律は机へ向かっていた。先の週に出された課題は昨日のうちに済ませてある。予習なら、再来週の分までをつい先ほど済ませたところだ。紙ばさみに入れてある、皺一つ付かない時間割表と、鞄の中の持ち物とを照らし合わせる。教科書、ノートの類は、よし。生徒会のアンケート結果集計も持った。体操服はたたみ終えて袋の中。保護者会出欠のお便りは母さんが帰ってきてからサインを貰わなくてはならないと、今一度確認する。いつもどおりの週末の、ありふれた夕暮れだ。異質なものは、ただ一つ。
部屋にはなぜか、兄が居た。
小さくノックだけはして、返事は待たずに平然と、部屋へと上がり込んできた兄は、飾り棚にちんざまする人形のように静かに、こぢんまりと、ベッドの上で体育座りに収まっていた。もしくは座敷わらしのように、部屋の調度品の一員としてすっかり溶け込み、居座っていた。
ついに最後まで、やるべきことを終えてしまった。適当な暇つぶしの材料もあることにはあるのだが、さすがの律も兄をよそに、スプーンを曲げ伸ばすという、極めて非生産的な趣味に興じるほど分別を弁えない訳ではない。何よりも律本人が、かのささやかな、趣味とも癖ともつかない手慰みを、よりによって兄に見られることは恥ずべきことと捉えていた。かくして律は、目的不明の来訪者へとついに向き合うこととなった。
「律、やること終わった?」
振り返った弟へ、茂夫は待ちわびたように間髪入れず声をかけた。
「えっと。まあ、うん。兄さんは?」
「うーん、だいたい、かな? 英語の穴埋め問題で過去形か過去分詞か分からない所があったから、あとで教えてもらえる?」
なんだ、そんなことだったのかと、律は快諾した。そして、密かに安堵した律へ、兄は「そうだ、それとね、」と、付け加えた。
曰く、兄の提案とは。少し疲れてしまったから、休憩しに行かないか。との打診だった。ちょうど良くひと仕事終え、心地よく疲労したところへの魅力的なお誘いに、普段の律だったならば二つ返事で付いていったことだろう。しかし今日に限っては、あまりの気まずさに二の足を踏んだ。とは言え、断る理由はつい先程、終えたと告げてしまったばかり。逃走の余地を自ら断ったことに気づいた時には既に遅し、結局のところ、律は「うん、いいよ」の二言のみで、兄とともに階下へ降りることとなった。
◇ ◇ ◇
問答無用のエスコートによりリビングルームのソファに一人、座らされ、兄はキッチンを漁りにいった。やがて、そう経たぬうちに帰ってきた兄はカップアイスをただ一つのみ、携えていた。もう片手にはティースプーンも、一つだけ。たったそれだけを目にして、律の脳裏には、昼間の失態がそれはもう、ありありと、酷なほどの鮮明に思い出された。
「その、……ごめん」
消え入るような謝罪はそのまま、兄弟二人ぼっちの、がらんどうのリビングに吸い込まれていった。兄はまるで意に介さず、アイスの蓋を外し、のんびりとビニールの封を剥がしていた。もしかすると、自分に向けられた「ごめん」であるとは、夢にも思っていないのかも知れない。それほどの見事な無反応だった。
事実、律自身にも、一体全体何に向かって、何から謝ってよいやら、まるで整理が付けられずに居た。無言のまま放置されたいとまに、一通り、罪の在り処を探してみる。ひとつ、食べ物を粗末にしただとか。ふたつ、お行儀が悪かったな、だとか。聡明な思考回路は、核心からあえて距離を取るという防衛本能を最優先に、堂々巡りの現実逃避にせっせと勤しんでいた。
兄は、冷え固まったカップを両の手で挟み込み、ころころ転がして温める。そのついでといった風に、喋り始めた。
