【サンプル】一盃、溢盃

第23回博麗神社例大祭で頒布予定の新刊「一盃、溢盃」のサンプルです。

文庫 / 本文p78 / 小説 / 800円
ウツホヤシロ は18a

 

今回は紫様と藍様のおはなしです。
内容としては前書きの通りなので、珍しく前提条件として特に語ることは少ないかな?
ゆかゆゆ要素もあるぞ!
なのでさっそく本編に入りましょうかね。

 

 

一盃、溢盃 (いっぱい、いっぱい)

たかが一盃、されど一盃。
お次のお酌、とどめの一滴。
酒に心呑まれるか、
あるいは本性溢れるか。
溢れた貴女は何色か。

 

 

酒精にまどろむ意識は回る。
馴染み深い喧騒の彩りはくるくると、万華鏡のようにめまぐるしく映る。

絢爛に咲き誇る桜の庭に集まった者たちとは。呑み続ける者、つまみを食べ続ける者、自身もほろ酔いながら主人を嗜める者。
ごく見慣れた面々の、身内ばかりの会合とはいえ、九尾狐は久方ぶりにひどく酔っ払ってしまっていた。

自制が解かれ、酔いを恥じる思考も、もはやメモリの隅へと追いやられて。生きた脳髄を温めるアルコールに身を任せる。万華鏡が回るに合わせてくるくると、彩られた視界の真ん中に、ひょっこりと現れたのは配下の者。
「藍さま、おねむですか」
「いいえ、私はまだ飲めるわよお」
「どう見てもおねむですよ! もう、藍さまったら。お水飲みましょ? ひざまくら、します?」
「だぁいじょおぶよぉ……橙はお酒足りてるの? 河童が作った蒸留器の和蘭陀式の酒、あれはすごいわよぉ! 飲み下すと身体が内側からカッと燃えるような強さなのに、杜松果と枯れ草の香りがして、ひどく懐かしくて……あはは! あなぐらの仔狐に戻ったみたいだわ!」
「あんな、マッチを擦ったら火が出る代物、酒というよりただの酒精ですってば! 飲料というより燃料ですよ! また月にでも行く気ですか?」
「河童の燃料で、なんのしがらみもないただの狐が月に飛んだなら……兎狩りには苦労しないし案外、ここの生活よりも悪くないかもしれないね? なんちゃって、あーっはっはは!」
「わーん、藍さまが本格的に酔っ払いです……」
酔いどれた九尾狐、八雲藍の式神である黒猫妖怪、橙は主を持て余す。てのひらに温まった生酒を握りしめながら、猫耳をへなへなに倒した。
それを、ねぎま串を片手に、さも嬉しそうに囃し立てる幽霊がいる。
「あらあ、かわいいこと! もふもふたちのやり取りってやっぱり、見てて癒されるわ。うちにも、幽霊ばっかりじゃなくて一匹欲しいわねえ。あったかくてふわふわのやつが。ほおら、橙? 今のうちに弱みとか、心とか、尻尾とか色々、握ってしまいなさいよ。獣同士の下剋上なんて楽しそうよ?」
「それは絶対ムリです! ……というか藍さまの心と尻尾はもう握っているので……でも藍さま、たまにだけどこうなっちゃうんです。私じゃあ手に余りますし、困りますよう……」
「なんだかんだ、橙はしっかりと、藍の実力を認めているものねえ」
「実力? はよく分かんないけど……藍さまは私のこと好きですし。私も藍さまのこと好きですもん」
「あら、貴女は良い愛猫ねえ。じゃあ、そんな従順でいい仔な猫の手で、宴の片付けを全部まかせちゃおうかしら。きっと藍よりよく働くわあ」
「そんなあ! 藍さまお願い、寝ないでよお、私、お片付けとか自信ないですよう……白玉楼の食器も酒器も全部、年季も価値もすごそうだし……お屋敷もお台所も広くて何がなんやら、助けてえ……」
半泣きの黒猫をクスクス笑いながら、新たな串へと手を伸ばす久遠の幽霊嬢、西行寺幽々子に呆れながら割って入るのは、その従者だ。
「幽々子様、戯れはよしてください。橙が困っているじゃないですか。招待したのは我々ですし、藍様は優秀ですからつい、いつも甘えてしまっていますが。お客人に片付けの手を煩わせるのはそもそも、どうかと思いますよ。お料理だって配膳だってほとんどが藍様の用意ではないですか。まあ、私が用意するよりも、物も良ければ手早いですし、出る幕がないのですが……」
「何言ってるの、妖夢? 私達の仲じゃない。いずれはあなたと橙で集まりを回していく時が来るかも知れないわ。貴女も先輩としてしっかりと橙に『教育』しなくっちゃ。ねえ?」
「ええ……ぶっちゃけ、こんな気まぐれ猫を御するだなんて、藍様でなければ無理ですって……まだ私一人のほうが、仕事が早い気が……」
隠しもせずに嫌そうな顔をする魂魄妖夢へ、幽々子は微笑んだ。
「あら? 藍だって別に、まともに躾できちゃあいないわよ、ねえ、藍……ってあら、本当につぶれちゃったわよ」
ござの上で本格的に丸くなり、九つの尾をたっぷりと横たえる藍のことを、橙が懸命に起こそうと試みている。この後の片付けを思い、妖夢はやれやれと首を振り、幽々子は軟骨入りつくねの食感にご執心である。

