【サンプル】Dandelion

Recently updated on 10月 19th, 2024 at 04:17 pm

「シャンバラを征く者」のアルフォンスがミュンヘンにやって来てから兄弟の二度目の旅立ちの日までの行間捏造妄想を共有する小説です。

 

 

 

 アルフォンスは借り物のベッドで丸くなる。
 ミュンヘンの晩秋は底冷えが酷く、この家で一等良いものなのであろう、兄から手渡されたウール織の毛布を被っていても、四肢の末端が冷える。つま先をそっと脛にすり合わせて寝返りを打つと、凍えた二の腕を抱き寄せて背を丸めた。

 兄さんと共に生きたい。
 その一心でアルフォンス・エルリックは本日この世界に降り立った。
 こっそりと忍び込んだ鎧から飛び出したときの兄さんの表情と言ったら! 困惑と驚愕が綯い交ぜとなり、雷にでも打たれたようで。あの顔を見られただけでも胸が一杯になるようだ。瞼の裏にしっかりと焼き付けてある。
 アルフォンスは一瞬思った。やった、成功した。ようやくまた一緒に居られる。門を壊して、それから。
 この世界で兄さんと一緒にどこまでも、旅をするのだ。

 掴み取った未来に胸を膨らませて喜び一色に沸き立つ心は、しかし、とある人物を見つけて冷水を浴びたように鎮まる事となる。
「兄さん、あの人って……。ぼくとそっくりな。あの人が、そうなんだね」
「ああ。そうだった。みたいだな」
 アルフォンス・エルリックの兄、エドワード・エルリックはまつ毛を伏せて踵を返すと、その人物の元へと歩む。血濡れの床へ、スラックスの裾が汚れるのもお構いなしにしゃがみ、彼の顔を覗き込んで前髪をそっとかき上げてやる。
「アルフォンス。ありがとな」
 エドワードは少しさみしげに、そして彼に対する最大限の親しみを込めて礼をささやくと、命の温もりが失われつつある青い頬へと手のひらを添えた。
 それを見て、アルフォンスの脳裏にとある考えが浮かぶ。
「この人も。ぼくがここへ来たから、死ぬ運命になってしまったのかな」
 アルフォンスはこの人物を知っているという確信があった。正確には、この人物の視界を知っている。
 それは元居た世界でおぼろな夢に見た景色だ。
 元居た世界にはなかった技術を用いて研究をしており、兄と生活を共にしていた人物。彼の視界に向けられる兄の笑みは穏やかなもので、しかし実の弟であるアルフォンス・エルリックその人に向けられるものよりもいくぶんか影を帯びた異質なものだった。その仄暗さが、血の繋がりのない他人への遠慮によるものか、未来への諦観なのか、アルフォンスには心の内が掴めずに居た。
 それでも、エドワードと共にいる時の彼の心の内はいつも変わらず穏やかであった。エドワードの瞳が、彼、アルフォンス・ハイデリヒの姿を透かして、遥か遠くを見つめていたとしても。彼はエドワードを見捨てずにそばに居続けた。

 だから怖くなったのだ。自分がこの世界に転がり込んだことで、兄を気遣う人間を一人、殺してしまったのではないだろうかと。
「馬鹿言うな!」
 エドワードは怒鳴った。自身の大声に自分でハッとしたようで、俯いて言い直す。
「お前には、関係のない話だ」
 この話はそれきりとでも言うように、エドワードはすっくと立ち上がる。
「さあ、まずは門を壊すぞ。当然やれるよな?」
「もちろんだよ!」
 アルフォンスは煽られて、前のめりに答える。錬金術の無い世界であったとしても、兄と協力すれば出来ないことなど無いはずだと信じて疑わない瞳は、意志の光を灯して輝いた。