「アイス、食べたくなったから。律も一緒に食べるかと思って」
律の知性が懸命に守っていた核心が、為す術無く曝け出される。律にだって言いたいことは山ほどあった。もうそろそろ父さんも母さんも帰って来て夜ご飯になるだろうから食べられなくなっちゃうよ、とか。二人で食べるのに、どうしてアイスもスプーンも一つなのだとか。あるいは、一緒に食べるだけならば、どうしてファミリーサイズのソファの上で、こんなに近くへと迫ってくるのだとか。
しかし、どれもこれも、弟に関してはこの上なく的確な兄の慈悲から逃れるには、まるで役立たずのガラクタの山であるとも理解していて、何一つ言葉には出来ず、口を噤んだ。
食べるよね? 念押しの確認のつもりなのか、だんまりを決め込む律へ、ほとんど死刑宣告にも近しいそんなことを改めて、尋ねてくる。
すっかり痺れた脳髄命令の自動操縦でほとんど頷きかけた、その時に、耳をつんざく電子音が鳴り渡った。己の中の大問題に没頭していた律が現実に帰り、それが固定電話の着信と気付くより先に、動いたのは兄だった。
「もしもし影山です。……あ、お母さん」
子機を取った兄は、さっさとソファへ帰ってくると深々、背中をクッションへ預けた。半ば寝転がりながら、耳と肩とに電話機を挟み込み、自由にした両手にアイスを取る。律のだんまりの分だけ、兄のてのひらの体温にたっぷりとろけたふちのまわりを、スプーンですくう。冷たいばかりの液状になったクリーム色を薄くこそげて、口に含みながら茂夫は喋る。
「うん、うん。…………うん、やったよ。うん、誰も来なかった。……そう、特になんにもなかったよ」
適当に挟み込んだ子機がずり落ちそうになって、茂夫はわずか、肩を持ち上げた。それに合わせて指先に軽く摘まれた匙の先が、大きくぶれる。律が、あ、と思った時には、白いしずくはすでに宙を舞っていた。
律はしずくの行く先を見つめていた。あろうことか、兄の素肌へと降り立った。そうして首元を伝い、べたべたと白い軌跡を残しながら、胸元のごく浅い丸みを帯びた骨の張り、鎖骨の縁をたどるのを、食い入るように見つめていた。
不意に、律の視界を撫でるものがあった。兄が、首元の粗相を人差し指で拭い取り、そのまま指先を口に含んだのだ。律は呆気にとられてしまって、もう何も残されていない兄の胸元を、見つめ続けていた。なんだかとても、惜しいことをしたように思う。ごちそうを眼の前にまで差し出されて、取り上げられたかのような、無性に腹立たしく、駄々をこねたいような気持ちがする。我ながら筋の通らない悔しさに、律は悶々と睨み続けた。
「……そっか、分かった。気をつけて。うん、律にも伝えておく……うん、」
兄の電話はまだ、終わりそうにない。握りしめられたカップの中でアイスは指の添えられたとおりに緩み、溶け出していた。
きっと、独り相撲の苛立たしさに。呼びつけられて放って置かれる退屈さに、魔が差したのだ。律はアイスへ指を突き入れていた。
いっとう柔く緩んだところを、指の腹で撫ぜる。溶けかけを混ぜ、冷ややかなクリーム状に練り上げて、すくい取る。そしてついさっき、兄のこぼした通りの場所へそっとなすりつけてみた。べったりと貼り付けられたアイスクリームは、兄の体温に急速にとろけ、肌の上を滑り落ちた。鎖骨を伝い、胸元へ。Tシャツの襟ぐりを汚そうとする。
