レールウェイリィンカーネイション

※多くの死ネタと、パラレルワールドと、影山家の捏造を含みます。

幻想の電車に揺られて影山兄弟は旅をする。
あり得たかもしれない数多の兄弟の中でもいっとう、今在る兄弟こそがまばゆいのだ。
そんな感じの本です。

初出は2023年3月19日のジャンルオンリーであったようです。

律モブのR-18描写を含みます。エロに重きをおいてないので多分抜けません。

 

疑似箔押しでなかなかシャレオツな装丁でした。恐らく…(完売しているし、自分用の一冊もどこにあるんだ…?)

 

 

 

父方の祖母の家への帰省はちょっとした旅行気分だ。最後に行ったときにはまだ兄の茂夫も弟の律も、共に小学生であっただろうか。ほんの数年前、されど数年前。中学一年と中学二年の年子に生まれた影山家の息子らにとって、記憶が霞むのに十分な年月であった。
自家用車を飛ばして高速道に乗り、退屈な景色に兄弟が船を漕ぎ、再び起きたときには視界の開けた県道に降りていた。田には植えられたばかりの苗が居心地の悪そうに、申し訳なさげに風に揺れ、畑には耕されたばかりでふかふかの畝が幾重にも連なる。それが、延々と続くだけでも都市育ちの二人には珍しくて目を見張った。
「畑、あんまり植わってないね」
兄の茂夫が隣の弟、律に言う。
「そうだね」
ぼんやりと律が答えるのに割って入ったのは父親だ。
「この時期はまだ種まきの作物が多かったかな。あとはほら、あそことかハウス栽培かな。まあそのうちもう少ししたらわーっと芽が出てあっという間に緑になるさ」
「へえ、あなたそんなことに詳しいのね」
意外そうに言うのは一家の母親だ。
「昔は母さんに手伝いさせられたからな」
父は目を細めながらウィンカーを出した。

長靴を干しながら畑の端で火を焚く壮年の男が座り込む角を曲がり、いつ閉院したのかもわからないひび割れたガラス戸の歯医者を通り過ぎ、やたらと広大な回転寿司チェーンを横目に。父はカーナビもさして見ずに細い道へと入っていく。一つ二つ、まばらな家屋を数えながら、五本の指を使い切るよりも先に、車はある平屋の庭先へと入っていった。
車が停まるより先に玄関が開き、よたよた歩いて老婆が姿を現す。それを父はシッシ、と手を払い、制す。それでも無視してこちらへ来るので父は窓を開け、叫んだ。
「母さん、家で待って居てってば」
ようやく車から距離を取り、中学生の兄弟らの祖母にあたるその人は軒下へと身を潜めた。
家族が車を降りると、祖母は一目散にやってきた。まず労うのは兄弟らの母親だ。
「信彦がお世話になっておりますねえ、こんなところまでご苦労さまです。よくいらっしゃいましたねえ」
そして、待ちきれないとばかりに向き直るのはやはり、孫だ。
「あら大きくなった! 大きくなったわねえ、よく来たわねえ」
「お久しぶりです、トメおばあちゃん」
手を叩き出さんばかりに兄弟の成長を褒め称えて、兄弟は嬉しそうにしたり、照れてみたり。とっくに反応のレパートリーが尽きた頃にようやく、家へと招き入れられた。

引き戸の玄関を開けると染み付いた線香がふわりと香る。自宅より広い玄関に靴を脱いで揃えると、構造の分からない家屋の中へ父母の後に続いた。床板をきしきし鳴らしながら廊下を行き、台所を通り過ぎると居間が現れて。
真ん中の掘り炬燵には、先客が居た。
「あれ、あなたは……」
ぽかんと口を開けたままの父に、祖母が言う。
「お隣の家のお嫁さんとお孫さんよ」
「えっ……ああ、隣って。ええ?! まさか、かっちゃんの……?」
何故か祖母が誇らしげにウンウンと頷いている。お隣さん、父の幼馴染のお嫁さんは、控えめに笑いながら腕の中の赤ちゃんをあやすように揺らしている。
父はお嫁さんに言った。
「わざわざご足労いただきすみませんね。こんな、こちらは家族で来てしまって休まらないとは思いますが……ゆっくりしてください」
そして今度は祖母へと向く。
「……母さん。こんな、よそのお嫁さんに無理言ったんだろう。ダメじゃないか。お子さんもいるのに」
「あんたに会いたいってさっきまでかっちゃんも来てたのよ。中々来ないから一旦畑に戻るって言ってねえ」
「中々って……渋滞もあったし仕方ないだろ。というか、かっちゃんって。上京して工学系の就職も決まったんじゃなかったか?」
「脱サラして戻ってきたみたいよ。なんか、テクノロジーな農業? とかやるって言ってたわ」
「へえー! あいつやるなあ。今晩はじっくり聞き出さないと」
始まってしまった、延々と続く母息子のやり取りは他所にして。中学生の兄弟はお嫁さんの腕の中へと釘付けになっていた。
その小さな生き物は薄いブルーの、何か、もこもこを着て、鼻と唇を上下にモゴモゴとさせている。きょろきょろと視線を動かして、たまに目があうような、ないような。小さく手を振ってみたり、微かに目を見開いてみたり、唇を歪ませてみたりするが、反応があるといえるのかは微妙なところだ。首もまだ座らないのだろう。頭を、彼の母の腕に預けたまま、母の動くのに合わせて揺られている。
「こっちおいで」
お嫁さんは兄弟へ声をかける。母性の滲む優しげな笑みを浮かべながら。いたずらがバレた兄弟はびく、と肩を揺らす。誘われて側に座り、ジリジリと赤ん坊へと近付いた。
「触ってみる?」
こくり、と頷いたのは良いが、どう触ったら壊さずにいられるのかまるで見当つかず。手を半端に空に浮かせたまま、二人仲良く固まった。
お嫁さんはくすり、と笑う。
「ほら」
そう言ってごく小さな、かえでの新芽のような手のひらを差し出した。握手、ではこちらが大きすぎて場違いだろう。茂夫は判断して、人差し指を出す。筋トレのおかげか以前より節が太くなったようにも思える、体格の割に大振りな、暖かな指だ。震える指はかえでの葉の真ん中へと終いには触れ。
葉は、ヘソを押されたイソギンチャクのように急速に茂夫の指を捕えた。
「えっ……あ、え……?」
茂夫は頭が真っ白になった。握りしめる力は意外と強く、生まれたての肌はしっとりと吸い付く。引き抜こうにも、下手な力を込めて壊してしまわないかと心配で。かと言ってこのままで良いものかも判断つかずにまず律を見て、そしてお嫁さんを見た。

助けて。
全身から救難信号を発する茂夫を見てお嫁さんはくすくす笑った。
「そのうち放してくれるから大丈夫だよ」
「あっ、ああ……」
お嫁さんの言う通り、いつの間に赤ちゃんは手を開き、茂夫の指が去ったあとの手のひらをにぎにぎと動かしている。
「君も触ってみる?」
「えっ……良いんですか……」
律は遠慮がちに、しかし興味を隠せないといった様子でおずおずと手を出す。手のひらを裏返し、揃えた指の背で紅に染まる頬を撫ぜた。
「わぁ……」
張りがあり柔らか。たっぷりと水分を含んでいながらさらさらと手触りが良くていつまででも撫ぜていたい。しかし、まっさらな頬を汚してしまいそうに思えたので、最低限の感触を楽しんだ律は早々に手を引っ込めた。
「おっ、どれどれ……ふふ、目つきがかっちゃんそのまんまだあ」
おっかなびっくりの兄弟の間から、父が顔をのぞかせる。
「やっぱりそう思いますか? でも旦那は小鼻の方が私そっくりだって譲らないんですよ」
お嫁さんは恥ずかしそうに、でもとびきり嬉しそうに笑っていた。
「母が手間かけさせてしまって本当、すみません。ミルクやおしめもあるでしょうし、どうぞお帰りになって休んでください」
「いいえ、私も息子さんたちに会えて嬉しかったですよ。……それでは、お言葉に甘えて失礼しますね」
お嫁さんは兄弟をちらと見て、微笑みかけると、すっくと立って居間を後にした。

お隣さんのお嫁さんと赤ちゃんを見送り、一同は掘り炬燵に腰掛けていた。
テーブルに置かれた菓子盆にはサラダせんべいに一口羊羹、チョコレートのパイ菓子と透ける立方体のゼリー菓子とが、溢れんばかりに盛られている。隣には赤黒の二色で刷られたチラシを折った祖母お手製のくず入れも添えられる。
兄弟はそれらには手を出さず、祖母から手渡されたみかんを剥いていた。小ぶりで美味しそうだが、皮が薄くて剥きにくいみかんだ。そんな孫の様子を正面から堪能しながら祖母は言う。
「でも、シゲも律もあんたの小さい頃にそっくりねえ」
「そうかあ?」
「そうよ、こうやって真剣に何かしてる姿なんてそのまんま、あんたよ」
それを聞いた兄弟の母は興味深そうに会話に加わる。
「へえ、そうなんですか? そういえばあまり昔のお写真は見たことなかったわ」
「そうなのよ、確かあそこにアルバムがあったと思うのだけど……よっこらせっと……」
「ちょっと、いいって、母さん」
息子の制止を無視して祖母は、ごそごそと戸棚の奥をかき分けて、表紙がたわむほど分厚い緑のアルバムを取り出していそいそと戻ってきた。
「ほうら、この辺りとかどうかしら」
そう言って開いたアルバムの一ページ目にはおむつ姿でソファにつかまり立ちをする幼児の写真が挟まっている。
「あら……! これは……ふふ……」
そう言って、母は息子と写真とを見比べる。
「どう?」
その反応だけで存分に嬉しそうな祖母は、母を肘で突く。
「うちにほぼ同じ写真あるわよ、この口角の上がり具合なんて小さいときのシゲにそっくりだし、その頃は……律はまだベビーベッドだったかしら」
「そうよねえ、年子だからまた倍かわいいわよね。羨ましいわあ」
祖母は目尻をきゅうと細めながらページを繰る。