 結託した兄弟の行動は素早く、手始めに床に描かれた錬成陣を近くにあった掘削機で土台ごと粉砕してしまった。自信満々に、颯爽と重機に乗り込んだエドワードを一瞬は尊敬したアルフォンスであったが、その相変わらずなおおらか過ぎる運転にすぐ肝を冷やすこととなった。
 突如として爆音を立て、破壊活動に走った彼らに驚き、何事かとにわかに集まってきた人々を集めて協力を仰いだ。人数と機材をかき集めて天井の門を降ろさせると、秩序を持った形あるものであれば何でも、組み立ても解体も得意な連中で、あれよという間に分解してみせた。
 錬金術のない世界だ。別の世界から流れ込む便利で強力な力の法則がないのならば、現場にいる人間たちで小さな力を合わせれば、事は成し遂げられる。

 そうして一晩もしないうちに、この世界での二人揃っての初めての共同作業を済ませてしまうと、夜更けにアルフォンスはエドワードの住まう部屋へと案内された。
「疲れただろ。部屋が、これしかなくてな……替えのシーツも用意できなくて悪いんだが、今日はここを使ってくれないか」
 エドワードから心底気まずそうに、そう釈明されて通された部屋の机には、分厚い専門書やぼろぼろの研究ノートが積み上げられており、壁には精巧な機械の設計図が貼り付けられている。
 アルフォンスはこの設計図の実物を夢で見たことがある。きっとこれが、ロケットというものなのだろう。
 それらをあまり見ないようにしながら、アルフォンスは言う。
「ぼくは気にしないから」
「そうか。ゆっくり休めよ。おやすみ、アル」
「おやすみ、兄さん」
 エドワードが部屋の扉を閉めて去る。月明かりばかりが差し込む薄暗い部屋でやることもなしに、赤いコートを脱いで椅子にさあっと掛けると、兄に渡された、角のほつれた茶渋色の分厚い毛布に潜り込んだ。
 遠慮がちに身体を沈み込ませると、全くの他人の所有物であったはずの寝具から、どこか懐かしいような、親しみを感じる匂いがふわりと立ちのぼる。自分の物とは異なる、嗅ぎ覚えも無いはずの皮脂と石鹸の匂いはどこか馴染み深く感じさせて、とてもあべこべな、奇妙な気持ちになる。
 すっかり気が緩んでしまって身体を丸め、冷える夜から身を守る。盛りだくさんの一日で疲れきっていた少年の意識は、次第に眠りの湖底へと落ちていった。

