兄弟の豆腐サラダ

 僕の兄さんは美味しい。突拍子もないことを言っている自覚は、ある。でも僕の、いま、この身に起きていること。
弁明するなら、それは口いっぱいに広がる滋味。鼻腔へ抜ける芳香と、咀嚼運動に呼応して与えられる瑞々しい食感。味わい、咀嚼し、とろとろと溢れた自身の唾液にこなれたものが、なめらかに喉を降りてゆく快感。欲望が満たされ、征服される多幸感。
 何よりも。本能を揺さぶる多幸感ゆえ、もっと、もっとと欲してしまう、この、飢餓感。僕の五感を焦がすもの。のぼせた思考。それらを総動員してみてもやはり、こう言うより他ないのだ。

 僕は兄さんを、「食べている」と。
      
◇ ◇ ◇

 ある日曜のことだ。
「シゲ、律。お留守番頼むわね。夕方には戻ると思うけれど遅くなったらごめんね。お昼は冷蔵庫に入ってるから、ちゃんとチンして食べるのよ。ラップは二番目の引き出し。お湯を沸かすなら火傷しないように。知らない人がピンポン鳴らしても出なくっていいからね。宅配便がきたら、下駄箱の中からハンコを出してちょうだい。それからシゲ、ちゃんと宿題済ませとくのよ。律はあんまりお兄ちゃんを甘やかさないで。あとは、そう。洗濯物。しけっちゃうから、乾いたら取り込んでおいて」
 母は、決まりごとを一息にまくし立てた。はい、はいと兄弟は、たいへんよろしくお返事をする。
「シゲも律も、もう子供じゃないんだ。そんなピリピリすんなって!」
 そう言うと、父はだははと笑い飛ばした。父をたしなめる母と、母の小言を物ともせずに快活に笑う父の背を、兄弟は見送る。鍵の閉められる音。おしまいに、念入りな母がドアノブを捻ってみて、鍵につかえるのを確かめたなら、静寂が訪れる。

「先にご飯、食べちゃおうか。まだ少し、早いけど」
 そそくさと冷蔵庫を覗き込んで、律は言う。お昼時にはやや早いが、これから用事を済ませるには小腹が空いてしまった、そんなもどかしい頃合いだった。茂夫は掌をいっぱいに広げて、お茶碗に小皿、スープカップと積み上げている。ついでに隙間へ、お箸とスプーンを挿し込んだ。大小、用途、質感、重量。いろもかたちもとりどりの斜塔を危うげにかたかた鳴らしながら、うわの空にうん、と答えた。

 少し芝居がかったみたいにいただきます、と手を合わせてみたりして。水出しの麦茶を注いだら、冷えているうちにまずはひとくち、喉を潤しておく。階段を一段ずつ、指差し確認で踏みしめるみたく、ようやく律は箸を取る。
となりの兄は、あつあつのご飯をいっぱいに頬張って、口からはふはふと湯気を吹いている。真向かいは、空席。四人家族のテーブルの、いつもの定位置へ。兄弟は横並びに着席していた。
 母さんが焼いておいてくれた玉子焼きを箸に取り、くるくると回して眺める。ベーコンとほうれん草が入っていて、山吹色の肌には焦げの一つも付かない、鮮やかな玉子焼きだ。厚めの一切れをひと思いに頬張る。二人分の咀嚼音が二人きりの虚空へ、いやに響いた。
 テレビを点けておけばよかったな。リモコンは、と目線で探れば、ソファに置いたままだった。今更に腰を上げる気にもなれず、早々に諦める。兄が茶碗を置くのを気配で察する。キッチンの冷蔵庫がぶぅん、と震える。出処も知れぬ、恐らくは家電の、モスキート音が切れ間なく鼓膜をくすぐる。救急車のサイレンが低く唸りながら遠ざかる。

 兄さん。と、呼びかけようとして、やはり止めにした。出かかった声は味噌汁と一緒に、ずず、と啜って飲み下してしまおう。取り立ててこの食卓にふさわしい話題など見つけられる気は、とてもしなかった。泳がせた箸は行き場を失い、玉子焼きをもうひとつ、つまみ上げる。執拗に噛み締めてみてようやく、チーズも入っていたことに今更気づく。せっかくだったなら、これもレンジで温めておけばよかった。律は、冷え固まったチーズを舌先で遊ばせながら努めて要らない後悔をしていた。ちょうど、そのときであった。
 ぺしゃり、と間の抜けた音がした。すっぽりと抜け落ちた注意の隙に、至近距離の不穏な物音に、思わず視界を跳ね上げる。