 

そんな景色を睥睨し、八雲紫はグラスの古酒に唇を寄せる。

結界を幾重にも重ねたような、幾何学模様の切子グラスを置いてひとつ、深く、長く鼻から息を吐く。幻想郷の歴史よりも遥かに古い、琥珀色の古酒は、過去の記憶を誘う。
それは、人の子が代を重ねるほどには昔のこと。紫の生涯においてはさして古くもない、懐かしくも少しだけ渋い記憶だった。
(中略)

 

 

闇の最中で藍は目を覚ました。捕獲器の中はかすかな匂いも光も音も、情報など微塵も漏らしてくれることなく、冷え冷えと冷徹で、あまりの何もなさに獣としての本能はざわつき、否定してもしきれない恐怖が心の内側から蝕むのを自覚していた。

わずかな状況の変化も見逃すまいと身を硬くし、警戒心に急き立てられる胸の鼓動にいつしか疲弊し、もうどれほど時が経ったかも分からなくなった頃に、あっけなく静寂は破られた。
「ふぁあ……ああ、あるわね。やっと餌にかかってくれて良かったわあ……んー……んぅ……あら、結構、待ってたのかしら? ちょっと寝過ごした……?」
灯された光の中で声の主は眠たさを隠さずに目を擦る。ゆったりとした淡藤色のひとつなぎの寝間着、今で言うネグリジェを身にまとい、長い髪は起き抜けに梳かしてもいない。
涙の跡の残るその顔貌は、日本人形の清らかな肌と西洋人形の華やかな目鼻を併せ持ち、静止していれば恐ろしく整った人の子の少女の姿そのものに見えただろう。
しかしその所作は、ゆったりともったいぶっているようで、その実、そもそも恐れるべき事項などこの地上のどこにも存在しないとでも言わんばかりの余裕を漂わせている。見た目の年齢にそぐわず、胡散臭いほどの風雅な佇まいには、しかし攻め入る隙などどこにもない。常に自我と周囲を演算し続ける。過去と未来の狭間を計算し続けて、動く。
そして万物を高みから見下ろして、妖の世、霊の世、人の世を見飽きた標本箱でも眺めるような、どこかつまらなさそうすら思える視線で捉え、慈悲とも嘲笑ともとれない穏やかな微笑みを浮かべているのだ。

藍はその存在を一目見ただけでおぞましく感じる。心はすっかり圧倒されて、その身体は逃避すら放棄していた。

少女が、ネグリジェのスカートの裾を叩けば、目も覚めるような高貴な光沢を放つアメジスト色のベロアドレスの姿となり、金糸の髪は艶やかに、細かにリボンで結ばれた。
「うんうん、このスペックなら申し分ないわね。これからしゃかりきに働いてもらうわよ。貴女を手に入れるのも、そこそこ骨が折れたのだから。大事に使い倒してあげましょう」
「……は?」
一方的に告げられる「所有」と「労働」の宣言に藍の思考が追いつかぬうちに、少女はパンプスをこつこつと鳴らしながら歩み寄る。
「貴女、かつての傾国の九尾狐は、今は藍と名乗っているそうね。宵闇を名乗る獣よ。ならば貴女のハードはそのままに活かして使いたいから、名は壊さずに私の氏を授けるわ。貴女の端末名は今から『八雲藍』としましょう」
少女が、蒔絵の金でも置くような繊細さで、札を細指に乗せて藍の額にかざす。
すると、藍の意識に「既知の記憶」が書き込まれた。
「うぁ……ッッ! あぁっ、あが……ゴホッ、ゲェ……」
藍が生存してきた生身の記録に併存して埋め込まれたのは、見たこともないほどの規模の歩兵が城へとなだれ込む様。
騎馬の長の一声で歩兵が山城を駆け上がると、城壁の隙間からはこれもまた、見たこともないほどの人の群れが矢を放ち、投石する。打ち落とされた歩兵は血しぶきを上げて、砂塵のように転がり落ちていく。
諍いは扶桑の国のあらゆる地で勃発し、名乗りを上げた武人が、蜂起した農民が、血族入り交じる人間どもが殺して、殺される。人のもたらす災いに加えて、干ばつに、寒さに斃れながらもなお、それを上回る勢いで、あちらからも、こちらからも。沸き立つ熱湯のあぶくのごとく、次々と上がる赤子の産声の残響が鼓膜にへばりついて、藍に頭痛と吐き気をもたらした。
山肌を舐める火事のように人口は宵闇を侵食し、闇を照らし、効率を求めた殺戮は文明を渇望する。