 アルフォンスが気づいた時には「門」の前に居た。何故、今更こんな場所へと来てしまったのか身に覚えもない。困惑しながら辺りを警戒すると、もう一人の人間の存在に気づく。その人物の下半身は門から伸びた無数の黒い赤子の手によってもぎ取られており、かろうじて胸から上だけでこの空間に繋ぎ止められているらしかった。
 その人物の心当たりをアルフォンスは口にする。
「アルフォンス……ハイデリヒさんですか」
 声を掛けると彼はゆっくりと頷いた。
「君がアルフォンス・エルリックくんなんだね」
 ハイデリヒは場違いに嬉しそうに言った。
「君のことはエドワードさんから聞いているよ。たくさんたくさん、話を聞いた。科学技術ではなくて錬金術が発達した世界の話を。君たち兄弟が不思議な力で大活躍する、おとぎ話みたいな世界の話を。君の話をするエドワードさんはいつだって嬉しそうだったよ。ぼくと一緒に過ごすどの時間よりも……とびきりね。しかし、君は本当にぼくの小さい頃にそっくりだ。まさか最期にこんな奇跡が起きるなんて」
「……ぼくの魂は離れやすいから。あなたの魂が消えて、門を通ってあちら側のエネルギーとなる前に。引かれ合ったのかもしれませんね」
「そちらの世界の事情はわからないけれど、君が言うのならきっとそういう事なんだろうね」
 ハイデリヒの頬に黒い手が伸びる。その箇所は侵食されてかき消え、門の向こうへと持ち去られていく。
「せっかく会えたのにあまり時間がないみたいだ」
 ハイデリヒは心から惜しそうに言った。
「エドワードさんはどんなときも、君のことを気にかけていたよ。ぼくと一緒に過ごす時にはぼくにも良くしてくれたけど。でもぼくのことを見ているようで、ぼくを透かして見ていたのは君のことだったんだろうと、分かってはいたけれど……実際に本人に会ってしまうと、はっきり理解してしまって。ちょっとだけ辛いな。ぼくは、初めから、あの人の一番にはなり得なかったんだね」
「そんな……」
 掛ける言葉が見つからず、アルフォンスは口ごもる。胸像のように残されていたハイデリヒの鎖骨が消え、喉元まで手が迫る。持ち去る手は声帯を掠めて、かさかさとした声で、どうにか言葉を口にする。
「ぼくから言えたことかわからないけど、エドワードさんをよろしく。君ならばきっと、隣に居てふさわしい人間のはずだから。元の世界には帰してあげることは出来なかったけれど、君がいればきっと、大丈夫だから。エドワードさんをよろしく、頼むよ、よろしく……」
 よろしく、頼むと。ハイデリヒが遺言を残す。
 黒い手が、ハイデリヒの顔を覆い尽くす。
 アルフォンスが返す言葉を見つけることも出来ないうちに、ハイデリヒの姿はすっかり分解されて消え去り、門の前にただ一人、取り残されていた。
「何がよろしくだよ……」
 アルフォンスは文句を言う。言いたいことだけ言って消えてしまわれて、少し悔しい気分になっていたのだ。
「でもぼくは。ぼくは、生きている。これからここで生きていくんだ」
 頬を伝う涙を乱暴に手の甲で塗り込めて門を見上げる。錬金術も無い、こんな世界に来たのだ。この先もう、二度と見ることはないだろう門は、今は静かに戸を閉じてただそこに在った。

