兄弟のエナジードリンクサワー

 きっかけはすてきな思い付きだった。

◇ ◇ ◇

――出ていって。
 かさ剥けの唇がかたちだけで伝える。声は、無い。その代わり、がさがさに乾いた喉笛から漏れた吐息が、痛ましくひゅう、と鳴いた。
 ひと呼吸、ふた呼吸。酸素を求めてはくはくと、浅くあえいで、ふたたび勢い良くむせた。
「具合、どう? 何か食べれそうなものある?」
 返答は、ごく微かな左右運動。そのまま拗ねたようにそっぽを向かれる。枕元に置かれたペットボトルをちらりと目視。水位、前回来訪時より変化なし。
 おでこには、さらさらな律の前髪が冷汗に萎びて、へばりついている。湿気にふやけた海苔みたいな無残な有様。毛束をかき分けて少しずつ梳いて取り、火照るおでこに撫で付けていると、瞼がうすく、開かれた。無言の訴えに茂夫は答える。
「僕はここに居るよ」
だってこんな律。放っておける訳、ないじゃないか。

 困ったように細められた瞳の元、下瞼は青黒く濁っている。そんな顔をしてくれたって、部屋から出ていってやるつもりなんかさらさら、無い。
 律が臥せって、はや数日。小さい頃からお世話になっているお医者さんは「ただの風邪だからゆっくり休めば大丈夫」なんて言うけれど。辛そうな律を見るのは、気が気でなかった。移ったって構うものか。風邪くらい僕だって最近よく、ひいている。茂夫にとって目下の最重要事項はただ一つ。
律が。今。苦しそうなんだ。
 頑固さを発動した茂夫は、もはや誰にも止められない。始めこそ、「シゲまで風邪引いたら大変でしょう」と諭していた母も、もうとっくの昔に諦めていた。健康優良児の中学生男子、風邪くらい引いたとしてもせいぜい薬になる程度だろう。それぞれに強情な男児二人を十余年まで育て上げた母の、そんな落ち着き払った打算でもあった。

 律の具合が良くなるために、何か出来ることは無いだろうか? 茂夫は思案する。濡れタオルはたった今、取り替えたばかり。あるいは元気の出る食べもの。それじゃあダメだ。水だって飲めていないのに。
 茂夫は虚を一点、じいと見つめて考えこむ。明日のバイトのついでに、師匠にも相談してみようか。それまでに今、手っ取り早くできること。例えば、超能力なら何が出来る? 念動力なんて有ってもモテやしないし、こんな時にだって何の役にも立ってはくれないんだ。相談したい時に限ってエクボはこのところ姿を見かけない。花沢くんなら気の利いたアイディアがすぐに浮かんだりするのだろうか。ダンシング戦法に、空鞭、器用な彼の使いこなしを一通り並べたところで、茂夫まで器用になる訳ではなかった。。
 他には、鈴木くん。この前の、鈴木くんのお父さんの時には、律がずいぶんお世話になっていたらしい。初めて会った時には怖い人かと思ったけれど。今度会った時には、きちんとお礼を言いたいな。あのときは少し、大変だったから。確かお父さんはエネルギーの移動が出来るから、あそこまで力をため込んだとか。そういえば僕も、鈴木くんに少し力を分けたっけ──。
 いや、待てよ。力を分ける? 
それだ。その手があったんだ。
 ほとんど天啓と言って良い。我ながらの滅多にない名案だ。茂夫の頭上に電球マークが乱舞していた。
そして微笑んだ。海よりも深くて山よりも静か。一点の曇りも無く、澄み渡った大空の如き慈愛に満ちた、天使の笑みだった。しかもその行動は炎よりも速い。決断、すなわち、ゴーサイン。心づもりを決めた茂夫の行動は、きっと宇宙を駆ける光の速度より、速い。
 まずはお試し。大切な弟だ。万が一のもしもがあっては絶対に、いけない。うんと弱めに出力を抑え、てのひらに纏わせる。たゆたう光をじっくりと、念に念を入れて馴染ませたなら、次いでそろり、と律の方へと仕向ける。慎重に、慎重に。もう少し。あと僅かで、律に届く。
ついに頬へと触れた光彩が、小さく火花を散らす。冬場の静電気にも満たないほどの、微弱なプリズムが律の身体へと染み込む。
 恐る恐る、律を覗き込む。眠ってしまったのかふうふうと、相も変わらず乾いた吐息を漏らしていた。ひとまずのところ、悪くなっていなさそうだ。茂夫はほっと、胸を撫で下ろす。
 ほんの少し、出力を上げてみる。少し。あともう少し、ちょっとずつ。律の様子を探り探り、こわれものを、ほんの指先で怖々と撫でるように、可能な限りの少しずつ、力に触れさせる。もしもサイキックでなかったらならば見ることさえも叶わない、青く揺らめくプリズムの破片が、弟を淡く染める。超常の力に照らされてぐったりと、力なく横たわる律は、この世ならざるもののようで。消えてしまいそうにきれいで。茂夫の胸の真ん中、いっとうやわらかいところを、ぞわぞわと無邪気に掻いた。