右下にオレンジの日付が記された、褪せたカラー写真は、男児の姿を時にピントをずらしながら、時には斜めに捕えながら並ぶ。それは、庭先の柿の木の低い枝分かれに登ったところであったり、おむつでこんもりとしたズボン姿で場所は動物園だろう、うさぎを両手で握りしめていたり、ただリビングの片隅で斜陽に照らされながらあぐらをかいて座っていたりする。
幼き日の父を膝に抱き、夕飯に焼き魚を食べる祖母の写真は面影を残しながら、兄弟が知るよりもずっと若い。
黄色い帽子を被ってスモックを着て、幼稚園に上がった頃だろうか、画面の端に見切れた木の幹役のお遊戯会の、次のページで父が口を挟む。
「お、幼稚園の運動会はアンカーだったんだよな。あの時は足が早かったんだよ」
「あらあんた、良くそういうことだけ覚えているわねえ」
祖母は笑う。
「そう言えば足が速いのってシゲだったかしら?」
祖母が兄弟の方へ顧みると、二人は固い表情をする。
「足は律のほうが早いなあ。運動会でもよくアンカーやってたしな」
父がからから笑いながら言うと、兄弟はこくり、と頷いた。
幼児はやがて学童になり、見て取れる表情も大人びた頃、ようやくアルバムは最後のページを迎えた。実父が文字通りに大地に立ち上がり、やがて自我を確立するまでを、大人ばかりが盛り上がりながら延々と古写真見せつけられてぼんやりしていた兄弟に、祖母はにこりと笑いかける。
「それじゃあそろそろお墓参り、行きましょうか」
ようやく外の空気が吸えるとなって気持ちが軽くなる中学生の二人であった。

 

だだっ広い駐車場で車を降り、大人たちの後をついていく。たまに変な形の墓石もあるが特段興味の惹かれるものでもなく、ぼんやりと歩くうちに目当ての墓に着いていた。
兄弟のやることは特に無く、何をして良いかもわからない。なので、大人たちが忙しそうに束ねた線香を準備したり、井戸水を汲んで来てブラシで御影石を磨いたりだとかをするのを手持ち無沙汰に眺めて、形式的に手だけ合わせた。親戚だとかいう、見覚えすら無い姓の刻まれた墓石もいくつか回って、同じようにぼんやりして、同じように手を合わせる。それが終わると、大人らは寺院へと向かった。
律は茂夫にひそひそ声で耳打ちする。
「お寺のおばさんって、あの……話が長い人だっけ……」
「そうだっけ?」
「うん……それも全部、この辺に住んでる人たちの親戚づきあいの噂話ばかりの……」
律は会う前からもう、うんざり顔だ。しばし考えてから、茂夫は言う。
「このあたり、散歩してようか」
「出来たら良いけど」
「うーん……」
浮かない顔の二人へと、振り返って父が声をかける。
「これからお寺の人とお話してくるから、お前たちは外で散歩でもしてるか?」
「うん。分かった」
「お前ら、ずいぶん散歩に乗り気だな……」
兄弟が声を揃えて前のめりに答えたものだから父はやや困惑していた。
大人たちが靴を脱ぎ日本家屋へ上がっていくのを見届けて、兄弟は軒から垂れ下がる鎖樋の横に陣取る。大きく伸びをした茂夫はついでにあくびも一つした。
「兄さん、疲れちゃった?」
「うーん、肩がこったかも」
「揉む?」
「いやいいよ」
涙の跡をごしごし擦りながら茂夫は断った。ふと思い出したように律は尋ねる。
「そういえばさ、父さんの写真ってそんなに僕らに似てたかなあ」
「よく分からないや。そもそも僕たちの小さい頃の写真だって見返すことほとんどないし」
「それもそうだね」
「お父さん、どんな子供だったんだろう」
「さあ……想像つかないなあ」
「そうだよね」

二人は黙る。まだ肌寒い、初春の風が吹き抜けて、二の腕を少し擦る。
そして、寺院の前を行き来する「往来」を眺めた。
律は茂夫に耳打ちする。
「……やっぱりお墓ってこんな感じなの?」
「割とそうかも」
「そう……」
寺院の前には、形すらもあやふやな、霊の気配がいくつも、いくつも行き交っていた。律にとって「力」に目覚めてから初めての墓参りだ。初めての「往来」の光景に、見て見ぬふりできょろきょろと見回している。
「律、落ち着かない?」
「いや、平気だよ」
「そう? でも……裏手に行こうか」
「うん。そう、したいかな」
律は兄の提案をありがたく受け入れた。
ほぼ記憶にない土地だ。あまり歩き回って迷っても困る。かと言ってあまり表に出て人目につくのも嫌であったので、二人は家屋の裏手へと向かった。障子戸を通り過ぎ角を曲がると黄土色に枯れた芝を踏みしめて、反時計周りに建物沿いにぐるりと進む。

寺院の裏はどうやら公園になっていたらしい。突然に開けた視界に戸惑いながら、腰の高さの生け垣の隙間を抜けて一歩踏み出す。乾いた地面から一転、境界線を引いたように現れた青い芝が、靴の裏を柔らかに受け止めて、意外な光景が広がった。
管理の行き届いているのだろう青々とした芝がなだらかな起伏に続いている。それを登り、そして降りると広い池が見えてくる。
泥の池には丸い葉がいくつも浮かび、合間からは薄紅が覗く。両手のひらを合わせて掬い上げるような、蓮の花だ。それが満開に、いくつもいくつも、咲いているのだ。
「すごいね、見事だ」
「本当だね」
「……でも蓮の花って、今の時期だっけ」
「さあ……」
やや訝しみながらも二人は、池の畔に置かれた小さなお地蔵さんの隣へと腰を下ろす。やはり大事にされているのだろう、赤い前掛けを着た、ふくよかな笑みを浮かべるお地蔵さんだ。
「きれいだね」
「うん」
ぬるい風は青く香り鼻をくすぐる。シロツメクサが揺られて水面を駆ける波のように緑は輝く。小さな花々の上を飛び交うのは目がさめるような黄色い蝶だ。爛漫の春を謳歌する生き物たちの姿は何とも平和に思えて、心安らぐものである。
まるで天上に昇ったような、極楽気分であった。
「兄さん、眠いの?」
隣で舟を漕ぐ兄へ、律は声をかける。
「いや、だいじょうぶ……」
「無理しないで、寝てていいよ」
「うん……」
茂夫は答えて目をつぶった。
律は、隣で空を見上げる。雲ひとつ浮かばない、深い青空だ。穏やかな春の昼下がり、空腹や寒さとは無縁なたおやかな公園にて。そう時間のかからぬうちに、弟の律も瞳を閉じる。
寝静まった二人の横で、お地蔵さんが華やぐように微笑んだように見えたのは。
気のせいであっただろうか。

 

たたん、ととん。

規則正しく床は揺れる。ごうごうと風を砕いて走るそれは敷かれたレールの上を行くのだろうか。

たたんととん、たたんととん。

それはまるで心臓の鼓動のように、決まったリズムが身体と耳に届いて。律はぼんやりと目を開いた。
いつの間に眠っていたのだろう。霞む目を擦ると辺りの様子を見渡した。四角い窓に、並ぶ席。白い三角の手すりが垂れ下がりぶうら、ぶうらと揺られている。それは律も良く知るありふれた電車のようであった。
乗客は見当たらないと思う。自分たちの他には。
「兄さん、起きて。ねえってば……」
「んう、うう……」
口の内でモゴモゴ言いながら茂夫も目を覚ます。
「どのくらい寝ちゃってた?」
「僕も分からないや」
「そっか」
律は座席に座ったまま振り返り、窓の外を見る。日が傾きほのかに黄色く色づいた空が広がる。見下ろしてみれば、あろうことか、山吹色に焼け始めた一面の雲が敷かれていた。
「兄さん、これって……!」
律は兄を見る。茂夫もまた、車窓を覗き込んで興奮気味だった。
「飛んでるね……!」
兄弟は顔を見合わせて笑った。幼児に戻ったかのように靴を脱いで後ろ向きに座る。電車の来た後に目を凝らしながら茂夫は言った。
「それじゃあこれは、どうやってレールが敷いてあるんだろう」
「どれどれ、うーん、見えないなあ……」
律も同じく目を細めるが、レールらしきものはどうやっても見当たらなかった。