 朝になりアルフォンスは起床した。快活に起き上がり、布団を跳ね除けると、心に決めた探しものを開始する。
「ちょーっと、ごめんなさい!」
 一人手を合わせて、向けるべき相手はもうどこにも居ない謝罪を述べると、戸棚の引き出しを上から順に開けていく。
 コンパスやノギスに、嘘みたいな長さの物差しやら、細身の製図用シャープペンシルが数本に、箱の開けられていないブルーブラックのインク壺、デザイン用のカッターナイフとその替え刃、切り取られた模造紙や図形のなぞられたトレーシングペーパー、羊皮紙の束だとかをあまり所在を荒らさないように探っていくと、想像していた通りにすぐ、お目当ては見つけることが出来た。
 その鋼製の刃物は手入れが行き届いている。アルフォンスの手にはやや大ぶりのリングに指をかけて開けば、潤滑油の注された要は音もなく滑らかにすべり、一対の刀身は凪いだ水面のように朝日を照り返す。
 お目当てのハサミがどうやら使い物になりそうだと分かると、ひとつに結んでいた髪を解く。解かれた髪はまとまりを失って柔らかに空気を含み、陽光を吸ってはちみつ色にきらめきながら背中へと落ちた。
 毛束をひとつにむんずと掴み、意を決して刃を入れようとしたその時。部屋の戸が開いた。
「アル、もう起きてたか。……って、何してるんだ?」
 エドワードは怪訝な顔をして、自身へとハサミを構える弟を見た。
「ああ、ちょっと髪を切ろうかなって」
「髪? それ、伸ばしてたんじゃないのか」
「もう、僕には必要ないから」
「そうなのか?」
 エドワードは軽い調子で、ふと思いついたように提案する。
「オレが切ってやろうか」
「ええっ兄さん、髪なんか切れるの?」
「なんだ、嫌か?」
 少し拗ねたように言う兄を見て、アルフォンスはしばし迷い、思い直して答えた。
「いや……そうだよ。兄さんに切ってもらうのが一番だ。お願いしてもいい?」
「どうした急に」
 まあ良いけどよ、と。エドワードは笑いながら快諾した。
「バッサリ行っていいのか?」
「うん、短くお願い」
「じゃあ、切るぞ」
 間髪入れず、エドワードはアルフォンスの髪に刃を入れる。左手で全てを掴み、機械鎧の右手で大まかに根元から刈り取る。
「ほらよ、どうだ?」
 エドワードは誇らしげにアルフォンスの目前へ毛束を見せつける。指の合間に掴みきれなかった金糸がいく本か宙を舞う。そして兄は、先程まで弟の髪を結っていた紐を手に取ると、切ったばかりの髪の束をまとめ始めた。
「何してるの?」
 それが弟には用の済んだ廃棄物にしか見えず、訝しんで尋ねた。
「家族すら、お前以外には何も残ってないオレたちだから。これくらいは持っていても良いんじゃないか?」
「取っとくの?」
「ああ。記念にな。さ、整えてやるよ。前を向いてろよ」
 らしくもないことを有無も言わさずに宣言されて、アルフォンスは文句も言えずに大人しく前へと向き直った。
 エドワードは、付け替えてもらって日の浅い、動きの良い機械鎧を器用に扱う。襟足へ迷いなく刃を細かに入れて、シャクシャクと小気味よく切り整えれば散り散りになった毛髪は金色の塵となって、降り積もる埃とともに、差し込む朝日にきらめきながら舞った。
「伸ばしてるのも結構、似合ってたぜ?」
 今更になってエドワードはふざけたようにそんなことを言う。
「……ありがと」
 ひとの気も知らないで、とは言えずに。アルフォンスはむくれる。
「分かってるよ。オレの事、本気で探してくれてたんだろ。……ありがとな」
「うん」
 若干の照れを含んだ物言いだったが、欲しい言葉をきちんと貰えてアルフォンスは満足そうに目尻を下げた。

 後頭部から頭頂まで切り揃えて、アルフォンスの前に回り込み、前髪を整え始める。その真剣そのものの様子を見て、遥か遠い日の記憶を思い出していた。
「小さい頃は母さんが髪を切ってくれていたよね」
「そうだな。だからこれは見よう見まねだ。地道な理解、分解、再構築かな。その代わり驚くような髪型には出来ないぞ?」
「兄さんのセンスは信用してないから普通で頼むよ」
「うるせえ! じゃあ自分でやれ!」
 自分でやれ、と口では言いながら。手を止める様子は全く無く、切り落とされた毛の粉がアルフォンスの目元や鼻先に落ちてこそばゆい。それに耐えながら、されるがまま、髪を切られている。
 手を止めて、考え込み、再びハサミを動かすこと数度。やがてエドワードはうんうんと納得したように頷いて、姿見を持ってきた。
「出来たぞ。どうだ? その、お前の顔ちゃんと見るの、久しぶりなもんだからさ……小さい頃を思い出しながら切ったんだが……」
 エドワードは心配そうに語尾を濁す。
「うん、良いと思う。ありがとう兄さん」
 ややハサミの跡の段は残るが、在りし日の髪型を思い起こさせる出来栄えだ。人体錬成も、苦難の旅路も知らなかった、あの日々の姿によく似ている。アルフォンスは手鏡で自分の頭をぐるりと確認して礼を言った。
 エドワードは床に落ちた毛を箒で集めながら言う。
「それじゃあ、喪服でも探しに行くか」
「今回の為だけには買えないよね」
「これからも使い回せそうな地味なやつがいいな。今の時間ならまだ市場が出ているはずだから後で見に行くか。喪服以外にも、お前の日用品を揃えないといけないな」
「そうだね、助かるよ」
 アルフォンスは塵取りを構えて、兄の箒を受け止める。くずかごに二、三回も中身を放り込めば、スチール缶の底は錦糸を敷き詰められて、小鳥の巣のようにこんもりと埋もれた。