その陰で、魑魅魍魎どもが存在証明に喘ぐ、弱々しい吐息が最後に、藍の耳をかすめた。

藍は、縄が解かれたように身体の筋を緩めるとひざまずき、頭を垂れて、眼の前の存在を呼んだ。
「八雲紫様……」
すると、品定めをする冷たい瞳で見下ろしていた紫は、ふっと相好を崩した。
「ああ良かった。とりあえず立ち上げは成功ね」
紫は納得すると、藍に背を向けて燭台の灯る文机に座り込んだ。その背中とて、とても首を取れるとは思えず、当然のこと、紫の方も藍に飛びかかられたとて大した問題にはならないことを理解しているだろう。唐突な放置を受けた藍はようやくのこと辺りを見渡す。

い草の香りの残る畳を踏むなどいつぶりのことであっただろうか。床の間には明から伝来のものだろうか、硬い筆致の漢書が飾られ、花は蕾の梅が、鈍色の焼き物に一輪挿しとして置かれていた。
本人の見目の華やかさとは打って変わって、かなりの老人趣味のようである。

藍は背筋を伸ばし、目線のみで調度品を確かめ終えると、喫緊の問題に悩まされる。元の住処の備蓄は心もとないもので、先の狩りで腹をふくらませる予定であったのだ。空腹の夜なら親しんだものではあるが、異常事態に連れ去られてきた緊張も相まって、乾いた喉奥がちりちりと痛む。
「あら、あなた燃料切れじゃない」
「はい?」
見透かすように紫が言うので藍の声は上ずった。
「家の厨とか囲炉裏は……ええと、めんどくさいわね、ちょっと待ってなさい」
そう言って紫は机へと向き直ってしまう。何やら筆を走らせて、しばらくの後に、藍の元へとズケズケと戻って来るなり、殴り書きの札を新たに憑けた。
すると、まるで長年住み慣れた家であったかのように、この家屋の間取と基本的な生活雑貨、煮炊きに必要な食材やら燃料やらの記憶が付与されていた。
「じゃあ、準備してご覧なさい」
「は……」
藍は軽く頭を下げると厨、すなわち台所へと向かった。

そこにあった食材というのは、見たことも嗅いだこともない質と量であった。醤にも似たかぐわしい調味料は味噌だそうだ。これだけ作るのにどれほどの大豆畑が必要か、なんと地上は豊かになったのであろうか、と。そこまで思考を巡らせてから、先にインストールさせられた現代の記憶の、あまりの人の気配の多さに気味悪くなり、感情のやり場に困った。

何よりも気になっていた壺を、手に汗を握りながら開ける。
壺の中身は本当に、薄褐色の粒子で満たされていた。湧き出る唾を飲み下しながら、甘美のきらめきを凝視する。これほどまでの量の砂糖は、かつて居た宮中でも見かけたことは無かった。
少しだけ、少しだけならば。と、糖分を欲する本能に抗えず、壺に手を差し入れて、爪の先を舐める。
わずかな粒で、舌が痺れそうなほどに甘い。脳が形を保てずに、汁を滴らせながら崩れるような心地がする。桃源郷の桃というのもこれほどまでに甘いのだろうか。畜生界の困窮した生活に慣らされていた獣の脳には麻薬の魅惑を持つ、壺の中身を二度目に漁ろうとしたところで。
脳天に鉄槌がくだされた。
「全く、しょせんはけだものね。ほとんど穀物荒らしのネズミと一緒じゃない。呆れた」
剛鉄の如き扇での一撃を受け、視界に星を飛ばしながら藍は謝り、惑った。
「あ、ああ、すみません、すみません。こんなつもりでは、こんなはずじゃあなかったのです……」
「私の目から逃れられると思わないこと。それと……そもそもあなた、料理はできるのかしら」
「いえ、あの……白状しますと、まっとうな文化に触れていたのも随分昔のことですし、長らく賊の暮らしでしたから。ここの食材の扱いも、現代の食卓というものも、お恥ずかしながら……」
「はあ。しょせんはムジナ並ってことね」
「ムジナ……」
「なにか文句でも?」
辱めに下唇を噛んだが、わずかな反抗心を紫は見逃さない。
「いえ、滅相もありません」
「でしょうね。じゃ、私の方で作らせるから。貴女は土間でも掃いてなさいな。それくらいは出来るでしょう。まさか餓鬼じゃああるまいし、土埃までは食べないわね?」
「はい、もちろんです。掃き清めるくらいでしたら私にも務まります」
「じゃあ。よろしく」
藍は背筋を正して一礼すると、土間へ向かって駆けていった。