「……ぃ、さ」
「律?」
 微かに、でも確かに、弟の声を聞いたはずだった。もう一度、はっきりと聞き取りたくて弟を待つ。でも、それきりだった。それでも、茂夫は諦める訳にはいかなかった。「お試し」の成果をはっきりさせなくてはならない。律は、何とも言いあぐねるような、困った顔をしていた。きっと急かしてはならない、そう判断した茂夫はのんびりと、じいと見つめて、待ち続けた。時を置かずして根負けしたのは当たり前に、弟だった。
──なにをしてるの。
 やがて唇だけが、そう動いた。
「試したこと無かったから、うまくいくかどうか分からなかったけど……。どう? 気持ち悪くなったりしてない? 痛いところとか、ない?」
 熱に浮かされもうろうと、ようやっとの声なき疑問をきれいさっぱり受け流された。のみならず、質問に返された質問へ、弟は、より怪訝そうな面持ちでゆっくり、首を横に振った。

 茂夫は、ほっと頬を緩める。熱のぐあいを確かめるべく、律の額へ指先を宛がう。指先が触れると、青い光が軽やかにぱちぱち弾けた。
 おや。と、茂夫は思った。
 試しに人差し指から小指まで、四本指の背を添わせる。次いで、てのひらの全部で律のおでこをぺったり覆う。青いエネルギーはいっそうまばゆく弾け、余さず律へと吸われていった。その度に、ゆるく閉じた律のまぶたがふるふると波打った。
ふむ、なるほど。どうやらたくさん触れていたほうが、効率が良いらしい。また一つ、良いことを見つけたようだった。

 茂夫は、片方の手は律の額へ置いたまま、もう片方の手の甲に顎を乗せる。膝立ちになって胸板をベッドの端へと預ければ、律の瞳がぐっと近くになった。覗き込んだ瞳の中ではグレーがかった虹彩がとろとろと、崩れそうな危うさで潤んでいた。
「にぃ……さ、」
「うん」
「ぃ、い……にいさ、ん……」
「うん」
 ひび割れの声で、律は呼ぶ。茂夫は、ずいぶんながいこと、弟に会っていなかったように錯覚した。今になって、胸の欠けがしくしくと痛んでいたことに、ようやく気付く。けんめいな弟の声が、かぴかぴの喉奥につかえた吐息が声に遅れて漏れるのまで、茂夫に暖かく沁みてゆく。茂夫はただ、弟に応えて、促した。
 うわごとみたいな「にいさん」を繰り返す弟のおでこを、ゆるく開いた指先で撫で上げる。
「律、よかった。ゆっくり休んでね」
 前髪をよけたところへ、最後にこつんと、おでことおでこでごあいさつして、プリズムを収める。そして茂夫はひとまず部屋を後にすべく、立ち上がった。つもりだった。
 世界は不意に反転する。打ち付けられて、スプリングに軽く弾んでようやく、ベッドの上へとんぼ返りしたらしいと知る。おどろいて白黒させた目を瞬かせる。すぐそこに、真っ赤に熟れた頬があった。
「律?」
「……ね、兄さん、おねがい……」
 凛として涼やかに通る、いつもの律の、いつも通りの、「兄さん」だった。かかる吐息は、ひどく熱く、甘ったるかったけれども。
 茂夫のパジャマの胸元には五本の指が、獲物を決して離しはしない猛禽のように、頑なに。あるいは、ちいさな手の籠の内へ、こぼれんばかりのキャンディをつかみ取った幼子みたく躍起になって、食い込まされていて。いつもの律が、寂しんぼの子犬みたいな横暴さで懐いている。
 茂夫は為されるがまま、お隣へおじゃますることにした。縋る律からこれ以上、少しも離れはしないようにもたつきながら、どうにか布団へ潜り込んだ。
 少年が一人で眠る決して広くないベッドの上で、ずり落ちそうな掛布団にぎゅうぎゅう詰めにくるまって、ようやく知る。弟は、ちいさく震えていた。
 弟の肩を捕らえると、たった一度、ぶるりと身震いしてそれきり、狭い布団に潜り込み、兄の胸にちいさく収まった。
「まだ辛い?」
 返事は無い。
「僕、ここに居ればいいかな」
「……ぃ、兄さん、お願い、ねえ……、おねがいだから……」
 是非も無い、駄々っ子になってしまった弟の背をあやす。気怠げに熱い、引き締まった肩甲骨が茂夫のてのひらの上でびくびくと、引き攣るように跳ねた。そして、兄の腕に囲われながら、ふ、とも、ひ、ともつかない悲鳴じみた、くぐもるように漏らした息が、茂夫の胸を蒸し焦がしていた。
「ねえ、ねえ律。僕、どうしたら良い?」
 自身より少しばかり大きすぎる幼子の扱いに、茂夫はすっかり困ってしまった。やむを得ず、意地っ張りな布団のバリアをそろそろとどかして、ほっぺたを掴んで、顔をこちらへ持ち上げる。
ようやくお目見えした弟はもう、ほとんど泣きそうだった。そんな恨めしそうな顔をされても、泣きたいのは茂夫だって同じだ。
「りつ、」
「さっきの……」
「さっきの?」
「さっきの、きもちよかった……」
「ほんと? 良かった!」
 茂夫は喜んだ。単純に嬉しそうな兄を、弟はおびえる小動物みたいに睨み付けた。
「さっきの、きもちいの! もう一回、してください……!」
 弟は叫んだ。懇願というよりは、羞恥に耐えかねた悲鳴だった。どうにか零すまいと、目じりいっぱいに涙のつぶをため込んでいるのを、茂夫が気にかけて人差し指を這わせる。短く爪の切り込まれた、ほんの指先が掠っただけで大げさなほどに律が跳ねる。律の様子を確かに、じいと瞳に収めた茂夫はもう一度、プリズムを放った。
 定員オーバーのシングルベッドが青い陽炎に包まれる。あたたまった弟が、バターみたいなぐにゃぐにゃに蕩ける。あばらとあばら、おなかとおなかを張り付かせて、素肌越しに力を吸い取われると、すこし頭がぼう、とするようだ。