 エドワードは、ついに葬儀の運営に関わろうとはしなかった。喪主はロケット研究仲間の、ドルチェットによく似た男が務めた。ドルチェット、と言われてみれば確かに、元の世界ではデビルズネストで出会った、犬との合成獣にされていた男と三白眼がよく似ている。仲間の中でもひときわ忠実で、愚直な男である。
 ドルチェット似の男はハイデリヒの田舎町の実家にも便りを送った。父は息子と同じく肺を患って早くに亡くなっているそうだ。返信はがきには、母は腰を悪くしていて蒸気機関を乗り継ぐ遠方からはとても出てこられないこと、そして「愛する息子を皆様で安らかに送ってください」というメッセージが滲んだ文字で書き添えてあったことも、エドワードの知るところでは無い。
 訃報からわずかな日数で集まったのはロケット工学の研究者仲間や、資材関係の会社員、宇宙物理学を研究する科学者らが主だ。男が多い面々は分厚い暗色の服を着て小さなチャペルにもっさりと集う。
 チャペルの後方の席にて、アルフォンスはエドワードの隣で和やかなざわめきを聞いている。共通の分野のおかげで面識はうっすらとあるものの、特別に親しい間柄でもない大人の男たちは、ちょうど良い社交の場にしているようである。特殊合金の開発事業を手掛ける会社の、営業職の中年男が「体が冷えちまう、早くビールが飲みたいぜ」などと周囲に笑いを誘うのが聞こえてきて、うっすらとした嫌悪感が湧く。
 アルフォンスは縋るように兄を見る。エドワードは弟の視線にすぐに気づいて、頬を緩めた。
「アル、どうした?」
「ううん。何でもない」
 言葉にしたら恥ずかしい気がしたので、不快感は飲み込んで、代わりに質問を投げかける。
「ここの宗教は、キリスト教って言うんだっけ?」
「ああ。その中でもプロテスタントって宗派らしいな。まあ、オレもこっちの葬式なんて初めてだからさ、周りを見て真似してればどうにかなるだろ」
「いい加減だなあ」
 呆れたようにアルフォンスが呟く。
 ざわめきがふと静かになったのでつられて前を向けば、牧師と呼ばれるらしい聖職者が壇上に上がったようである。
「皆様、寒い中お集まりいただきありがとうございます。定刻となりましたのでこれより故アルフォンス・ハイデリヒ兄の葬儀を執り行います。初めに、オルガンの奏楽に耳を傾けながら、黙祷をいたしましょう」
 アルフォンスは言われるまま一度は瞳を閉じて、そして薄っすらと開いて、周りの様子をうかがう。敬虔なクリスチャンたちは皆、一様に頭を垂れている。その様子を確認して再び、目を閉じた。
 オルガンが終われば、牧師は説教を始めた。内容としては元居た世界にもあったようなもので、神と呼ぶ存在を敬う聖書の解釈を読み上げ、死者の魂の安寧を祈るものだ。どこの世界も宗教というのはさほど大差は無いのだな、と無神論者ながらさして考えもなく思う。起立を求められてやや遅れながら立ち上がり、耳馴染みのない賛美歌を皆が歌うのに合わせて、それっぽく口を動かした。
「それでは、告別の献花をしていただきたく思います。出棺前にみんなで棺に花を入れましょう。前方の方より順次、お花を献げて下さい」