「この環状線にはレールも、パンダグラフも無いですよ」

冷え冷えとした声にぎょっとして振り返る。向かいの席にはいつの間に居たのだろう、スーツ姿の壮年の男性が座っていた。律は己の行いの幼さを恥じて、少々縮こまりながら返答する。
「そんな電車、聞いたことないです。ならばどうやって動いているのですか」
「これは、蒸気でも電気でもありません。動くように出来ているから動くのです。音を立てて走っていると思うのはあなた方が、そういう電車に慣れているからです」
「……あなたは一体誰なのですか?」
「あなた方にはどのように映っていますか」
ネイビーのスーツに黒いネクタイを締め通勤カバンを持っている、ごく普通に電車に居そうなありふれたサラリーマン姿のその人を見て、律は答えに詰まった。
「見えているもの。電車に乗っているということ。あなたに親しみのある電車の乗客が私の姿。それがあなたにとっての答えです」
そう言うと、スーツの男性は席を立ち上がり二、三歩歩くと、大気に溶けるように姿は見えなくなった。

それきりであったので律は、身体は前に向けたまま窓の外を振り返る。
「見て、律。下の方で鳥が飛んでるよ」
茂夫は律にささやく。
「本当だ」
「いっぱい居るね。何の鳥だろう」
「V字で飛んでいるね、首の長さから……雁とかかなあ」
「へええ」
茂夫が感心した、その様子を見ながら、律は幸福を感じていた。
思えば、このように兄と二人きりで電車に乗るなど、初めてであった気がしている。幼子に戻ったかのように、律は内心はしゃいでいた。

「次はぷれーた、ぷれーた」
静かな車内に車掌の声が響き渡る。駅名は耳慣れぬものであったが兄弟は気にも留めずに、徐々に赤く暮れる空を堪能していた。
ややあって、列車は止まった。赤く燃えているような荒れ果てた地表がどこまでも続いている、殺風景な駅であった。住む人の気配もなく、生き物が住めるとは思えない。
扉が開いて、小さい人々が飛び込んで来る。煤けた防空頭巾を被った子供たちであった。年の頃は小学生に上がるか上がらないかと言った所か。旋風のような彼らは車内を駆け回る。兄弟はその活発さに押されて黙り込んだ。

「遊ぼう、遊ぼ」
「何して遊ぶ?」
「ケンケンパが良い」
「いいや、僕は独楽」
「私はゴム跳びが良いな」

烏合の衆ははしゃぎまわる。まとまらない群衆の中で、一際大人しそうな男の子は、地べたにしゃがみ込んで折り紙している。三角に折り始めて、まず出来上がったのは緑の折り鶴だ。小さい子供なりに尾も頭の先端も丁寧に折られた、見事な鶴だ。次いで彼は赤色の紙を取り出した。
今度は何を作るのだろう。茂夫が見つめる先で紙は横半分に折られる。折り目に沿って三角に折られ、やがてそれは飛行能力を宿す形へと生まれ変わる。
「あっ! 紙飛行機!」
子供らの群れで快活な男の子が叫ぶ。そして奪い去ると、思い切り腕を振りかぶって飛ばしてしまった。あ、と思ったのも束の間のこと。紙飛行機は、開いていた窓の外へ滑空する。
茂夫は咄嗟に手を伸ばす。だが、その結果は茂夫にとって意外なものだった
「あ、れ……?」
茂夫は超能力者だ。普段の彼であれば念動力を使い、折り紙一つを帰還させるのは造作もないことである。しかし、飛行機は止まることも戻ることもなく揚力のまま。
真っ赤な紙飛行機は紅に燃える空へと吸い込まれていった。

茂夫は手のひらを見る。確かめるようにプリズムに輝く慣れ親しんだ力を握り込もうとしてみてもやはり、何も起きなかった。
「あれ、力が……」
狼狽する茂夫が顔を上げると、そこは一面火の海であった。

 

視界いっぱい、どこもかしこも燃え上がっている。網膜すら熱く焦がそうとする炎の餌食は、目を凝らせば木造住宅らしかった。木造の、長屋やらお屋敷やらの家屋の一棟一棟が、区別もなしに容易く炎に飲み込まれて、焚き火のお化けのように燃えているのだ。どこか遠くではサイレンのような低く悲しげな音がウウー、ウウーと耳鳴りのように唸っている。
そんな、ほとんど地獄のような場所に居て、茂夫はへたり込んでいた。座りたくて座っているのではない。脚に力が入らないのだ。辺りはこんなにも燃え盛っているというのに、身体が冷え切るかと思われる飢餓感。そして喉をヤスリにかけるかのような口渇があり、脱力しきっていた。
「……ぃさん、兄さん」
「律!」
弟の声に、茂夫の身体は跳ねた。力の入れ方など解らなくなってしまった身体であるけれど。その声だけで、動かせる。
声の方へ、立ちはしない足腰を叱咤して、這い寄った。
「りつ、律!」
粘膜が焼けてひっつきそうな、ガラガラの喉で叫ぶ。律は案外近くに倒れていて、膝だけで立ち上がろうとしているところであった。
「兄さん、へいき? 僕は、大丈夫だから」
「そんなわけない。律だってふらふらじゃないか」
さあ、と差し出す律の手は震えていたけれど。悲壮なほどにこちらを見据える瞳に押されて茂夫は、力を込めて握り返した。

燃え盛る見知らぬ街を兄弟二人、支え合って歩く。ふらふらと覚束ない足取りで歩く目前に、焼けた柱が火の粉を巻き上げて倒れ込んできた。それをすんでの所で避けて、何処へ行く宛もなくさまよう。燃える街はカラカラに空気を炒って、乾ききった喉をさらに灼いた。
少しでも広い道へ、炎の遠ざかる方へと目指していくとやがて視界が開けた。辺りがあまりに明るかったのと、そんな余裕はなかったので気づかずに居たが、時は夜であったらしい。暗く沈んだ景色を見渡すと、どうも、ゆらゆらと揺れるものがある。
「川だ!」
「水だ!」
二人は叫んだ。待望の、大量の水を前にして心が躍る。

だがしかし、よくよく目を凝らしてみると揺れるのは水ばかりではなかった。
「あれはなんだろう」
「もしかしてあれって……いやまさか、ねえ……?」
そう、川面には大量の、何か人程度の大きさのものがいくつも、いくつも折り重なるようにぷかぷかと浮いては沈み、揺られているのだ。
「どうしよう、兄さん、まだ耐えられる?」
茂夫は正直なところ、視界はかすみ、意識も朦朧としてきていた。ただ、弟を心配させたくない。それだけの条件反射で「うん」と言った。
「……僕が様子を見てくるよ」
律は、河川敷の小石をざりざりと足を引きずりながら踏みしめてゆく。覗き込んだ水は黒黒としながら、何か、赤みが混ざっているようにも見られるのは映った炎の色か、それとも。
水面に手を差し入れるとぬめりとして、風呂の温度よりも高そうだ。水は水のはず。これで飲めたら、兄さんも。そう思って、律は液体を口に含む。意外と無味なその水を。
飲み下して律は、火を吹いた。
喉が焼ける。飲み下した、胃が燃える。身体のうちから吹き上がる炎に身悶えして律は倒れ込んだ。
「律ッ!」
駆け寄ろうとした茂夫は、脚をもつれさせて転んだ。強かに打った頬を拭うと、真っ赤に血潮がこびりついた。
「律、待って、行くから、律……!」
使い物にならない身体を捩り、かすかすの声を絞り出して。しかし今や「力」もない茂夫にはどうすることも出来はしない。
「ああ、がぁ、ああああ、ァァ……!」
叫ぶ律の声までもが燃えて、燃やされ、灰のように消え入るまで。茂夫は呆然と見つめることしか出来なかった。
やがて少年ぐらいの大きさの消し炭が静かに横たわるのみになった頃、茂夫は涙を流すことすら出来ずに唖然としていた。すぐ近くでサイレンが唸っている。地獄の到来を知らせる、忌々しい音だ。乾いた瞳で空を見上げると、真っ赤な飛行機が頭上の、すぐ近くまで降りてきて炎の塊をいくつもいくつも、落してゆくようであった。
「もう、どうにでも。なってしまえばいい」
呪詛のように茂夫はつぶやく。川に浮かぶ数多の焼け焦げた死骸とともに、茂夫の姿もやがて炎に包まれた。
「ああ! あぁぁ……!」
熱い、痛い、苦しい!
これまでの平穏だった気のする人生で、起こり得なかった鮮烈な苦痛に茂夫は悶える。散りゆく命の発する、最大限の警告だ。
でも、これが。律も味わった苦痛であるのならば。ならば、僕だってこの試練は受け取るべきおのだったのだ。
やけっぱちの気持ちの中で、どこか茂夫は充足していた。