 

一汁三菜を、二人の妖怪が横並びに突く。耳が痛くなりそうなほどの無言の中で、咀嚼音だけが救いに思えた。それでも、久方ぶりの、それも前の世の中よりずっと豊かになった食の魅力には抗えずに、藍は一心に箸を進めた。
ゆるく炊かれた飯が茶碗の半分くらい食べ終わる頃に、紫が問いかけた。
「今の、人の世を見せたわけだけれども。貴女はどう感じたかしら?」
「どう、といいますのは……」
「それくらい自分の頭で考えなさいな。何のために貴女にしたと思っているのよ。がっかりさせないで頂戴」
「そう、ですね……。宮中を追われてから長い事、畜生界に堕ちていましたが。あれだけの人間が群れているのも、争い合っているのも、見たことがありません。殺し合っているのに、それ以上にボウフラのように人間が増えていて……まるで異常です」
「ふむ。それで、この先、我々妖怪はどうなると思うかしら?」
「養分となる人間が増えれば我々も飢えることはなくなるのでしょうか。いや、そもそもこんな異常な人間の増え方は今だけのものか……いずれ落ち着いてくるのでは?」
真剣に思案する藍を見て、冷たい瞳の紫は口元だけで笑った。
「残念」
「どの辺りがでしょうか」
「何もかもよ」
紫は口では嘲りながら、憂いを帯びた瞳を細めた。
「正解はね。このままでは、いずれ妖怪は消えて果てるでしょう」
「ええ、まさかあ、そんなことは……」
からかわれているのかと、笑おうとした藍であったが、主の思い詰めた様子を捉え、口をつぐんだ。
「人間は増え続けて、闇夜を照らして、不可解を駆逐してますます発展していくでしょう。人間は増える。ただし増えるのは、神秘や幻を否定した人間ばかり。闇夜も松明で照らして、殺し合い、舶来の人間と交流しながら文明を発展させて科学で解体するでしょう。妖怪は否定され、やがて否定されたことすら忘れ去られて、妖怪は縮小していくでしょう。我々は人間を糧にすると同時に、人間に意識されなければそもそも存在すらできないのだから」
「……人の世は、豊かになったのですね」
「飲み込みが早いのは助かるわ。そこは私の見込み通りね。これくらいは理解してもらえないのならば、九つ尾っぽ付きの毛皮のストールにするだけだけれども」
「はは……」
恐縮して藍は笑うしか無かった。
紫は箸を置く。身を硬くした藍へ向けて、小首を傾げて、言った。
「つまり、これは誰かが動かなければならないことなの。私は妖怪を愛している。愛する妖怪の居る、愛する世界を存続させたい。そのための大仕事が始まりつつあるのだけど……さすがの私でも一人で捌き切るには難しい仕事量だわ。睡眠時間は削れないし、冬には眠ってしまうしねえ……。でも事は一刻を争うのよ。人間の戦乱の世が明けたならば、この流れは一層、加速するでしょう。豊かさを得た人間に、妖怪は勝ち目などないのだから。だから、貴女が働くのよ。作業は私がプログラムするから、安心して実行しなさい。それともまさか、たかが景色の断片と家の間取ごときでオーバーフローしただなんて言わないわよね?」
「はは、最初こそ驚きましたが、これくらいであれば大海に落とした燕の涙ほどにもなりません」
「よろしい。それでこそ貴女を選んだ理由なのだから」
紫は満足げにニタリ、と笑った。
「一度は賊の暮らしをした下賤な身ではありますが、紫様の仕事を謹んで実行させていただきます」
「ええ、そのようにプログラムしたからね。せいぜい期待しているわよ」
そう言う紫はそそくさと下膳しようと立ち上がる。
「待ってください。今度こそ私にやらせてください、下膳も皿洗いもいたします。もう一度挑戦させてくださいませんか」
「はあ? 何を勘違いしているのかしら。私の式神が貴女一人だと思って?」
「え?」
「皿洗いなんて単純作業こそ、意志無き低級式神に任せておけばいいのよ。貴女も洗い場に下げておきなさい、置いておけば式が勝手にすすいで収納するから。貴女は一日寝かせたら、明日から本格的に大きい式を順繰りにインストールするのだから早く寝なさい」
「そう、ですか……?」
「土間掃除も基本的にやらなくていいから。自走式の低級式である程度きれいになっているの。勘違いしないでほしいのだけれど、食事も式神が用意しているわ。家事用のはとりあえずでプログラムしたきり、動けばいいやで放置してて、ポンコツだから……たまに機能してないけど。そうしたら貴女がプログラムを見直して保守なさい」
「えっ、家事そのものではなく? 式を組む……? そんな、無理ですってば。そんなことやったこともありません」
「私が貴女に組み込むに決まっているでしょう。つべこべ言わずにさっさと寝ろ!」
一喝し、去っていく紫の背を見ながら、藍は大事に取っておいた残りの味噌汁を飲み干した。