 棺の中へと花を納めて、故人と最後の対面をする人々は穏やかなものだ。棺に歩み寄って微笑みかける者や、その場で手を組んだまま黙って俯く者など、思い思いに別れの時を惜しむ。
 アルフォンスはエドワードをそっと盗み見る。列の後方でエドワードは白百合の花を一輪持ったまま、じっと遠くを見つめており、その表情は沈痛と言うほど暗くもなく、しかしどこか硬くて、うまく読み取れない。番の来たエドワードは、すでに爛漫の白い花々に埋もれた棺の、足元へと遠慮がちに花を手向けた。
「それでは、以上を持ちまして葬儀は終了となります。皆様、お忘れ物の無いよう、ご移動の準備を願います」
 牧師の掛け声に応じて、力自慢の男らが棺を軽々と担ぎ上げて、墓地のあるゆるやかな丘を登った。キリスト教としての葬儀は終えて異国の楽隊が弦をかき鳴らし、ノーアが舞う。身寄りなきジプシーの、エキゾチシズムをかき立てられるステップだ。ドイツ国民もユダヤの民も、そしてこの世界にルーツなど無いエルリック兄弟も。皆が一様に見惚れた。
 ぱらぱらと拍手が起きて、それも鎮まると牧師はうやうやしく口を開く。
「それでは最後に、埋葬に移りたいと思います」
 棺が、あらかじめ掘られていた墓穴に収められる。後方にぽつねんと佇むエドワードへ、シャベルを持った男の一人が声をかけてきた。
「おい、何でそんなところでつっ立ってるんだ」
 ずかずかとやって来て、気安くシャベルをぐいぐいと差し出してくる。彼も研究仲間の一人だ。この大柄で骨太な眉の濃い男は、前の世界では牛との合成獣にされていた、ロアという名の男に背格好がよく似ている。
「んだよ。オレにそんな、資格はないよ」
「お前、アルフォンスの所の居候だったろ? 飯も宿もタカってた。研究にも参加しないし、しまいにゃ女まで部屋に連れ込みやがったらしいじゃねえか」
「いそう……まあ、否定はできないか……」
 エドワードは大変不服そうにしながら歯切れ悪く不名誉を受け入れた。
「そんなところで見てないでお前も手伝えよ。世話になったんだろ? ほら、恩返しのつもりでな、やっておくべきだと思うぜ?」
「……お前がそう言うなら、そうするよ」
 背中を押されて、素直に聞き入れたエドワードはシャベルを手にする。
 意外なことを言い出したのはアルフォンスであった。
「すみません、ぼくも一本頂いて良いですか」
 それを聞いたエドワードは、キョトンとして問いかけた。
「なんだ、お前もやるのか?」
「うん。これは、ぼくにとってもけじめみたいなものだと思うから」
「そうなのか? じゃあ、一緒にやるか」
 墓穴の横に兄弟で並んで立ち、積み上げられてからそこまで時間の経っていない柔らかな土を掬っては、棺の上へと掛けていく。言葉もなく、黙々と手を動かして。
 いやに手際よく墓を埋めていく二人を見た参列者が、ヒソヒソと囁き合う。
「あれが噂の? 本当にアルフォンスが幼くなったようだな」
「ああ。どこから来たのかも分からないらしいぞ。ドッペルゲンガーとでも言うのであったか。不思議なことがあるものだ」
「そんなことがあるか? ちょっと不気味だよな。アルフォンスが亡くなったこのタイミングだし……」
 そんな声は聞こえているのか、いないのか。兄弟は作業に没頭する。

