて紫様が寝ている時期に変な気を起こすのはやめてちょうだい? 頼むから……」
「はいはーい」
「はあ……」
藍は先程の怒気はどこへやら、すっかり疲れ切った顔をして、人間へと言った。
「で、またお前なの……外の世界の人間ならばあれで帰れるはずなのだけど……」
「はい! これ以降、おしゃべりは他所でやって、ね! 来年の正月こそ参拝者をたくさん迎えるんだから。不審者と妖怪の手下の狐になんか神聖な境内に居られちゃ困るのよ。帰った帰った! 妖怪退散!」
霊夢がお祓い棒をハエ叩きのごとく振り回し、懐から針など取り出し始めたのを見て、藍は反射的に耳を絞って人間に耳打ちした。
「弾幕ごっこなんてしてる暇はない! 仕方ない。お前は来な!」
慌てた藍に腕を引かれ、体が宙へと浮かぶ。親しんだ地面から引き離されて内臓が浮き上がるような不安感に晒されて息を詰めると、次の瞬間には木造の引き戸の前へとたどり着いていた。暗闇の中に玄関扉だけが浮かんでおり、目を凝らしても家屋の全容を掴むことは出来ない。戸だけが、そこが家屋であると定義する境界であるかのようである。戸の横には門松が置かれ、敷石は出入り口のところだけぴかぴかに摩耗しており、不可解さに対して不釣り合いな生活感を漂わせながら存在していた。
「一日だけ泊めてやる。お前は人間なのだから、外の世界に帰れないのであれば人間の里に連れて行く。それがここのルールだ。しばらく里に住んで、結界の不具合が解消されたらデバッグがてら帰れ。今日はもう夜が迫っているから、夜は妖怪の時間だから。明日の朝に里に引き渡すわ。上がりな」
藍の尾を追って人間は敷居をまたぐ。見覚えのある土間でスニーカーの紐を緩めているうちに、藍は流れるような所作でブーツを脱いで寸分違わずぴたりと揃え、早々に廊下へと上がっていってしまう。人間は大慌てでスニーカーを足から引っこ抜いて土間にばらばらに放り投げ、玄関へと上がった。藍は元より冷えた瞳を、揺らしもせずに人間を待った。スイッチもなく、音もなしに明かりが灯る廊下を渡り、襖を開けると昼光色の明かりが漏れた。
「橙。帰ったわよ」
「藍様、おかえりなさい! 何だか人間臭いですねえ……?」
「ああ、こいつをね、霊夢から都合よく押し付けられてな……」
落ち込んだ藍の声に促された猫妖怪と、目が合う。橙はあからさまに顔をしかめた。
「こいつ、まだ生きてたんですか?」
「そんなことを言ってはダメ。一寸の虫にも五分の魂と言うでしょう? 矮小な存在でも幻想郷を維持する以上、ルールは守らないといけないの。人間が居るから、妖怪は存在できるのだから。……全く、せっかく紫様から保守を頼まれたのに。外界との行き来はフィルタリングしているはずだから入ってくるのもおかしいのに、よりによってどうして戻ってくるんだかねえ。バグ取りは際限ないわね、フルオートメーションへの夢は遠いわ。紫様が起きられる前にどこが怪しいかだけでも洗い出さないと報告するにも格好がつかない。結局は用事ばかり増えて嫌になるわ」
「藍様、私お腹すきました」
「ええ、今夜はごちそうだったわね。少し待っていて。人間。お前もそこに座ってなさい」
顎先で指示されて、言われるままに掘りごたつの橙の隣に潜り込む。猫もこたつに半身を埋めると、卓上に上半身を蕩けさせた。
席は用意されたものの歓迎されている雰囲気でもないことは分かっており、せめて人ならざる者たちの機嫌を損ねないようにともぞもぞと姿勢を正した。やがて奥の、恐らく台所から香ばしい油の香りが漂ってきて、人間は自身がひどく腹を空かせていたことにようやく気が付く。思えば、いつから食物を口にしていなかったであろうか。非日常に迷い込んですっかり時間の感覚は失われて、肉体の欲求も希薄になっていたのが、ここに来てようやくのこと、卑近の問題として現れたようである。