 そこに在ったのは、手品ショーでだってそうは目にかかれない、ぐねぐねに三回転半捻じられたあと、お終いにぱっきり100度、折り曲げられたスプーンだ。健在だったころには曲面が向いていたであろうその先には、半開きの兄の口が居心地の悪そうに、半開きに待機している。取りこぼしは間一髪、小鉢の中へと落ちて戻ったらしく、卓上は被害を免れていた。
「貸して」
 律が無言に手を差し出すと、水が重力に従って流れるよう、ごく自然に、スプーンの遺骸を渡される。まずはティッシュで水気を拭う。無惨な柄を両手で持ち、おへそのあたりに力を込めてふっと一息、集中した。すると、まるで時間が逆再生されたように、直角以上に曲げられた首元が真っ直ぐに跳ね上がる。逆向きに三回半、めいっぱいに巻いたゼンマイ仕掛けがほぐれるように巻き戻った。
 注意深く我が仕事ぶりを眺めてみる。まだ少し、捻じれていた柄の箇所が左右にうねったままの気がする。元があの惨状だったとはいえ悔いが残る出来ばえだ。使う分には、とりあえず使えなくは無いだろうけれど。
「ありがとう」
 兄は、些細なことには目もくれず、嬉しそうに受け取ると、何事もなかったように昼食の続きに戻った。
 すっかり影山家食卓の「いつもの光景」となった、馴染みのやり取りだった。律はしかし今日ばかりは、得も言われぬ居心地の悪さを感じていた。正面に向き直り考え込む。お隣の、スプーンと陶器のぶつかる、かちゃかちゃと軽い音が耳に障り、ようやく気が付く。普段だったならば今頃は、父さんは笑っているだろうか。母さんが、呆れているかもしれない。そう言えば当たり前の日常の賑やかさなんて、気にも留めたことがなかった。

 家って不思議だ。大人が居なくなるだけでぽっかりと広くなる。知らずの内に与えられていた、緊張。そして安心から、解き放たれる。自由奔放のようで寄る辺ない、わずか浮足立つ心地。住み慣れたはずの日常に、非日常が侵食している。
 それなのに、吸う息は粘ついたように重たい。今日限り、ここは兄弟だけの城。ひとたび思い当たってしまうと、もう駄目だった。
 彼らは物心がつくよりも先から、何時だって互いが、互いの世界の内に居た、年子の兄弟だ。昨日だってつい今朝だって、何の気なしに顔を合わせていたばかり。だのに不意に、すぐ隣へと現れたかのような、ずしりと迫る異物感に戸惑いを感じていた。そればかりかまるで世界に、兄と二人ぼっち、取り残されてしまったような。
 カッと耳まで血潮が登る。いやに心臓が、早鐘を打つ。突沸した昂ぶりに、誰よりも、律自身が困惑した。別段、この家の息子らに限って親の居ぬ間の企み事があるわけではない。ただ、味わい慣れないむず痒さに、宛のないほのかな高揚があった。
なのにおかしい。これじゃあまるで、後ろめたいことでもあるみたいじゃないか。
 触れば痛むと分かっている生傷に爪を立て、ほじくり返さずにはいられないような、ほとんどそんな気持ちだった。そうして、恐る恐る思い浮かべたものとは、兄のくびるだった。

 律は自制を試みる。冷静になれ、僕。兄さんと食卓を共にすることなど、今更珍しいことでもない。気を取り直し、よく知った兄の姿を想起する。蕎麦をすすり、勢い余って撥ねかせためんつゆの雫が伝う頬。コロッケの衣がへばり付いた口元を拭い、そのままそっくり衣がついたままの指先。カレーとライスをスプーンに掬って、しかし届くことは叶わずに首から捻じ曲げられたスプーンからぼたぼたとこぼされるのを物悲しく見届ける半開きの、くちびる。
 逆効果だ。鉄錆の臭気が鼻奥へツン、と刺さり、ようやくのこと口内を噛んだのだと気付く。血って案外、塩っぱい。それとも、玉子焼きの塩気が多かったのかも知れない。せり上がるつばを音を立てぬよう飲み下して、律は思う。
 否、律は敏い。自身の逃避に気づかずにいられる律ではなかった。同時に、自らに逃避を赦せるほどの器用さは、持ち合わせていなかった。