 アルフォンスは思う。自分らの居た世界に似た、もう一つの、言わばパラレルワールドの自分と思えるような人物を埋めるのは、とても奇妙な心地がする。
 母、トリシャ・エルリックに似た垂れ目も、意思をうかがわせるきりりと上がった眉も、陽光に透かせれば金にきらめく髪も、そっくりだ。そして、エドワードを大切に想う気持ちも。
 まるで死んだ自分を埋めているようで、そこまで気持ちのいいものでは無いのは確かだ。しかし、彼のことを確かに存在した人物であると認めて丁重に弔うことで、今度は自身がこの世界で生きるためのスタートラインにようやく立つことが出来るのだろう、とも感じていた。
 だからこれは必要なことだった。アルフォンスはこの世界で、兄がいる世界で生きることに爛々とした希望を見出していたから。

 エドワードはと言えば、アルフォンス・ハイデリヒへと感じていた罪悪感と負い目が癒やされるのを感じていた。柔らかな土を被せるごとに、都合悪く心の傷んでいた部分に優しい薄い膜が掛けられていくような、癒えを感じる。
 アルフォンス・ハイデリヒと過ごすにあたって、正直なところ実の弟を思い浮かべない日はなくて、その人本人を見ていない自分を自覚していた。それでいながら、いつしか弟との再会を望むことにすら諦めが混じり、身勝手にも惰性の向き合い方をしていたと思う。
 住む場所も、食事も、仕事も、金も、人付き合いもままならず。ロケット開発にも、私生活にも。弟を求めることも、元居た世界を求めることにすらも諦めの影が差し込んで、無気力になっていた生活のすべてを頼りきりで、よく見限られなかったものだ。
 居候の上、そんな付き合いをしていた自分が決して褒められたものではなかったという後悔は少なからずあったが、自身の手で埋葬を行うのはそういった過去に対して折り合いをつける良いきっかけとなってくれたのかもしれない。
 神も宗教も信じないエドワードだが、この時ばかりはごく自分勝手にそんなことを考えていた。

 埋葬も済み、参列者達は貸し切で予約してあるレストランへと一人、また一人と移動し始めた。
 墓地のある丘を下りながら、エドワードはぽつり、とアルフォンスへ問う。
「腹、減ったか?」
「うん。少し」
「一緒に飯、行くか?」
「うん。これからみんなで食事会だね」
「あー、いや、そうじゃなくて……二人だけで行かないか? その、おすすめの店。あるから」
「え? みんなと一緒に行かないの?」
「ああ。嫌か? 知らない連中と飯食ったって、お前も面白くないだろ?」
「ぼくは、別に……でも、そんなことして良いの? だいたい兄さん、お金あるの?」
「国家錬金術師やってた頃とは比べ物にならないけどさ。今日くらい贅沢したって良いだろ。成長期なんだからいっぱい食え。但し、オレよりはデカくなるなよ?」
 エドワードは弟を安心させるべく、にんまりと笑った。

 そのこぢんまりとした大衆酒場は繁華街から一本、裏へと入った煤けた路地にあった。営業中の看板が掛けられた木戸を開けると、人いきれがむわりと漏れ出してくる。低い天上から吊るされたいくつもの電球の橙色が照らす店内は、夕も浅いというのにすでに活気に満ちていた。
「いらっしゃいませ!」
 腕毛の立派な店員が、太めの腹から声を出して歓迎する。エドワードも店内の騒がしさに負けじと叫び返した。
「二人でよろしく!」
「テーブル席埋まっちゃってるけど。カウンターでいいかい?」
「ああ、どこでも良いよ」
「じゃあこの端っこでいい? 今空いたから片付けるよ」
 二人は、銘柄ごとのビールの木樽が並んで置かれたカウンターの、壁際の隅へと通された。
「二名様入りましたァ! 兄ちゃんたち、まずは何飲むかい?」
 問われてエドワードは迷いなしに答えた。
「シュパーテンのミュンヘナーヘルを、マースで頼む。アルは何頼むんだ?」
「ええ? あ、えっと……炭酸水でお願いします」
「あいよ!」
 意気揚々と去っていく店員を尻目に、アルフォンスは眉をひそめた。
「ちょっと、兄さん? 今のってたぶんビールだよね? お酒なんて飲めるの?」
「この国では十八にもなれば立派に飲めるんだよ。お前はダメだぞ? なんたってまだ十三歳だからな」
 ここぞとばかりにエドワードはニカ、と笑う。
「なんだよそれ!」
 無意味に、雑に子供扱いをされて、アルフォンスはむくれた。

(新刊へ続く)