 

翌日のこと。夕刻に妖怪が目を覚ます頃。式神に用意された食事を済ませると、早速のこと紫は作業に取り掛かった。

最初の作業は情報伝達の効率化だ。
生体脳による連続的な波形データでの処理は、式で制御するにあたって処理量がかさむ。その上、誤差が大きいため、確定した数値を入力しても必ず同じ結果が出るとも限らず、つまりは再現性に劣る。多量のデータ作業を安定してこなすにはそのままでは不向きだ。
よって、生体脳に対して、離散的な数値変換での情報処理に対応させる必要がある。
要はアナログ脳をデジタル式思考に対応させるのだ。

この作業もまた、生身の身体には得も言われぬ不快をもたらした。
特に、0と1のみの世界に放り込まれた瞬間が最悪であった。自己存在の肯定と否定の狭間で意識が明滅した瞬間には舌を噛みちぎりそうになった。だが、それすらも想定済みであったのか、予め噛まされていた猿轡を牙でえぐり、手足を縛られた身体で悶えた。

やがてひどいノイズの向こうから徐々にひずんだ音が戻ってきて、涙に滲んだ視界は角張り、それが徐々に滑らかさを取り戻していく。元のような、まるで滑らかに見える世界を知覚できるようになってくる。
否、更に通り越して、肌が、鼻が、知覚するこの世界の解像度がぐんと上がり、処理するべき情報の洪水に晒されることとなった。

倒れ伏した畳の目を数え、その冷ややかさから体温との温度差を割り出し、臭気からどこの産地のものか考え、ブツブツと独り言をつぶやきながら、い草の隙間に爪を這わせていると、紫から声がかけられた。
「どう? 少しは曇っていたおつむもマシになったかしら」
「あっ……! はい、やたらと、何もかもが鮮明で……」
「よろしい。それじゃあ、また明日、次の作業にかかるとしましょう」
「あら、今日はここまでですか……?」
不思議そうに呟く藍を見て、紫は少し目を見開くと、くつくつと笑った。
「貴女、何言ってるの? もう一日以上経っているわよ?」
「えっ……?」
藍は慌てて障子を開け、外を見る。今だからこそ、違いは如実に分かる。
月は、日にちひとつ分の身が欠けて、朱が差し始めた西の空に沈むところであった。
「でも、案外平気そうで安心したわ。さすがのスペックね。じゃあ、そういう訳だから。また明日ね」
紫はドレスの裾を叩いてネグリジェに着替えると寝床へと去っていった。

以前の藍であれば多少の動揺もあったかもしれない。
しかし、今は違う。
明日以降に施されるであろう、大量の式のインストールを思えば、余分な体力を使うことなく休息することこそが最善の選択である、と演算していたからだ。

 

そうして、紫による藍への作業は毎夜にわたって行われた。

藍は知覚が上がったことでより敏感に察知していたことがある。

一つはどうやら、主はこの作業を相当に楽しんで行っているらしいこと。
式のインストールとアップデートを繰り返すほどに藍の身体機能は向上していった。正確には、心肺機能や筋骨格はそのままに、より効率的な肉体の力学的なバランスの取り方やケアの仕方、息の抜きどころや全力の出しどころを掴んでいった。
紫が用意した式を相手にした模擬演習で、意地悪く惑わすように動作するその全てを、逆算して挙動を見抜き、最高効率で撃ち落としたときの主の口元は、広げた扇で隠されていた。
だが、その瞳はまるで、新しいおもちゃを存分に遊び尽くす子どものようにらんらんとした幼気な輝きを放っていたのを、今の藍は見逃さない。

もう一つは、いくら強靭な自身の主とはいえ、日ごとに疲労の色が滲むことであった。
それはごくわずかな変化であったが、まぶたは眠たげにたるみ、かすかな息遣いは重く湿っていくことに、藍は気づいてしまっていた。
しかし、それを自身の立場から指摘したところで聞き入れる主ではないことも既に理解しており、藍はされるがまま、いじくり回されるのを受け入れるしか無かった。