茂夫ははっと我に返る。手の中では、赤い紙飛行機が手汗を吸ってしおしおになっていた。目の前には、先ほどの折り紙の男の子がやって来ていて、こちらをじい、と見つめていた。
「はい、これどうぞ」
茂夫が手渡すと黙ったまま受け取って、ほんの僅か頭を下げた。
子供らは、はしゃぎ疲れたのか電線に止まるカラスの群れのように座席をみっちりと埋めて眠りについた。
車内はすっかり静かになり、電灯がついて明るい。窓の外を見るとインディゴブルーのインクを流したようにすっかり暮れた空にぽつぽつと、明るい星が瞬いている。空の上、雲より高い場所から見る星々は、地上の比でなく鮮明に見えた。
「静かだね」
「うん」
律は振り返って星を眺める。何処か真剣なその面持ちが映る窓ガラスを、茂夫は見ていた。冷え冷えとした青い星が映り込む律の瞳をよく見ようとして前に乗り出したところで、律は茂夫の方へと振り向く。
「どうかした?」
「ううん。なんでもないよ」
「そう?」
直接に見た律の頬は暖かなオレンジに染まっていた。律は窓の外へと向き直る。その口元がさっきよりも嬉しそうに緩んでいたから茂夫は満足して、共に星を眺めることにした。

「次はてぃりやんちゅ、てぃりやんちゅ」
車内放送は相変わらず異国の言葉じみていて聞き取りづらい。電車の速度が緩くなると子供らは肩をつつきあって互いを起こし始めた。
「起きて起きて」
「降りなきゃ、降りよう」
「外は危ないよ」
「頭巾をかぶらなきゃ」
そう言って、黒く煤けた防空頭巾を目深に被り直すのであった。

「てぃりやんちゅ、てぃりやんちゅ、出発まで今しばらくお待ち下さい」
ざらざらとした車内放送があって、扉が開く。先程の折り紙の少年は兄弟の方に近付いてきた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
茂夫が言い終わるより先に、少年と子供らは、北風のように去って行った。

 

次の駅は、青々とした牧草地帯がどこまでも続いている。遠くを馬が駆けていて、大翼を拡げた禿鷹は悠然と空を舞う。きっとここは、野生の楽園のような場所だ。
開いたドアから、澄んだ大気と共に乗り込んできたのはなんとも奇妙な客たちだ。兎のような白く長い耳と柔和な黒い瞳を持ちながら、両の腕は翼と化し、足元は鰐のように黒光りする鱗がずらずらと並んでいた。こいつは兎頭と呼ぼう。次に乗り込んできた客は、足元は二つに割れた蹄をしていて身体はすすき色のもじゃもじゃ。髭面の顔には大きく垂れた耳がついている。こいつはとりあえず垂れ耳だ。
そんな奇妙な連中が乗り込むと、間もなく電車は動き出す。連中は、一度は向かいに座ったが、何か、兄弟を見ながらひそひそ囁くと、兎頭が立ち上がりこちらへとやって来た。
「お兄さん方、大丈夫かい?」
「何がですか?」
「そんな肌では大変だ。さぞかしお辛いでしょう」
そう言って、哀れみの目を向けるのであった。そう聞いた途端に兄弟は、寒いような心細いような、落ち着かない心持ちになって、鳥肌の立った二の腕をさすった。
「これで良ければ着ておきなさい」
兎頭は、もじゃもじゃとした栗色の毛の塊、恐らくは何かしらの獣の毛皮のブランケットを差し出してきた。
「お借りして良いんですか?」
「ああ、もちろんだよ。この先ぐっと冷え込むからねえ」
「ありがとうございます」
むっとするほどに獣の脂の匂いのするそれを受け取って二人まとめてくるまる。すると今度は、垂れ耳が近付いてきて言うのだ。
「お顔もそれでは危険だよ。危ない連中に目をつけられてしまうだろう。ぜひともこれを着けなさい」
垂れ耳が差し出したのは、演劇の中の舞踏会で見かけるような、顔の上半分を覆う黒い革の仮面であった。金のレースと金の装飾が施されており豪奢な印象を受ける。仮面に特徴的なのは、上部が獣の耳のように三角に出っ張り、尖っていることだ。
兄弟が早速、黒いゴム紐を伸ばして顔に当てると。
幕を引いたように視界が暗転した。

 

土埃を上げて赤い大地を疾駆する。躍動する体躯をぶるると震わせて台地のてっぺんまで一飛びに駆け上がる。脚をまっすぐ踏ん張り星空へと喉仏を晒すと、長い、長い遠吠えを響かせた。
生まれ落ち、土に塗れ、生き血を啜り、命を燃やす。狼男らの歓びの叫びだ。そして日課の、食事の報せでもあった。
遠吠えを止めて、寝かせた三角耳を頭上に立てて揃えれば、続いて「連れ合い」も口を閉じる。インディゴブルーの星月夜に緑の瞳が爛々と冴える。一閃、振るった雄大な尾が銀に輝く。
「行こうか、兄さん」
黒い鉤爪の生え揃った、しかし肌は人間とほぼ変わらぬ手のひらを差し出す。
「うん」
差し出された手を、等しい作りの手のひらが握る。
今や茂夫と律は狼男の同胞となれ果てていた。

赤く、乾いた台地を一息で下り、川沿いを駆ける。乾燥してはいるが、川の運ぶ養分のお陰で肥沃な土地だ。ここには鹿に烏、多くの虫に狐や兎まで暮らす。あらゆる畜生の楽園である。
楽園の土地は青々とした草を育む。二足で歩く「耳無し」の「けもの」によって囲われた牛の群れこそ、兄弟にとって最高の食卓であった。

 

二頭の狼男は電流の流れる棘の柵を掠りもせずに軽々飛び越え、牛の囲いの内へと躍り出た。怖気づいた牛たちを片隅まで一塊に追いやる。牛は襲撃者から片時も目を離さずに円陣を組み頭を下げ、狼男の腹など簡単に切り裂ける頑強な角をずらりと並べて守りを固めた。
「兄さん、そっち行ける?」
「分かった!」
茂夫と律は反対の方向へ走り出すと、柵から引き剥がすように回り込んだ。突然背後を取られた牛たちは慌てふためき、角の盾がバラバラに乱れた。
「今だ!」
茂夫は狙いを定めた一頭へと躍りかかる。喉笛を噛み潰そうとした牙はしかし外れて、牛の胸に一条の傷を負わせただけである。
「ブモーーーー!」
牛は悲鳴を上げながら群れの内側に入り込もうとする。そうなってしまっては茂夫も手出しが出来なくて尻込みする。
「ごめんやっちゃった」
律は振り返らずに叫ぶ。
「大丈夫、任せて」
律は地を蹴ると、何倍も体格の大きい牛の背に飛び乗る。そして八艘飛びの如く背から背へと飛び移り、群れの真ん中を切り裂いて降り立った。混乱しきった牛の激しい動きの中でも狙いは見失うこと無く、一条の傷を負った牛の喉を自慢の顎で食らいつき、潰した。

食事を終えて住処の洞穴への帰路でのこと。兄弟のけもの道を先に行く律が立ち止まった。
「待って兄さん。またあるみたいだ」
「また耳無しの?」
律が足元の砂を周りから慎重に退け始めると少しずつ金属質が現れ始めた。銀の輝きを放つ大きなトラバサミだ。これに挟まれたなら、どんなに屈強な狼男であっても力を失い、身動きが取れなくなるだろう。
「えいっ」
ふざけたように律がその辺の木の棒を投げ込むと、悍ましい音を立てて罠は口を閉じた。
「これでいいや、行こうか?」
「うん」
満足した二人は再び家路を急いだ。

住処へ着くと律はまず茂夫の薄く、柔らかな丸みを帯びた胸板を掴んで眺めた。
「大丈夫? やっぱりさっきの狩りで少し、傷ついてる」
「これくらい大丈夫だよ。それよりまた失敗して……ごめん」
「良いよそんな事。それくらい、僕に任せて」
「でも……」
茂夫は言いかけて、黙る。落胆する兄の胸に律は舌を這わせた。くすぐったくて茂夫は身を捩ったが、力の強い弟の鉤爪に囚われて、逃れることは叶わなかった。律は尋ねる。
「まだ痛む?」
「大丈夫だって」
「そう……」
律は舐め取った血液を飲み下すとチロリと唇を舐めて兄を伺う。応えて茂夫はぱか、と口を開けると一対の牙が暗がりに白く浮かぶ。幾つもの命を食いちぎった愛おしい殺戮道具だ。誘われた律は涎を垂らしながら兄の口へとむしゃぶりついた。
喰らい合いのようなキスを済ませて、潤んだ瞳で互いを見る。
「兄さん、好きだよ、好き」
「うん僕もだよ」
弟が泣きそうな顔をするものだから、茂夫は律を抱き寄せる。あの強くて賢い、この大地を統べる大狼たる律が弟であることは、茂夫の誇りであった。
だが、単純に弟の律が大好きである、と言った方が正しいのかも知れない。
「僕は、兄さんが兄さんだから好きなんだ。兄さん、大好きなんだよ」
「うん」
「本当に兄さんを尊敬しているんだ、兄さん、大好きだ……」
「うん……」
駄々っ子のような弟に、その怪力で抱きしめられながら茂夫は弟の背をとん、とん、と叩いてやった。
「律、もういいよ。おいで」
「あっ、あ……へへ。バレ、てた……?」
律は慌ただしく股間を隠したが、すっかり意味がないことを悟って手を退けた。若くともすっかり逞しい、力にふさわしい雄のものだ。準備の出来上がったそれを茂夫は戸惑いなく口に含む。
「ふ、ぅ……!」
甘い衝撃に律は呻く。おそろいの一対の牙を持つというのに、熟練した兄の口淫は蕩けるように甘い。根こそぎ持っていかれてしまいそうなディープスロートに律は、はくはくと熱い息を吐いた。
「はっ、ぁ、うぁ」
兄は顔を前後させながら目線だけで律を見る。気持ちいい? と尋ねているのだ。こんなにも骨抜きにされているのが分からないのだろうかと、律はいつも八つ当たり気味に思う。
「いい、良いよ、兄さん」
兄の髪をくしゃくしゃと撫でながら自身の快感を告げると、兄はほっとした様子でより、深々と咥え込んだ。裏筋をゾリゾリと舐めあげ、吸い上げられる感覚に律は背筋を粟立たせる。思わず兄の頭を抱え込みながら、律は達した。
どくどくと発射される臭気の強い体液を茂夫は一滴もこぼさず飲み干すと、赤い舌で唇を舐める。怪しく光る舌先に誘われて、二人は今宵二度目の口付けをした。