橙と言うらしい猫妖怪とは会話があるわけでもない。それでも、緑の帽子からはみ出ている三角耳だとか腰から伸びる二股の尾が物珍しくて人間は不躾に眺めたが、橙は視線にすら興味が無いようで、そっぽを向いて気持ちよさげに卓上へと身を投げ出していた。各々、勝手に時を過ごしていたしばらくの後、エプロン姿の藍は大皿を持ってやってきた。
「おまたせ、橙。揚がったのから食べてていいわよ」
「やった。今日は油揚げね? 私も大好き。藍様も食べよ?」
「今日はごちそう、と言ったでしょう? 『メイン』をこれから揚げるから、もう少し待っていてね」
「わ……! やった、藍様大好き!」
箸置きの添えられた箸が三膳、取り皿も三枚、天つゆに抹茶塩も用意されて、人間の前にも同様に置かれる。大皿には、中身は分からないが何かこぶしの半分ほどの揚げ物が盛られている。猛然と箸を手に取った猫妖怪に習い、人間も箸を握り込めて、正体不明の料理に突き立てた。衣は卵にメリケン粉、片栗粉も少し加えているだろうか、油に熱せられてふんわりと発泡しており、箸を突き刺せば軽やかに砕ける。目にも輝かしいきつね色に色付き、熱の冷めやらぬ米油の香しい匂いをまとい、こがねのような美しさだ。湧き出る唾液を、喉から音を立てて飲み下しながら、口角が汚れるのも構わずにかぶりつく。どうやら肉の類らしくぷりぷりとした弾力が噛み締めた歯の根に伝わる。脂っこいと言うよりは淡白な、引き締まった肉質である。ぱさぱさに熱凝固しすぎているわけでもなく、生煮えでもない。適切な温度と時間を計測して調理する、藍のつまらないほどに機械的で几帳面な素質がそのまま現れた天ぷらであった。咀嚼すれば、嗅いだこともない獣臭が鼻腔いっぱいに立ち込めてむせ返りそうだ。それがどうにも癖になって、よだれが出てたまらない。小骨が口に残るので、脂に照る唇の端から指で摘んで吐き出す。揚げられた、恐らくは何か、知らない獣肉を飲料のように飲み下して、残りを口に押し込み、二個目も続けて口に放る。今更になって、腹が鳴った。ぐぎゅるる、と情けなく生理現象を告げて歓喜する自身の腹へ、久方ぶりの食事を押し込んでいく。骨を探り当てて指を油まみれにしながら吐き出して、わずか二、三回ほど肉を噛み締めて飲み、三つ目に手を伸ばす。
意気揚々と伸ばした手は、しかし細指の鉤爪が突き立てられて捕らえられた。
「ちょっと、何してんのコイツ……! 藍様の分が無くなっちゃうじゃない! だいたいこれ、アンタのもんじゃないし!」
「あ……すみませ……」
「人間風情が人んちに上がり込んどいてなんなのよ。本当だったらこの皿に乗ってるのはアンタだったはずなのに! 藍様が来るより先に仕留めておけば良かったんだわ……! 人間なんて死体になればどこの輩だって変わりないもの!」
細く尖った犬歯をむき出しにして橙は尾の毛を逆立てる。
「ひっ……」
突き立てた鉤爪でそのまま柔肌を破ってしまいたいという衝動を、わずかな理性で抑え込んでいるであろうことが、細身の少女のものとは思えない握力から伝わってきて、人間は身震いした。
「橙、それくらいにしておきな。心配してくれたんだね。で、それをお前が食べて良いとは、一言も言ってないのだけれど……」
呆れ顔の藍は次の皿を手にしてやってきた。皿の一枚にはたっぷりの細切りの玉ねぎと少し添えられた人参の細切りが鮮やかなかき揚げ、椎茸やみつば、ワカサギと思しき小魚が整然と並ぶ。もう一枚には、やはり肉と思しき大ぶりの揚げ物が乗せられていて、人間は欲望を隠しもせずに皿を覗き込んだ。
「お前は人間だからコレを食べてはならない」
ルールブックを読み上げるように宣言して、藍は人間から後者の天ぷらを遠ざけた。「これがなくちゃね」とつぶやいた橙がまるで目の色を変えて新たな肉をかじり、うっとりと咀嚼するのを見て人間は嫉妬の眼差しを向けるが、二匹の妖獣は無視を決め込んだ。仕方無いので、先に出てきた獣の天ぷらをもっと食べたいのだが、猫の怒りを買うのも避けたく、箸を掴んだまま空中で迷わせた。それを見て、藍はさも愉快そうに笑う。