そんな日々は、桜の開花とともにやって来た来訪者によって破られる。

 

いつも通りに、計算され尽くした食事を手早く済ませ、作業に取り掛かろうかというところにその人物はやって来た。
自身の家という結界内に土足で踏み込んだ侵入者を察知して、紫はしかし敵意は見せずに、ただ鬱陶しそうな顔をして、黙って敷居を跨がせた。

「ふふ、来ちゃったわあ」
あの、主を相手にして。
雪のように軽やかで、花弁のように柔らかな笑顔を咲かせて、当たり前のように床の間に横座りでくつろいで見せる。天衣無縫の振る舞いの客人を前に、藍は呆気にとられるしか無かった。
「来ちゃった、じゃないわよ。何しに来たのよ、幽々子」
「何って、岩戸の前で一つ、愉快に踊ろうかと」
「あら、大神扱いとは光栄なことだわ。是非とも妖怪の夜明けは迎えたいけれどもね。でもね、私は拗ねて駄々をこねて引きこもっているわけではないの。言ったでしょう、仕事で忙しいのよ」
「こんなにも桜が咲いているのに何をしているのかと思いきや、ペットのお世話にかかりきりだったなんて、これはこれは、意外なこともあるものね。貴女って友達も少ないし、ついに寂しくなっちゃったかしら」
幽々子、と呼ばれた人物、正確には幽霊は、断りもなしに藍の金の髪をふわふわ撫でた。

かつての藍であれば金毛九尾の御髪に軽々しく触れるなどとんでもないことである、と激昂していたかもしれない。だが、現在の演算能力をもってしても常識が通じない領域に達している相手に対して、どうこうする気は起きるはずもなかった。
代わりに、主の友人と判断して丁重に挨拶する。
「お初にお目にかかります。恐れ多くも八雲の氏を賜りまして、紫様の式として働かせていただいております。名は藍と申します」
「あらあら! なんて礼儀正しくて謙虚な九尾ちゃんなんでしょ! 藍ちゃんね、覚えたわよ。私は幽々子って言うのよ、ああそう、私の匂いはこんな感じよ、覚えてくれたかしら。よしよしいい仔ねえ、もふもふって癒されるわあ」
藍を撫で回し、知人の飼い犬でもあやすようにほっぺたまでもちもちともみ始めた幽々子に、紫は苦言を呈した。
「あまり余計な刺激を加えないでくれる? まだ調整中なの。不安定になったらどう責任取ってくれるのよ」
「人数が増えていたのならば言ってくれればよかったのに。分かってたらもう一瓶、見繕ってきたわよ。今日はこのしけた最果ての家で、みんなで花を口実に花を見ない酒にしましょう」
「人の話を聞いているのかしら」
「これだけの妖獣だもの、飲めないってことはないでしょう。それこそ、さぞかし誑かす側だったのでしょうねえ」
「ええまあ、はは……」
苦笑いの藍をよそに、幽々子の文句は止まらない。
「紫もそんな疲れた顔しちゃって。そんなにこの仔にお熱なのかしら。楽しそうでいいこと。でも私達、いまさらそんなに一分一秒を争うようなモノでも無いでしょう。それに桜の時期の白玉楼にも来てくれないんだもの、友人としては心配もするわよ。桜が咲いたら皆で酒を飲む。そうやって時は巡るものでしょう」
藍が言い出せずにいた紫の疲労を、幽々子はずけずけと指摘する。だが紫は弱ったように額に指を当て、小さくため息を付いただけであった。
「そうね、言う通りではあるわ。しかし、まさか来るとは思っていなかったから……肴はそんなに用意が無いわよ」
「ええ、貴女の家の几帳面な料理には初めから期待していないわよ」
「効率的と言って頂戴」
二人の攻防に、藍はおずおずと割って入った。
「あの、私も肴を作っても宜しいでしょうか」
「貴女ね、家に来てすぐにやらかしたくせに、良くもそんな口がきけるわね。大体ね、そんな物は低級に任せておけば……」
「良いじゃないの!」
幽々子は無垢に声を弾ませた。
肯定を受けて藍は頭を垂れ、主へと進言する。
「その節には醜態を晒してしまい申し訳ありませんでした。しかし、やはり紫様のご友人とあらば、私がもてなす方が良いのではないかと愚考いたします。調理に特化した式には遠く及ばないでしょうが……酒のアテくらいでしたら私もお手伝いいたします」
「これは楽しみだわあ、キツネの手料理なんてめったに食べられるものじゃないもの。ああでも、多少の珍味は受け入れるけれど、ネズミの油揚げだけはやめてちょうだいね? スズメの唐揚げならば歓迎するけれど、羽はしっかり処理してね?」
「心得ております」
藍は一礼すると奥へと下がっていった。