 

翌日。律が縄張りのパトロールに出掛けたのを見計らって、茂夫は住処から這い出てくる。息をひそめて、鼻を高々上げ、丘を駆け下りてけものの気配を探る。匂いを頼りに追跡し、射程に捉えたのは一頭の若い牝鹿だ。風下から忍び寄り躍りかかる。敏捷に跳ねた牝鹿であったが、迫っていた狼男からは流石に逃れることは出来ず、喉笛を噛み潰されて倒れ伏した。
しかし、茂夫は命までは取らない。これはただの練習なのだ。体格の頑丈な牛を倒すのにいつまでも律の力を借りている自分では居たくなかった。一度、耳無しのところの牛を食べてしまったならば筋張っててとうてい食べられないと、言う実情もある。しかし単純に殺しがあまり得意ではないという、珍しい狼男であった。
食い込ませた牙を離すと牝鹿は一度、よろけながら逃げていく。
ああ、これくらいの相手であればかなり良い線まで来たと思うのに。成功してなお落胆する茂夫であったが。

あたりの臭気が、危険信号を告げた。
ぎょっとして顔を上げると、幾匹もの巨大な犬が辺りを取り囲んでいる。耳無しのところの、狼狩りの犬だ。蹴散らすぐらいなら自分一人でも出来るだろうか。奮い立たせて真正面の一頭に噛みかかった。
取り囲んで、耳無しが来るまで時間稼ぎでもしようとしていたらしい犬は避けることは叶わず、頭蓋ごと脳をかみ砕かれた。
殺しは苦手だが。今は、別だ。
陣形の崩れた犬らであったが、守りだけではしのげないと見るや一斉に茂夫に飛びかかってきた。
この程度の犬ならば、行けるかもしれない。そう思いつつ、数の不利は歴然であり、ついに犬の牙を掠めた頬が、肉の焼け落ちるような痛みを発した。
「いっ?!」
全身の力が抜け落ちて、その場にへたり込む。はあはあと舌を垂らす犬を見ると、狼男の弱点、銀の付け牙を持っていた。耳無しが、犬の生来持つ牙を抜いて銀の差し歯を入れたのだ。狼兄弟を捕らえる、そのためだけに。犬のもつ生来の器官を奪い取って、入れ替えたのだ。
それからは、一方的な蹂躙だ。
これまでのうっぷんを晴らすように、嘲るように茂夫に噛みかかり、わざとひっかいて挑発するが、茂夫はもう、一歩も動くことは出来なかった。
「ヒュウ、兄の方は鹿で遊んでやがるから弱った鹿を辿れば必ずお目にかかれると思っていたぜ」
ついに馬に乗って耳無しが現れた。茂夫はもう、目線を動かすこともやっとで、最後の力を振り絞り睨みつけるも、弱々しい上目遣いにしか見えない。
「この悪魔め。盗人め! 今まで散々俺たちの牛を食い散らかしやがって。それに飽き足らず鹿いじめか。狼なんてのは本当に碌でもないな。地獄行きだ!」
そう言って悠然と銃を構えた。この体力と、至近距離での発砲ではもう逃げる余地がないだろう。茂夫は観念すると目をつぶり、長い遠吠えをした。
ごめんね、律。本当に、ごめん。
そんなメッセージを込めた悲痛な叫びは、一発の銀の弾丸で途切れた。

兄を喪って律は荒れ、狂った。
遠吠えを聞きつけ大急ぎで駆けつけたときには兄の血溜まりが残されるのみであった。賢く慎重な弟の姿はもう無い、平静を失った愚かなけものになれ果てた。
兄さん、兄さん! 叫び、死にものぐるいで兄の姿だけを探す彼は、ただのけものとして耳無しによって捕えられ、彼らの家畜の如く首輪を着けて置かれる辱めを受けた。だが耳無しの差し出すいかなる食事も、水すらも受け付けなかった。
律が平凡な腐肉となるまでに、そう時間はかからなかった。

電車の二人は、尚も仮面を被りながら、くるまった毛皮の中で身を寄せ合っていた。
こうして密着するのなんていつぶりのことであろうか。男兄弟であり、そんなにスキンシップのあるものではないので、小学生に上がるより前かもしれない。
何処か懐かしい気分になりながら、電車に揺られて行くのであった。
「暖かいね」
「うん」
毛皮の内で兄はささめく。
「小さい頃にさ、こうやってブランケットで一緒にお昼寝してたの、覚えてる?」
「そうだっけ?」
「ほら、車とか飛行機のキャラクターが書かれてた。子供用で小ぶりのやつ」
「ああ! そんなのあったね。今でも押し入れに入ってる。でも悔しいなあ……その時のことはあまり覚えてないや」
律は本当に悔しそうにしながらも、言う。
「でもほら、あれは覚えてるよ。お母さんに秘密でシーツ被ってお化けごっこしてた時のこと」
「えーっと……あったっけ」
「兄さんが取り込む直前のふかふかのシーツでやってくれたんだよ。中庭の物干しにかけてあったやつ。太陽の光で暖かくていい匂いがしてさ。段々盛り上がりすぎちゃって……」
「僕が調子に乗って他の洗濯物まで浮かせてたらお母さんにバレちゃった!」
「そう、その時の!」
二人は記憶が合致して、顔を見合わせてけらけら笑った。
「今だったら律が止めてくれたかなあ」
「どうだろう、もっと色んな物を浮かせちゃうかも」
「それはそれで楽しいかも知れないね」
にしし、と悪巧みをする兄弟を乗せ、環状線は無感情にかたことと廻る。
「次は、あすら、あすら」
単調な放送で行き先を告げ、空行く電車は幻想の車輪を回した。

ここで降りると言う兎頭と垂れ耳へと丁重にお礼を言って、毛皮と仮面を返した。
「お兄さんたち、よい旅を」
気の良い連中のようで、背を向けて異形の手をぱた、と振りながらモノクロの駅へと降りていく。

 

入れ替わるように、乗り込んできたのは大量の人の波だ。スーツ姿やオフィスカジュアルが殆どで、たまに学生らしき人や、おじいさんおばあさんも交じる。電車内は通勤ラッシュさながらとなった。
椅子に座っていても、前から隣の席から、おしくらまんじゅうのぎゅうぎゅう詰め。先程まで寒いほどに涼しかった車内は、あっという間に人いきれでむわりと湿っぽくなる。
「一気に混んだね」
「うん……」
とても正面からは窓の景色は見えなくて、周りの邪魔にならないように最小限の動きで外を見る。街灯の整列する現代の、都会の街並みのようであった。しかしコンクリートの建物群は何処か殺風景で、腹の底がひやりとした。対照的なのは夜空で、煌々とした満月が視線の位置まで昇り、満天の星空が零れそうなほどに輝く。

電車が動き始めると、大勢の人間たちも一塊となってぐわりと傾く。
「痛っ」
茂夫の足先を、前に立つ女の人がよろけて踏みつけた。伺うように顔を見たが反応は特になかった。
「ちょっと。兄さん、大丈夫?」
「平気だよ、ちょっとびっくりしただけだから……」
敵意を剥き出す律を、茂夫は宥めた。ただでさえ車内は殺気立っており、茂夫は気が気でない。少しでも自身の体積が邪魔になることが無いようにと固く、身を縮こまらせていた。ごとごとと重たげな音を立てて鉄箱は進み、息を詰めたまま時は過ぎる。
あと、どれくらいこの状態が続くのだろうか。退屈と居心地の悪さ。酸欠と火照りで、茂夫の意識は次第におぼろげになり、まぶたはいつの間にか、重くなっていった。

 

二人は夜の雑踏に居た。スクランブル式交差点のど真ん中でぼんやりと立っていたものだから、縦横無尽の人の流れに揉みくちゃにされて、繋いでいた手と手が離れる。
「あっ」
だがそれはほんの一瞬のこと。慌てて手を捕まえて、つなぎ直して、兎にも角にもこの人混みから逃れようと当てずっぽうの方向へ歩き出した。