 否、素肌だって? 身に覚えのあるはず無い突拍子も無い感覚に、茂夫が一歩出遅れて疑問に思った時には、今まさに、パジャマのボタン、上から四個目が外されようとしていたのだった。
「いや、えっ? なにをしてるの」
 今度は、茂夫が困惑する番だ。たどたどしく、しかし正確に上着を取り払われ、あっという間におへその下まではだけさせられる。茂夫の、すべすべのみぞおちに頬を摺り寄せる律は、あろうことか、さも当たり前の手順といった風に、腰ゴムへと手をかけた。
「にいさん。じっとしてて」
 この方が、伝わりやすいでしょ。分かりやすくうろたえる兄へ、律は努めて平坦に言い放った。
茂夫の中でたやすく結論が落ち着く。弟は正しい。かしこい弟にそう言われれば、とりあえずは理にかなっている気はする。つまり、思考停止という選択だった。
 腰骨のわずかなつかえを乗り越えて、なだらかな下腹の丘まで降ろされていく。守るものが一切奪われた乳白色の薄い体幹に、律がへばりつく。
 唐突の、滑る感覚に茂夫は小さく悲鳴を上げた。ろっ骨の列をなぞるそれが律の舌先だと納得するまでたっぷりひと呼吸分、時間を要した。粘膜の通過した跡がひりつく。いちばん大事な部分を、直接に摩り下ろされて食べられているような、脅かされる感覚だ。だが不思議と不快ではなかった。削り取られた箇所から、焦げつくように沁みる熱に、むしろ高揚を覚えていた。
 意に反して喉がくうくうと物欲しそうに唸る。驚き慌てて歯を食いしばると、自分のものとは到底信じがたい、甘ったるい啼き声が鼻腔に響いた。子供っぽく思われるのともまた違う、はずかしく、はしたないことに思えて、茂夫は為す術無く身悶えした。なのに、耐え難いほどの羞恥を自覚してしまうとあまのじゃくな体はより一層、熱を孕んだ。
 兄が与えているのか、はたまた弟が吸い取っているのか。もう兄弟とも、分かっていない。兄弟は自然と、加速度的に、快楽をまさぐり、むさぼった。たどりついたのは、いちばんに身体の皮膚の薄いところ。一つに融けて、分け合うためにうってつけのばしょを的確に暴く。
 巡る悦楽を抱えきれずに、身体が、プリズムが、てんでばらばらに跳ねる。果て切って、泥の疲労に吸い込まれる刹那に見た律は、薄れる意識の見せた幻だったのだろうか。見る影もなくぐしゃぐしゃに蕩けた弟がそこには居た。それはもう、幸せそうで。こんなにも満ち満ちた弟さえ居るのなら、もうそれで充分かな。ほんの一瞬、そう思わせるほどの胸いっぱいの暖かさを抱いて、茂夫は幸せの沼底へ意識を手放した。

◇ ◇ ◇

 お決まりというべきか当然の帰結というべきか。だれもが期待した通り、茂夫はしっかり風邪をひいた。高熱に茹り、割れそうに痛む頭。灼ける喉は水さえ拒む。なるほど。これは苦しいわけだ。的外れに冷静な感想を、茂夫は抱いた。
「兄さん。入るよ」
 そろりと扉が開かれて、恐る恐る、うかがいを立てるように、弟がやって来た。りつ、と応えようとした吐息は声にならずに喉笛をひゅう、と鳴らすだけだった。
「薬、持ってきたから置いておくよ。母さんがおかゆ作ったって。少し食べてから飲んだ方が──」
 目も合わさずに、やたらと早口な弟へ腕を伸ばす。Tシャツの裾を引っ張って強引に引き寄せると、茂夫は声無く訴えた。
───。
 弟が生唾を飲む。隠しきれていない期待と、ほんの少し自信なさそうに泳ぐ瞳。そんな弟へ、茂夫は万感の想いを込めて、微笑んだ。

 そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕に出来たことなんだから、きっと律にも上手く出来る。だって律は、僕の兄弟なんだから。