「まったく、余計なことを……」
もはや悪態をつくしかない紫へと、幽々子は意気揚々と質問攻めにする。
「ねえねえ、九尾狐ってほんとうにまだ生きていたのね!」
「あれくらいで死ぬようなものでもないでしょう。殺生石は尻尾を切らない尻尾切りね。人間相手に分かりやすい置き土産で納得、安心させるための都合の良い餌よ」
「あんな高位の妖獣、初めて見たわ。本当に尾っぽがたくさん割れるのね。多くて重たくないのかしら」
「困っているのは私よ。あれ、けっこう毛が抜けるのよねえ」
「へえ。妖怪狐もこれから夏毛になるのかしら」
「知らないわよ。隙間という隙間から毛が出てきて、掃除の式神が目詰まりして追いつかないわ。いっそのこと、隙間という隙間にゴミ捨て口でも作ろうかしら、とか、考えてしまうわ」
「紫ってそういうの作るの好きよねえ」
「私はなるべく、自分で働きたくないの」
「どの口が言うのかしら、胡散臭い口は塞いじゃいましょ。はい、乾杯」
「はいはい、かんぱーい」
紫は、幽々子に注がれた清酒にさも仕方ない、といった風に口をつけた。

「お待たせしました、とりあえず私が用意したものをお持ちしました。他の式が温かいのを作っていますからしばらくお待ちください」
今宵の酒の香りを吟味している、ちょうど良いタイミングで藍が小鉢を手に戻ってきた。
「あら、大口叩いた割には早かったじゃないの」
「ごく簡単なものですが、私の計算ではこれは良い肴になるかと」
興味津々に幽々子は身を乗り出して覗き込む。
「どれどれ……これはふき味噌かしら?」
「はい。作り置きのふき味噌に味を足して、蘇を入れました。蘇、つまり牛の乳を煮詰めた乳製品は宮中でも貴重な珍味でしたが、私には親しんだ味でしたから。ふき味噌に砂糖と海塩を足して味を加えて、砕いた蘇を混ぜ込みました」
「うんうん、確かに、これはイケるわ!」
「説明を聞く前に食べてるんじゃあ無いわよ……」
幽々子はふき味噌と蘇の和物をちびちび舐めながら、おちょこをぐいと傾けた。
「ご飯と食べるには濃い味のふき味噌だけど、蘇のクリーミーさとあわさると、なんとも贅沢なおつまみねえ。これは進むわね! ちょっと残して明日になったら馴染んでもっと美味しそうだけれども……明日まで残っている道理がないわね」
「蘇だって私が大事に取っておいたものなのに、よくも勝手に使ってくれたわね」
不満を言いつつ、紫は小鉢を口にする。そして酒を飲み下し、渋い顔を作って言った。
「ふん。まあ、そうね。少し、甘すぎないかしら?」
「もう、そんなつまらないこと言って。紫の家の料理が味気無いのよ。藍ちゃんも、もう座って。一緒に飲みましょうよ。残りは几帳面さんたちがやってくれてるんでしょう。きっと標本みたいにきれいな料理を出してくれるから、一杯やりましょ」
「いえいえ、お二方とご一緒するなんて恐れ多いです」
「もう、藍ちゃんったらおかたいのねえ」
藍の腕を引く幽々子を紫は制止した。
「あまり甘やかさないでやってくれる?」
「そう? じゃあ『ちゃん』付けはやめるわね。藍、一緒に飲むわよ」
「そうではないのだけれども……」