大通りを避けて細い道へと入り込んでいく。やがて往来はまばらになり、スパンコールの赤いドレスを纏った煙草を吸う女が立ち、キャッチと思しき男は兄弟を無視して通りすがりの男へしつこく媚びへつらう。吐瀉物の中心で黒尽くめが倒れ伏し、その鞄は中身がぶちまけられている。握りこぶしよりも大きなネズミがその横を走り去る。
二人は思う。僕らは何処に帰るのだろう。帰る場所など、元より有ったであろうか、と。記憶は混濁していているようで。逃げ場のない都会の宵闇の中、世間から、常識から、学友らの嘲りから、大人の抑圧から。逃げて逃げ続けて。すり減った哀れな逃亡者であった。
「今晩はここでいっか」
「うん」
そう言って二人は、ピンクのネオンが途切れ途切れに灯る一軒のホテルへと入っていく。

学生の黒い詰め襟姿ではあるが、特段お咎めも無しにフロントの自動精算機を操作して、割安な部屋の鍵を取り出す。部屋までたどり着いた二人はダブルベッドに倒れ込んだ。気だるくて何処か悲しくて。疲労感が重くのしかかっていた。しばらく、スプリングの頑強なベッドの感触を楽しんで、ぽつりと言う。
「もう、疲れちゃったよ。とにかくお風呂入りたい」
「そうだね」
合意すると、二人は今更隠すものでもなしに恥ずかしげもなく服を脱ぎ散らかすと、風呂場へと向かった。
電気をつけると浴槽はスカイブルーのライトに染まった。軽くシャワーで身体を流すと早速湯船に浸かる。もちろん、二人一緒だ。隣合わせ、肩をピタリと密着させた男子二人分の体積に押し出されて、湯はざばざばと流れていった。
「ここイルミネーション地味めだね」
律はそう、評しながらお湯を掬い上げる。
「ジャグジーも別に要らなかったね」
「ふふ、本当にね」
そう言って茂夫はジェットを止めると、凪いだ湯船で律の肩にもたれかかった。

風呂から上がり互いに髪を乾かして、裸のまま既に兄弟はベッドで勤しんでいた。
対面で抱き合っている。律は茂夫を抱きしめて、指先で背をゆったりなぞって下り、臀部の薄い肉をふわふわと揉む。茂夫もそれに応じて決して、離れないように肩甲骨に腕を回した。
「ねえ、兄さん。僕たちいつまでこうしていられるだろう」
「大丈夫。大丈夫だよ。律が居るんだ。僕は律を離したりなんかしないから」
「でも、兄さんだって。兄さんだって辛いに決まっているだろ」
「それは……うん……」
密着する肌。薄い胸の内で燃えるのが伝わる心臓の鼓動。キリキリとした胸の痛みとがある。抱き合ったままごろりと転げると、細身の身体二つをベッドはぼふり、と受け止めてくれる。その感触の柔らかさに兄弟はとびきり嬉しそうにくすくすと笑った。

今や、二人を優しく受け止めてくれるものなど、ホテルのベッドぐらいしか無いのだから。

茂夫と律は戸籍の上では同じ籍に入っているがは、血の繋がった兄弟ではない。
「義理」が付く兄弟であり、同時に恋仲であった。

目と鼻の先にある愛する人の唇を食む。上唇を唇だけで挟み込んで離すと、今度は横向きに唇を咥えて。小鳥の挨拶のようなキスの合間でちらちらと目線が合って、その度に何度も、何度でもくすりと笑った。
緩む頬を眺めながら相手の手を取る。親指から小指まで、しっかりと絡め取って、つなぎ合わせる。そして鼻先を合わせてまた、唇を合わせるのだ。柔らかい粘膜をふやふやと合わせて、離しては、またくっつけて。こうしている時が二人にとって何よりもの至福であった。
唇を付けるだけでは飽き足らず、少しだけ舌先を出して、前歯をなぞったのはどちらが先であっただろうか。負けじと押し入る舌の侵入を嬉々として受け入れて、絡ませる。唾液を交換し、溢れ、飲み干して。ようやく満足して離れたときには唾液と、涙でぐしゃぐしゃな相手の姿があった。
そして、健康な若い体躯だ。幾度となく繰り返されてきた行為の経験のために、互いのものは期待感にゆるく立ち上がりつつあった。

茂夫は律のものに手をかけるとさすさすと上下させる。たまに自分でも自分のものを甘やかしてみる時に発見した擦り方を実践しているのだが、それで律が気持ちよくなってくれているかは分からない。恐る恐る覗き込んだ。目をつぶってはあはあと吐息を漏らして、時に肩を震わせながら下半身に全神経を集中させる弟を見てしまって。茂夫は思わず手が止まった。
「ねえ、兄さん、もう……」
「うん。僕も」
律はベッドサイドからパウチ入りのローションを持ってくる。ローションは流石にアナル用ではないが、少しでも潤滑してくれれば継ぎ足せばそれで良い。手のひらに出して少し温め、指にまとわせると茂夫の後孔へとゆっくり指を挿し入れた。
「んぅ……」
さんざ覚え込まされたアナルへの異物感だ。これからの快楽を予感させる、魅惑の違和感に茂夫の方とて居ても立ってもいられずに、小さく呻きながら身を捩った。
焦った律はもう一つパウチを千切ろうとして手を滑らせる。
「貸して」
そう言って茂夫は乾いた手で切り口を裂きながら、律でもこんなことあるんだな、と嬉しくなりながら、自身の性交の孔に注がれるローションを渡した。

「律。もう良いよ」
茂夫が、腰に馬鹿みたいな巨大な枕をあてがいながら宣言する。律はそれを聞いて、口をぽっかり開けたまま兄を見た。律儀な弟はこう宣言でもしてやらない限り、兄の尻の穴を解し続ける節があった。
コンドームは手持ちの物だ。学生鞄にいつだって、入っている
薄いウレタンを自身のものにくるくると巻き上げ、律は茂夫の秘所へと充てがう。挿入に慣れた「性器」はすんなりと愛する者を受け入れた。ようやく入ってきた愛しい肉棒を甘い蠕動で歓迎する。その柔柔とした動きだけで持っていかれそうになりながら、律は腰を動かした。

若い身体は貪欲だ。挿入してしまったら快楽をしゃぶり尽くすまで止まりはしない。がつがつとペニスを突き立てる度に、たっぷりと注いだローションがぐしゅぐしゅと泡を立てる。
茂夫はこの時を心待ちにしている節がある。父の再婚相手の連れ子であった義理の弟、かしこく頼れる、何処か自分に遠慮がちな弟が、唯一自身へ剥き身の欲をくれるから。
とだけ言えば聞こえは良いが、すっかり事に慣れた蜜壺は、勝手放題の律動から貪欲に快楽を吸い上げていた。茂夫の方とて、この背徳的な淫猥行為の虜になっていた。
「あっあぅあっあっ、あんっ! あっ、イく、いっちゃあ」
「兄さんっにいさん、イこ、イくよっ。一緒に、ねえ、」
二人は身体をひときわ密着させながら、てんでばらばらに絶頂の衝撃に打ち震える。びくり、びくんと跳ね回って、まだ足りなくて貪って、繋がったままキスをする。
「好き……好きだよ兄さん」
「律、僕だって……」
鼻と鼻とがくっつきそうな距離で義理の兄弟は、儚く愛を囁いた。

 

チェックアウトをギリギリに済ませて駅前のファストフード店で丸一日時間を潰した兄弟は、電車を乗り継いで都心から離れていた。夕暮れ時を過ぎて墨色の海原がざあざあと音を立てて水平線の向こう、視界の果にまで横たわっている。
そんな海と陸の境界、細長く続く防波堤に律は乗り、すたすたと歩いている。
「よく落ちないね」
感心して茂夫は言う。
「兄さんもやってみる?」
「いや出来ないよ」
「そう?」
「落ちないでね」
「うん」
律は涼しい顔をして防波堤から、茂夫の歩く道路へと降りてきた。茂夫の開くスマートフォンを覗き込んで言う。
「もう少しかかりそう?」
「うーん……もう少しかな」
「そっか」
人気のない田舎町だ。駅から降りてここまで来るのに誰とも、車とすらもすれ違わない。
ますますお誂え向きだ。二人はそう思った。

目的の場所へと着いたのはすっかり暗くなった頃であった。計画通りの願った通り。誰もいない断崖絶壁のてっぺんだ。二人は恐る恐る、崖のギリギリまで腹ばいで寄って覗き込むが、もうすっかり底の方は見えない。飲み込まれてしまいそうな暗闇を目の前に、兄弟は期待で胸が高鳴っていた。
軽い学生鞄から律はロープを取り出すと自身の身にスルスルと巻きつける。同じくロープを持った茂夫であったが、緩みが出てしまってうまく巻くことが出来ない。
「貸して、兄さん」
「ありがとう。僕、スマホで照らしてるね」
「助かるよ」
茂夫が照らす明かりの元、律は見事に細い腰へぴたりとロープを添わせてみせた。
「あとはええと、本結び……っと」
二人のロープの先を、律は事前の予習の通り操る。長い指先は数度ロープをくぐり、あっという間に左右対称な結び目を作り上げた。
「へえ、すごい。これで解けないんだ」
「ねえ、引っ張ってみようよ」
「そうだね」
そう言って二人は互いの側を掴んで引き合った。その結び目は想像以上に頑強だ。掴んで、揺すったぐらいでは緩むどころかより締まっていくようであった。面白くなってきてしまって力を込めてぐいぐいと引き合ってみて、逆方向へと走り出してみたりして。つまずいた茂夫に引かれて律も地面に倒れ伏す。土埃にまみれて地面に転げて二人は笑いあった。
「これなら大丈夫そうだ」
「やっと、終われるね」
「うん……」
兄弟は手と手を繋いで立ち上がった。
「行こうか」
「うん」
崖へ、そしてその先へ向かって。兄弟は一歩踏み出す。忌み嫌われるばかりであった現世からの脱出だ。それは二人にとって喜ばしいことである。
はずだったのだが。

 

(本当にそれで良いのか?)