我に返り、慌てた律は、溶けたアイスへ吸い付いていた。かたまりを吸い取ってひとまずの安堵をする。だが、兄の肌へ顔を寄せると、ほんのりバニラの香りが残っている。すっかり冷気を失って、べたべたとした甘ったるさばかりが鼻につく。今更に放っておく気にもなれず、吸い付いた肌よりも、わずか上を舐めてみる。うっすらと残る砂糖のせいか、案の定、甘かった。甘いのに、しつこさは感じなかった。暖かく色白な、滑らかな肌へと舌を這わせると、どこか懐かしいような、やさしくて甘い、味がした。鎖骨を重力の逆になぞり、首筋をしゃぶる。
うっすらとバニラ。律のものと同じ、かすかにフローラルなボディソープ。そしてなぜだか、心安らぐ優しさが、舌いっぱいに広がった。
律が「掃除」に精を出していると、つくつくと肩を突かれた。律にも替わって欲しい、だって。そんな事を、子機を差し出す兄は言う。まるで、何事もないみたいに。
律は仕方なしに電話を受け取る。電話の相手はきっと、恐らく母だった。あ、とか、ううん、とか、当たり障りのない返答を繰り返すことが出来ていた。ような気がする。話の内容などまるで頭に入らぬうち、気付けば通話は切られていた。
電話が切られてしまえば、残されたのは溶けかかったアイスクリーム。そしてバニラ風味に律の唾液まみれになった、兄だけだった。
こんどこそ律は、逃げ出したくなった。だがやはり、一般家屋の影山家に隠れるのに丁度よい穴など無く、しかしどうにか知恵を絞り、ようやく探り当てた問題をあわてて口にした。
「兄さん! ごめん、汚しちゃって。早く掃除しないと。母さんたち帰ってきちゃうよ!」
「あれ、律。聞いてなかったの。二人とも、もうしばらく帰ってこれないって」
律なのに珍しいね。なんて、弟の気も知らないで兄は言う。万事休す。律はもう、どう言い逃れてよいやら。これからどうしたら良いのかだとか。ぐるぐると考え込んでしまった。頭も身体も、ぴたりと静止した弟の隣では、茂夫はTシャツを脱ぎ始めていた。
「へ。まっ、って。兄さんな、にして」
兄の、あまりの突拍子もない行動は、静止した律の活動を強引に戻すだけの衝撃があった。
「何って。まだ、続きが残ってるから」
むしろどうしてやらないのか。さも不思議で仕方がない、といった顔だった。ダメ押しとまでに、お父さんもお母さんもまだまだ帰ってこないから、とまで、付け加える。
律が固唾をのんで見守る中、上半身の白い素肌をすっかり晒した兄は、カップからひとさじすくい取り、やや上から、アイスを垂らす。クリーム状にまでとろけてもなお冷えるのか、柔肌にしずくがこぼれると、ひく、とおへそが引っ込んだ。
ここまで来てしまってはもう、逃げの選択は残されていなかった。覚悟を決め、律は兄へとしゃぶりつく。ティースプーン山盛りのアイスクリームが、鎖骨の合間を、胸骨を縁へと除けて、肋骨のわずかな山谷を越え筋一つ無い腹を通り、腰骨にせき止められ。下へ、下へ。重力の向かうまま、追い縋って、舐め取ってゆく。こんなにも近かったはずの兄の形を、律は初めて知った気がした。そして兄がこんなにも甘く、美味しいことも。底なしに優しくて、安堵する。それでいて一度味わったのならば、二度と逃れられないだろう。絶対的な蜜の味だった。
「りつ。美味しい?」
兄は尋ねる。律は、心の底から頷いた。
茂夫はもう一度、匙を取る。今度は少し横に逸れた鎖骨の下へ。淡桃の瘢痕を、白くとろとろと、クリームが縁取ってゆく。兄を伝い、流れ落ちてゆく菓子を物欲しそうに眺める律。それと同じか、あるいは、それ以上の熱心に、茂夫は律を見つめていた。
律は誘われるがまま、兄に溺れる。もう迷いはない。ようやくのこと、律は理解したのだ。僕はいま、兄さんを食べている。それと同じく兄さんもまた、僕を食べているのだ、と。