「律、これ」
 呼びかけに氷解し、律は従順に、兄を見る。「あげるよ」次いで兄は、そう言った。
 理解の追い付かぬまま、差し出された小鉢へ視線を移す。中身は、ひとさじ分だけ欠けた冷奴であった。兄を見る。隅っこに豆腐のかけらを付けた薄いくちびるは、円やかな曲線を描いていた。 
「僕は、ちょっと……。ありがとう。でも、兄さんが食べてよ」
 先程自身が使っていたのだろう、わずかに歪んだスプーンまで添え、丁寧に勧められた小鉢を、丁重に遠慮する。なるべく兄の顔は見ないように、語気は努めて、和らげながら。
 かしこい弟は、欲の正体を掴みあぐねていた。そう、これはどうやら、欲であるらしい。心の大穴を満たしたいという、苛烈な希求だった。それはきっと、見つけるべきでなかったはずの。
 己の心に巣食う正体不明の化物を律は即座に分析し、同時に嫌悪していた。自身の酷く卑しく、独りよがりな充足感のみを標的とした、穢らわしい何かであるという予感がしていた。何よりも、その矛先は兄を向いているらしいという、逃れようのない直感に律は雁字搦めに葛藤した。
 りつ。
 再び、名を呼ばれる。考えなしの条件反射で振り向いた先では、何か、待機していたものが口先へと充てがわれた。確認する間も与えられず、兄は柔和な微笑みで律をまっすぐ、射すくめた。
言葉にされずとも、意図するところは刺さるほどに伝わった。弟に、拒絶の選択が用意されているはずもない。

 促されるまま口に含む。兄の手により、匙に乗せられ運ばれたやわらかな食べ物は、あつくてせまい口腔に耐えかねて、歯を立てるまでもなく、もろく崩れた。
うん。美味しい。何の変哲もない、絹ごし豆腐であった。兄が食べるために除けたらしい、生姜と葱の風味が移ってしまってはいるが、いつもの我が家の、ありふれた冷奴であった。
 人間、あまりに突拍子もない出来事に出くわすと、思考が強制シャットダウンするものらしい。影山律、齢十三。しみじみと得た学びであった。
かしこいこの弟はまた、兄のこととなると途端、空回る頭脳の持ち主でもあった。

 心ここにあらず、舌のおもてだけで雑に潰して飲み下す。それを見計らうよう、次の匙は律の口元で、すでにひたりと待機をしていた。
 白昼夢に、無重力に漂う水滴をそう、と捕らえるよう、うやうやしく、律は匙を口にする。二口目はすぐには抜き取られなかった。確かめるよう、匙の底面がぬるぬると舌のおもてを撫ぜてゆく。よく磨かれた冷ややかな金属に与えられる甘やかな刺激に誘われて、きっと知らずの内に、律はわずか、吸啜していた。しかしその瞳は、匙の柄よりも更に彼方をほの白く映していた。
 三口目には堪えも効かず、おのずから口を寄せる。焦点のぼやけ、涙の膜に滲んだ世界に兄だけが、居る。蛋白ながら仄かに甘く、律のこころは象牙色に滲んでいた。
 しかし、満足も行かぬほどで、匙はするりと逃げ延びていった。締りを失った薄造りのくちびるからはとろとろと、律の唾液と、幼気な欲とで撚られた無力な糸が、匙に縋るよう伸びていった。ちぱり、と、とびきりに名残惜しそうな音が響くのも、律の耳にはもう、届いてはいない。
 茂夫は逡巡した。茂夫は、茂夫なりに、呆気にとられていた。理知の溶け落ち、緩みきった弟の面差しを前に、わずか二拍、瞬き一つせず静止した。やがて茂夫なりの得心をし、匙を取った。