 

茂夫のこめかみがズキンと痛む。それはまるで背後から頭の中に直接語りかけてくるような幻聴だ。ゆっくり、しかし確実に歩みを進めながら、茂夫のこめかみはズキン、ズキンと拍動した。

 

(君が律を殺すのか?)

 

しかもその声は、紛れもない。自分自身の声であった。
うるさい、うるさい。ようやくこれで誰にも邪魔をされずに律と二人きりになれると言うのにどうしてそんな事を言うんだ。
ようやく、これで終わることが出来る。
始まることが、出来るんだ。

 

(君は間違っている! 間違っているんだ!)

 

間違っているものか! 茂夫は心のなかで精一杯に言い返してやる。増す痛みと声量に、茂夫は震えが止まらなくなっていた。

 

(君が律を殺すのならば。僕は君を許さない! それだけは。僕が律を傷つけることだけは決して、絶対に許さない!)

 

「うるさい!」
たまらず茂夫は駆け出した。崖まであと半歩。リズムの狂った歩調で足を挫きながら。茂夫は真っ逆さまに落ちようとする。はずだった。
「兄さん!」
ギリギリで踏みとどまった律が、茂夫に結ばれたロープを掴んでいた。ざり、ざりりと、砂を掴む手が今にもずり落ちそうだ。
「律、なん、で……」
「ふ、ぅぅぅ……」
暗がりで律の表情は見えなかったが、その必死な息遣いは伝わってくる。
なんで、どうして。今更そんな。律。
力む律であったが、中学生の細腕には男子二人の体重を支えるのは酷なことであった。
「あっ」
身体が、命が。自由落下する。律にロープを手繰り寄せられて抱きとめられる。びゅうびゅうと吹きすさぶ風の中で、温もりにつられて涙が出た。

僕が殺す。僕が律を殺すんだ。
僕が律を傷つける。律に怪我をさせて、命まで奪うんだ。
僕が律を――――。

 

「そんなこと、ある訳がない。」

「次。つ、次は、(ザーーッ)ははは次。ははは……(ザザッ)は。次、は」
雑音の酷い車内案内が耳障りだ。茂夫は「力」で髪をゆらぁ、と靡かせてあたりを見渡す。満員の人の形をしていたものは輪郭を崩して失い、淡い紫の炎となって浮かび上がった。無数の人魂と化した何かと同乗しながら律は、茂夫にそっと耳打ちした。
「兄さん、これって」
「うん、なんだか様子が変だ」
茂夫と律と、満員の霊魂を乗せた電車は次第に速度を落として、次の駅のホームへと滑り込んだ。

「人間界。人間界」
霊魂は扉が開くと散り散りに飛び出していき、すう、と見えなくなっていった。乗客がすっかり降りてしまった伽藍堂の車内で兄弟は立ち上がり辺りを見渡す。
停車した駅には何もない。鉄の箱は支えもなしに宙に静止して浮かぶ。覆う天蓋は墜ちる流星がつい、つい、と無数に駆けるものだから、空ごと落ちてきそうな気がしてしまう。
乗客すら居らず、静止して開く扉の向こうへ。律は叫ぶ。
「誰か! 居るんでしょう、誰か!」
虚空へ向けた叫び声は吸われて返ってくることはなかった。
かに思われた。

「私ならば居ますよ。ずっと。ここに」
兄弟はぎょっとして振り返る。兄弟がずっと座っていた席の真正面、向かいの席にそれは居た。先の、スーツ姿の男性だ。それが、眼球の無い眼窩をこちらへ向けて喋っているのだ。
「あなたは誰ですか」
一言。茂夫が問う。
するとスーツはみるみるうちに裾からほつれて灰になり、張り付いた肌はぼろぼろとこぼれ落ちてむき出したのは骨、ではなく石であった。ネクタイばかりが残って赤く、広がって、前垂れとなる。
今や、そこに座っていたのは。こじんまりとした、石のお地蔵様であった。
「私は居ます。ずっとここに居りますよ。最初から。あなた方の、最後まで」
ふくふくとした石の表情で、お地蔵様がそう言うのだ。
「人の生など幻想です。たまたま今、在るだけの仮初の姿に過ぎませぬ。あなた方は素質がある。私の正体を見破るほどに。実に、素晴らしい力をお持ちです。まずは素直に称賛させて下さい」
「はあ……」
胡乱なものを見る目をしながら兄弟は相槌を打った。
「ようこそ人間界へ。まずは、お帰りなさいませ。輪廻転生の道のりを、長旅を。大変、お疲れ様でした。さぞかし苦しかったことでしょう」
「そうだっけ?」
「うーん……」
兄弟は此度の旅程を思い起こす。空飛ぶ電車、乗客たち。何よりも、久しぶりであったように思われる兄弟二人きりの時間。

そして。
茂夫は口を開く。
「色んな僕たちを見て、生きて、それで……。苦しくなかった、と言えば嘘になるかも知れないけれど。でも楽しいことも少しあった、……ような気がする」
「そうでしょう、そうでしょう」
訳知り顔でお地蔵様は頷いた。
「あなた方には力がお有りです。人間界のその先へ。輪廻転生からの解脱すら可能な、徳すら超える潤沢なお力。こんな所で止まっている場合では有りません。後一駅、もう一歩です。勇気を持って踏み出して、最上の景色をご覧入れましょう」
話についていけなくて、兄弟はぽかんと口を開けた。
「えっと……何の話ですか?」
警戒心丸出しで律が問う。
「あなた方は現世に、人の世にとどまっているには惜しすぎる」
「つまり。僕の人生を捨てろということですか」
「えっ、と。そういうつもりでは」
「そうなんですね」
律の確認に、お地蔵様は沈黙した。沈黙の末、茂夫がぴしゃりと言い放つ。
「そう言うことならば僕は大丈夫です。帰って筋トレしなきゃいけないし、最近宿題も溜めちゃっているし……」
「僕もお断りします。せっかく人生が楽しくなってきたところなので」
「ええっ……!」
お地蔵様は思ってもみない反応であったとでも言うように、仰け反った。
「生など酷い。生など醜い。生など辛い。生など苦しい。幾度も今際の際を見たあなたがたには分かるでしょう。儚い仮初の姿で居ることの不安さが」
「いや、帰ってやることあるので……もう降りていいですか」
「……せっかく後少しでしたのにどうして拒絶するんです」
「僕らはそれを望んでいない、それだけです」
「何故……何故だ。どうして、わたくしはこんなにもあなた方を気遣っているというのに。親切心で言っているに、なんで、どうして、どうしてどうして……!」
お地蔵様の表面がうねうねと脈動する。石が割れて中から出てきたのは真っ赤な肌だ。うねり、膨らみ、筋肉質の腕と脚とが生える。頭には金の角がぞろりと生え揃う。
それは、みるみるうちに兄弟の背丈を越して、地獄の大鬼のように兄弟の前に立ちはだかった。
「なんで、どうして。何故ですか……! 私はこんなにもあなた方を思っているというのに……!」
大鬼が握りこぶしを手のひらでわっと叩く。電車の扉が一斉に閉まろうとしたのを、律は超能力でどうにか制し、半ドアの状態となる。
「ここで降ろして下さい!」
「嫌です。させません!」
大鬼は拳を振り上げて、振り下ろす。幻想の動力で動く電車の車輪は、しかしぎしりと軋んで止まった。茂夫が、圧倒的な力の差でねじ伏せたのだ。涼しい顔で茂夫は問う。
「嫌って、何が嫌なんですか」
「人の生を見すぎた。人の死を見すぎた。もうたくさん。たくさんなんです!」
瞳いっぱいに涙を溜めて、睨みつける大鬼へ、茂夫は一歩、また一歩と歩み寄る。
「兄さん! 下がって! そいつ、正気じゃないよ!」
たまらない、と言ったように律が叫ぶも、茂夫は構わず歩みを進めた。
「なんだか、分かった気がする。かも知れない」
茂夫は鬼の足元で、鬼の目をまっすぐに見据えて言った。
荒ぶり、鬼は真上から叫びを降らせる。
「輪廻を、六道を巡ってもなお平然としている、あなたに何が分かるものか!」
「あなたは辛かったんだね。そして寂しかったんだ」
大鬼には、予想もしていなかった言葉のようで、しばしぽかりと口を開けた。
しかし直に、嘲るようにがば、と口を開けて、がらがら笑う。
「辛い? 寂しい? わたくしが? がははは、何を世迷言を」
「こんな所で一人ぼっちで、墓地を見守って。たくさんの死を見てきたんだ。死を見ることは生を見ることだ。だから疲れてしまったんだろう。生と死の、激しい往来に疲れ切ってしまったんだ」
「一体、なにを」
大鬼は一歩、後退する。その差を茂夫はすかさず詰めた。
「僕らだって、たまにこうやってお墓に来るだけでもたくさんの霊の気配に、人生の残り香に疲れ切ってしまうというのに。あなたは彼らの行く路を、ずっと見守ってくれていたんだね。それってすごく残酷なことだ。きっとたくさんの苦しみを、見守ってくれていたんだ」
「それは……」
「今までありがとう。僕らを救おうとしてくれて、ありがとうございます。でも僕らには必要ありません、大丈夫です。だからあなたが救われて下さい」
呆気にとられた大鬼を、茂夫は容赦なく抱擁した。
優しくも、「力」を込めた抱擁だ。大鬼は一つ、大きく目を見開くとプリズムがきらめき、八つ裂きに、砕け散った。
「きっと僕らにあなたの苦しみの程度を測り知ることなんて出来ないけれど。せめて安らかに。いずれ僕らも向かう場所で。待っていてください」