「はは、何だ、それがそんなに気に入ったの? 人間のくせに気が合うじゃない。これは野ねずみのからあげよ。この時期に雪の中から見つけるのは狐の特技だけど、慣れてないとけっこう大変なんだから。味わって食べな」
肉の正体を明かされて人間は内心、悪くないな、と思った。何より、初めて藍から向けられた友好的な笑顔と、幼子の粗相を愛でるような物言いを受けて、身に余る多幸感に耐えきれず視線を逸らした。
藍はいただきます、とつぶやくと巫女から御駄賃と称して支給された半分のいなり寿司を口にする。
「この煮汁の出汁と甘い酢飯の使い方は里の豆腐屋のいなり寿司ね。お米もちょっと硬いし、いつから神社に置いてあったのかしら……まあそれくらいで腹を壊すほどヤワではないのだけれど……」
文句を言いながらも藍はしっかりと味わっており、よほどの好物なのか正直な尾がゆらゆらと揺れている。各々が食事を楽しむ中、人間も遠慮がちに玉ねぎのかき揚げをかじる。
「うぇ……ゲホッ、げぇ……」
口に含んだ瞬間に、何か、食べてはいけない化学薬品を舐めたかのような苦みと刺すような粘膜刺激を感じて、咽頭が反射的に吐き出す。見た目は食べ慣れたはずの、きっとほどよく火が通って甘みのある玉ねぎであるはずなのに、わずかな欠片すらも舌に触れることが苦しくてぺっぺ、とつばを吐いた。
「うわ、せっかく藍様が作ったのに何してんのよ……」
「なんだ。野菜は駄目なのか? まるで人間未満、寺子屋の童みたいなやつだな」
いよいよ藍が子供扱いしてくるので、相手にしてもらえた人間はあいまいにへらりと笑った。

食事の片付けは橙も手伝うらしく、人間は居間でひとり残されていた。失くしたスマホの行方が気になり右ポケットに手を突っ込むが、やはり入っているのはゴミばかりである。側に放り投げてあったコートも弄るが、やはり失せ物は出てくることはないようである。
片付を終えた藍は人間へと言った。
「夜は、人間は寝る時間だ。布団は敷いてあるからもう寝なさい」
「あの……」
「なんだ?」
いくぶんか交渉の余地がありそうな、比較的穏やかな藍の顔色をうかがって、人間は言った。
「あの、私のスマホ、知りませんか?」
「スマホ……? スマホって、何だそれは?」
「今月買い直す金ないんで……失くすと困るんです。そもそもスマホ無いとバイトも出来ないし、一応個人情報とか、あるし……」
「は……? つまりどういった物体なのか全く伝わらない説明なんだけど? 大きさは? 形は?」
「あ……。手のひらで持てるくらいの大きさで、四角くて、あ、画面は割れてます。直すのも面倒だし金もかかるしそのままで……」
話の途中で、黒猫が元気に割入ってきた。
「あ! 分かったわ、もしかして真っ黒で、割れてて、そのくせずっしり重くて裏面にぎょろぎょろ目玉が付いてる手鏡でしょ? あんな使いにくそうな鏡が欲しいの?」
「それ! それだと思う、たぶん。いや、鏡では、ないんですが……」
「あんな暗くて映りの悪い鏡で気に入ってるなって変なやつ。手鏡ならもっと良いのがうちにもあるわよ? ね、藍様?」
「ああ、この辺りは外の世界からの漂着物も多いし、お夕飯の所持品だったものもあるから、日用品には困らないね。そんなに大事だというのなら、どれ、一つ見繕ってやろうか?」
「あの、でも……」
人間はしばし悩んだ。スマホを取り返したいという現代人の本能がわずかな抵抗を見せていたが、妖怪狐から物を恵んでもらえるなど、こんな機会はもう滅多に来ることはないのではないか。これを逃したら一生をかけて後悔するのではないかという誘惑が、最終的には打ち勝った。
「それじゃ、欲しいです」
「ならば……ちょっと待っていなさい。うーん、そうだな……これでどうだ? どうせ捨てるか古道具屋に二束三文で売るものだ」