紫が根負けしたことで、身分の上も下も関係なく、三人で卓を囲み、酒を飲み交わす。香りが飛ばない程度に温め直した煮物と、几帳面な焼色のついためざしをもりもりと平らげながら幽々子は尋ねる。
「こんな高級なスーパー式神まで拵えて、そんなに事は急ぐものなのね?」
「早いに越したことはないわ。全国で小競り合いをしてくれているうちが限界ね。天下統一がなされたら人間の増加と文明の発展は自明だわ。それだけの資源の余地と人間の血気がこの国にはある」
「この国が豊かに、にぎやかになるのは喜ばしいけれど……妖怪が苦しむのは私だって嫌だわ。困ったものねえ。人間も妖怪も、どちらも繁栄できる道はないのかしら」
「解明を突き進めた人間相手に妖怪の存在を保つのは無理でしょうね。存在そのものの曖昧さこそ妖怪の本分なのだから」
「それじゃあ、あれを進めるのね」
「そのための下準備ね」
藍は、久方ぶりの、酸っぱくなっていない澄んだ清酒に夢中になっていたが、話の質が変わったことを鋭い耳は聞き逃さなかった。
「そういえば、私はここに来てから式をインストールされるばかりの日々ですが。大局が掴めていません。改めてお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ、そう、目先のやることに追われていて話していなかったわね。私がやろうとしているのは妖怪の保護区を作ることよ」
「保護区……?」
「さっき言った通り。先進的な人間と妖怪の共存は極めて難しい。そして人間の発展があまりにも早すぎる。だからまずは姑息的に、妖怪が流れ込む場を作ること。これが今取り掛かっている、短期的な計画ね」
「なるほど、この国全体に大河のごとく妖の流れを作るということですか。途方も無いことを考えますね……。しかし、妖怪に比して人間が少なくなれば、糧が間に合いません。本末転倒であるのでは無いでしょうか?」
「そうよ。だからまずは、緩い結界で勾配を作ってやって、妖怪が集まりやすいようにだけ整えるの。人間も減りすぎない程度にね。長期的には、結界を強化して閉鎖して、妖怪の楽園を作る。存在を否定された幻想たちが集う郷を作ること、それが私の目標よ」
「なるほど。しかしそこまで閉鎖的な空間に人妖を閉じ込めたなら、人間はあっという間に疲弊してしまうのでは無いでしょうか」
「言うじゃない。だから、その郷でのみ通用する、妖怪が妖怪足り得るための人を襲うルールを作らなくてはならないわね。その頃には人の世も妖怪もどうなっているやら、細かい予想はまだ立たないから。少なくとも五百年程度はかかるでしょうし」
「そこまでの……年月を見越しての計画ですか。そのために、私も末端で働かせていただけるということですか……?」
関わる話がずいぶんと壮大であることに気づいてしまい、藍はおずおずと尋ねた。紫は不愉快そうに言う。
「何を勘違いしているのかしら。たったの獣一匹を傷つけないよう丁重に生け捕るのに、どれだけ私が気配を消して、細かく困窮させて餌を仕掛けてきたことやら……中々罠にかからないから、もうスペックを妥協して他にあたろうかと思っていたのよ」
「ええっ、全く気づいていませんでした」
「気づかれないようにしていたの。だからね、貴女には相応の働きをしてもらわなくちゃ困るの。向こう千年はメモリ増設でも何でもして使い倒すわよ」

藍は想う。
この横暴な主と妖怪のユートピアを築く五百年の後の未来を。
そして、もしかしてこれは。ユートピアの管理までも任せてもらえるという宣言と受け取って良いのだろうか、と思い当たる。

インストール続きの疲弊した身体に、久方ぶりのまともな酒精も手伝って、藍の気はすっかり大きくなっていた。
「そのような壮大な計画に起用していただき、ありがとうございます。紫様のお役に立てることが嬉しいです。この私、八雲藍はいつまでも、紫様と共に在ります。千年でも、那由多でも!」
「この馬鹿ギツネ!」
言うやいなや、浴びせられた罵声に藍は背筋を凍らせた。だが、続く言葉は案外に、弱々しいものであった。
「生意気な口を聞くんじゃないわよ。道具のくせによくも『共に在ります』なんて。ふざけた言葉が吐けたものね。キツネごときの妖力で私と対等に生きようなどと、思い上がるんじゃないわよ。……大体ね、忠誠心も式で弄っているのだから。意志と身体の所有権が自身にあると思わないこと。口の聞き方には気をつけなさいな」
「……申し訳ありませんでした」
どこか、釈然としない思いで藍が謝罪するのを見て、まあまあ、と取り成すのは幽々子だ。
「紫は私にも先に死なれてしまったものねえ」
「余計なことを吹き込まないで」
「それはそうと、紫は藍のこと、名前で呼んであげないの?」
「二人きりなのだから名指しする必要はないでしょう」
「それならば必要ね。これからはみんなで飲み会もお茶会もするのですから」
「幽々子、正気?」
「いくら式神と言ってもハードは妖怪なのだから。名前を疎かにしたらスペックも落ちるのではなくって?」
「それは、まあ……」
「それとも、もふもふちゃんに愛着が湧くのが怖いのかしら? こんな可愛い仔だものねえ、国も傾くわけだわあ。ほら、しっぽもふわっふわ!」
「ふわふわなのは幽々子の頭でしょう。分かった、分かったから。名前で呼ぶわよ。スペックを活かしきれないのは使い手の落ち度ですから」
「それが良いわね。可愛い飲み友達が増えて嬉しいわ」
「幽々子は酒より食い気じゃないの」
「あら、私はどっちもよ」
幽々子はとうに煮物を食べ尽くして、ついには乾飯にまで醤油を付けて涼しい顔でちびちび酒を飲んでいた。

 

(新刊へ続く)