大鬼の、否、お地蔵様の力を失い、車両が瓦解する。突如足場を失って兄弟は夜空へ放り出される。流星の波に飲まれて、自分たちまで星になってしまったかのようだ。
落下しながら兄弟は笑った。「力」で体勢を整えて互いの手を両手で捕まえて、向い合せで落ちながら。二人は笑っていた。
「すごい、飛んでる!」
「そうだね、星が綺麗だ」
「ふふ、ふふふふ」
「帰ったら何しよう」
「兄さん宿題溜まってるんでしょ」
「う、それは……」
「早く終わらせてよ。新学期の準備も済んだらもう桜も咲いてるかも」
「お花見良いね。積んであったゲームもしなくっちゃ」
「ほんとうだ!」
束の間の空中遊泳は、かしましいものであったが。他愛も無い談笑は、春の夜の深い懐に抱かれた。

律の気が付いたときには、身体が凍えきっていて身震いした。目を開けると辺りはすっかり薄暗く、泥の匂いが鼻をつく。すぐ隣にぬくもりを感じて意識は急速に浮上する。
「兄さん、起きて! 兄さんってば!」
乱暴に揺すられた兄はもごもご何かを言いながらやがてぼんやりと、目を開いた。
「ぅぅ……どうしたの、律」
「大変だよ兄さん、もう夜になっちゃったみたいだ」
「ん……え? ええ?!」
慌てて茂夫も飛び起きる。昼間に眠ってしまってからどれだけの時間が経っていたのだろうか。しかも寝ていた場所というのが二人にとって衝撃であった。水草一つ浮かない、ちっぽけな泥水のなか。下半身だけ浸かって眠りこけていたのだ。これでは身体も冷えるはずであった。
「今何時だろう」
「とにかくお父さんとお母さんと合流しなきゃ」
「だね」
二人はざばざばと音を立て、水を滴らせて陸へと上がった。
その足元に、今や砕け散った石の欠片の山、そして褪せた赤の前掛けが落ちていることなど、気にもとめずに。

ぼうぼうの草むらをかき分けて、枯れた硬い芝を踏みしめて寺院の正面を目指す。次第に聞こえてきたのは呼び声だ。歩みを進めるごとに声は鮮明になっていき、やがて聞き取れるようになる。
「おーーい、シゲ! 何処に行ったー!」
「りつー、居るなら返事をして!」
それを聞いて兄弟はさぁっと青ざめる。
「急ごう」
「うん」
葉を髪に絡ませて、小さな枝を濡れた服にへばり付かせながら二人は寺院の脇から飛び出した。
「父さん!」
「お母さん!」
叫び声には即座に反応があった。
「シゲ!」
「律!」
影山家の、両親が息子らの元へと駆け寄ってくる。先に口を開いたのは父親だった。
「お前たち! 何処に行ってやがったんだ!」
広い境内いっぱいに響き渡る声で父は怒鳴った。
「こんな時間までほっつき歩いて。この放蕩共が!」
こんなに父を怒らせたことなどあったであろうか。しかし兄弟は自分らの行いに罪悪感が有り余るほどにあったので、ビクリと肩を震わせて、怒鳴られるがまま俯いていた。
だから。父の目が真っ赤に腫れていることなど、気づかない。
「シゲ! 律! 本当に、本当に探したのよ。良かった、無事で良かった……!」
そう言って母も駆け寄ってくる。飛び込んできて、並ぶ兄弟をまとめて腕の内に抱きしめた。
「あら、こんなに濡れちゃって……! 寒かったでしょう。こんな格好で一晩居たなんて早く着替えて温まらないと」
喜ぶ母であったが、ふと、引っ掛かりを覚えて律は聞き返した。
「えっ、一晩? まだ夕方だからそんなはずは……」
「お前たち、今が何時かも知らないのか……?!」
呆れたように父が叫ぶ。その声量に圧倒されながら律は尋ねた。
「えっと……今何時なの?」
泣き腫らした顔の母親は穏やかに教える。
「今は五時半よ。朝のね」
「えっ……!」
兄弟は絶句して辺りを見渡す。言われてみれば。まだ薄暗くはあるものの、大気は冷たく澄んでおり、空は次第に白んでいるのであった。
「その、ごめんなさい……」
茂夫はおずおずと謝罪を述べる。
「僕も……すみませんでした」
律もそれに倣った。
「良いの、もう良いわ。二人が無事ならそれで良かったわ」
噛みしめるように母が言う。母の震えた声を聞いてとんでもないことをしてしまったのでは無いかという実感が、今更になって湧いてきた。

父は寺院の横、居住家屋のチャイムを鳴らして興奮気味に叫んでいる。
「おばさん、見つかった! 見つかりましたよ!」
「あらあらまあ、怪我はなかったの?」
「取り敢えずは大丈夫そうで……うちの愚息が本当にご迷惑をおかけしました。……ほら、お前たちも来なさい」
「はいっ」
兄弟は小走りで急行した。
「本当にごめんなさい」
「すみませんでした」
外着のまま、寝間着に着替えてもいないおばさんは目尻にたっぷり皺を寄せながら笑った。
「こんな可愛い子たちが無事で良かったわ。大丈夫? うちで温まっていくかしら」
少し落ち着いたらしい父は丁重に断りを入れながら、愛息子らに声をかける。
「お前ら、そんなんじゃ寒いだろう。そろそろ帰るか。ばあちゃんも待ってるから」
「はい」
父の提案に、二人は俯き気味に頷いた。
茂夫は振り返る。少し古びた寺院は、明けつつある空に照らされて何処か寂しそうに、仄暗くそびえていた。

 

「忘れ物はない? しっかり時刻表見るのよ? ちゃんと帰ってきなさいね」
そんな母親からの再三の注意を受けて兄弟は閉口している。
「うん、大丈夫、気をつけていってくるよ」
「本当に気をつけてね」
「はーい、行ってきます」
ようやく家から一歩出ると、蒸し暑さにどっと汗が吹き出した。眩しい日差しの空を見上げると入道雲がもくもくと連なっている。今は夏休み。待ちに待った電車の距離の二人旅の日であった。旅、と言っても中学生二人なので日帰りではあるのだが。

兄弟はすっかり浮足立っていた。自分たちだけでの遠出など初めてのことだったからだ。
少なくとも、現世では。

「向こう着いたらまず何処行く?」
「お城跡も見たいけど、一番近いのはお土産屋さんかな」
「でも最初にお土産買っちゃうと邪魔になるよね」
「うーん」
行き先を自身らで決めるのもまた旅の醍醐味。うんうん唸り、汗を拭きつつ最寄りの駅へと歩く。
「あっお地蔵さんだ」
律が指さした道の角には屋根を造ってもらい、千羽鶴と空のワンカップの供えられた小さなお地蔵様があった。しゃがんでみなければ目も合わせられない大きさで、今まで気にしたこともなかった代物である。
「こんな所にもあったんだね」
「お参りしてみる?」
「うん」
二人は一瞬、手を合わせて、目的の地へと再び急ぐ。
そんな兄弟の後ろ姿を、道祖神は柔く微笑んで見送っていた。

 

 

 

あとがき
これはまた、へんてこな本ができましたね。死の匂いがすぐそばにある原作の中での兄弟の持つ、生命力の輝きを引き出すために、あえての死ネタを考え続けて六道輪廻を合わせた結果、こんなお話に仕上がりました。
ちょっとでも「兄弟ってそういう要素あるよね」と思ってもらえたならば嬉しい限りです。
影山兄弟の向かう人生という旅路が幸多いものとなりますように。
滑狐

 

 

【Web再録するにあたっての後書き】

変な本揃いの弊サークルの本たちの中でも特に変な本です。この前の新刊が変な本過ぎたので「これより変な本ってあったかな…」と考えていたら、存在を思い出しました。

誤字脱字と分かりにくすぎる表現だけを人力で変更しつつ読み返しましたが、まずは変な本だし、書きたいことに技術が追いついていなくて微笑ましいなあ…。の気持ちになりました。手を入れすぎると当時の空気感の標本としての質が落ちるし、いつも悩ましいところ。

2023年って3年前なんですねえ怖ァ…産まれた人が会話を始めるくらい時が経っている…