手渡されたのは小さな手のひらサイズのコンパクトミラーであった。鏡面は欠けもなく、自身のくたびれた顔と目が合う。裏返してみれば、確かに電源を落としたスマホの黒いガラス面を思わせるような漆塗りで、ラッパスイセンの装飾が施されていた。
「わ、すご」
「気に入ったみたいだな。そいつは好きにしな。今度は割るんじゃないよ」
人間は返事も返さずにベタベタと指紋をつけながら鏡を眺め回して、ひとしきり満足するとごそごそとポケットの中へとしまい込んだ。
「さあ、夜なのだから人間は寝る時間だ。布団と寝間着は用意してある。一度障子を閉めたのならば、間違っても部屋から出ようとするんじゃないよ。ま、出れっこないけれどね。どうしても厠に行きたかったり用事があるのならば、私の名を呼びなさい」
「はい」
半ば押し込められるような形で見覚えのある、六畳ほどの和室へと誘導されて、視線だけで促されて障子を閉めた。やることもなく、仕方無しに着替えを済ませて消灯し、布団に潜り込む。暗がりの中でも嫌に夜目は冴え渡り、中庭のある側の戸にはめられた曇りガラスから、わずかに照らす月明かりだけで天井の梁の年輪まで見通すことが出来た。眠気などやって来るわけもなく、勢いをつけて起き上がると迷いなく、引き戸を開け放った。
しかし、そこに中庭はなかった。廊下すら存在せず、冴えた夜目をもってしても見通すことの出来ない濃厚な闇だけが広がっているようであった。
「ああ、内側から開いた開いた! ……ふうん、これが家に囲い込んだ子ねずみね。藍ったらこんなおもちゃを隠そうとしていたの。あの子もかわいいところあるじゃない」
闇が、瞳を開き、粘ついた視線を絡めて、嘲りを含んだ少女の声で話しかけてきたものだから、人間は仰け反って尻餅をついた。闇は無数の瞳を見開いて、飼育箱の愛玩動物を覗き込むかのような好奇と憐れみを込めて無遠慮にこちらをぎょろぎょろ見下ろしながら、クスクス笑いで言葉を語る。
「へえ、これは……藍もまだまだねえ。春になったら教育し直さないと。これからどうするんだか、面白そうだしもう少し寝ていたいし……ふぁ……もうちょっとほっておこうかしら……」
「あ、ぁ、ぁ……あぁ! 藍様ッ! 藍様! 藍様ーーッ??」
「あらいけないわね……」
「藍様! 藍様、藍様……らん…………」
人間は、かすれた悲鳴を上げて藍を呼び続けた。刹那の出来事であったが、人間は丸一夜ほど裸で宵闇に放り出されたかのような恐怖と心細さに震え、しまいには喉から絞り出されるのは震えた吐息のみとなった。
「呼んだか?」
穏やかな声がかけられて、耳を塞いでいた両手を下ろして振り向く。あからさまに面倒そうな顔をした藍が寝巻き姿で立っていた。白い帽子もかぶっておらず、金色の両耳がひたり、とこちらに向けられていた。藍は、人間と開かれた扉を交互に確認して、ため息混じりの不機嫌そうに部屋の中に踏み入ってくる。
「お前、開けたな?」
藍が再び閉めた引き戸の隙間から見えたのは、やはり月明かりに照らされた、いつか見た木張りの廊下であった。
「お前がめんどくさいやつなのはよく分かってきたけれど、頼むから用事を増やさないでくれ。せっかく紫様も眠って居られるのだから、あまり刺激するな」
「化け物が……化け物が……」
「化け物? 何を今更……お前のことはいつ食ってやっても良いんだが、一度逃そうとした獲物に帰ってこられると私も躍起になってしまっているのかもしれないな……早く使い潰して捨ててしまいたいどうでもいい茶碗に限って割れないみたいなものなんだろうか……。さながら呪いの人形だな。まあ、とにかく、私が気まぐれを起こしているうちは用事を増やさないでおくれ」
藍は返答も待たずに部屋を出ていった。再び締め切られた室内で、今度こそ余計な手出しをする気にもなれなくて、逃げ込むように布団を顔まで被ってうずくまった。冴えた意識は落ちることなく、足先だけが冷たくてより縮こまる。恐慌状態の意識がようやく霞んだのは、夜と朝の境の頃であった。

 

(新刊へ続く)

2025年4月20日