 四匙目を律がなおざりにくわえ込むのを、兄はさして鋭敏ではない神経のすべてを研ぎ澄まし、見計らっていた。
「美味しい?」
 予想だにしていなかった問いかけに、急速に、律は醒めた。とびきりのやさしい笑顔で尋ねる兄に、律はこくこくと頷く他なかった。水っぽい、スーパーの絹ごし豆腐が突如粒子を持ったように口腔をざらざらと掻く。喉の奥がひゅ、と締まる。満面の微笑みに真正面から縛り付けられ、舌が痺れ、上手く動かない。
 兄はやたらと嬉しそうだった。えずきそうになるのをどうにか堪え、ようやくのこと、じっくりと時間をかけて細切れに、重たい内容物を飲み下す。律がただ独り、四苦八苦する一挙一動、そのすべてを兄に、つぶさに、見つめられている。ようやくいとまを許された口の感覚を取り戻したくて、はくはくと息を整える。そうしてなにやら、やる気に満ち満ちた兄へと、このお巫山戯の中止を申し入れた。
「僕はもう、いいよ。十分食べたから。あとは、ほら、兄さんが食べてよ。ありがとう」
「……もういいの?」
「っ、美味しいよ、おいしかったよ! でももう、いいんだ。僕は、もう、大丈夫だから」
 申し訳なさそうに尋ねる兄へ、やや食い気味に訂正する。間違いなく、極上の一口だった。

 間違いなく、かの行為は律に「快」をもたらした。だからこそ、続けるわけにはいかなかった。美味しいとのみ感想するには生易しい、未だかつて知り得なかった刹那的な充足感と、反動して飢餓の波が寄せるのに、自身が攫われていく感覚に今も身体が揺さぶられている。より深みを味わうことが恐ろしかった。気持ちの良い遠くへと攫われたきり二度と帰ってこれなくなりそうな、底知れない予感があった。
 こんなの、出来ることならば知りたくなかった。記憶ごとなかった事にしたいとすら、律は願った。

 兄は、安心したようにそう、と呟く。
大 ぶりの爪をひらめかせ、小鉢をあちらへと引き寄せていった。ずいぶんと小さくなった豆腐が微かに、心許なく震えている。既に一口にも満たないかけらに匙が突き立てられる。匙に鈍く押しつぶされ、散り散りになった残滓の、ひとつひとつまで拾い集める。色の白くふくふくとした五本の指をたどたどしく操り、たいせつそうに拾い集め、集めるうちにこぼれていったかけらをまた、のんびりと拾い直す。
 そうしてようやくのこと完成されたひと匙が、弟のものとよく似た薄いくちびるの、うすうく開かれた、くらい奥へと、消えていく。

「律。やっぱり、欲しいね」
 律はやにわに、頷いた。せっかくに兄が用意した魅惑の餌を前に、兄からの誘いを受けて、もうどこにも迷いはなかった。律は待った。瞳を閉じ、口だけをやわく開き、お行儀の良いひな鳥みたいに待ち続けた。まるで、時の流れにすら取り残され、兄さんと二人きりになったような。まどろみにたゆたう律に与えられたのは、豆腐より柔らかく匙よりも温い、くちびるだった。
 無防備な律のなかへ、温もりと意志を持つものが、侵入してくる。まるで知らなかった、ひとつの生きたもののように力強くうねる。それが兄の舌だと気がついた時にはもうすでに、白くて甘い、後味だけが残されていた。

 兄は幾度目か匙を取る。それが、いにしえからのたいせつな儀式であるかのように、いくばくもない残骸を丹念に、砕く。
その様を、律は捉えていた。狙い定めた獲物を、五感が、身体が欲している。研ぎ澄まされた感覚、めまぐるしい思考。本能と知性とが融和して、律を影山律たらしめる、全てが。唯一つ、兄を欲していた。それは純な時間だった。苦痛でも快楽でもない。幸福ですら無い。全てで兄を欲し、兄だけに満たされて、兄を待ち構えていた。やがて茂夫は、当然のように匙を、自らの口に含む。そして、それきりだった。ひたりと静止したまま、兄は静かに微笑んだ。
 さあ弟が食らうときは、今。