Recently updated on 10月 19th, 2024 at 04:17 pm

僕は桜が嫌いだ。
兄さんの中学入学の日には風が強かったのを覚えている。生ぬるく頬を舐めては轟轟と吹き抜けてゆく、うんざりするような春の日だった。
おろしたての制服に袖を通した兄さんはいつにも増してぎこちなかった。似合うね、と声をかければ兄さんははにかんだ。どうせ背が伸びるからと肩幅の合わないだぼ付いた制服なのに兄さんの纏う空気のように素直に馴染んでいて。似合いすぎて、見慣れてしまったら尚のこと兄さんに置いていかれるような気がして。つまりは、僕は拗ねていた。
まるで耳に入ってこない朝のニュースへぼんやり顔を背け続けて、みんなが出かけてしまうのを今か今かと待っていたような気がする。

「律、散歩に行こうよ」
帰宅した兄さんは開口一番にそう言った。
「いいけれど、兄さんは疲れてない? 少し休んだら」
「座って話を聞いてただけだからへいき。退屈だったよ」
「まずは着替えたら。せっかくの新品なのに汚しちゃうよ」
「どうせあしたから毎日着るんだ、ちょっとくらい構わないよ。今晩はごちそうだって。早く行って帰ってこよう。外、桜が咲いてるよ」
こうなったら兄さんは強情だ。僕は早々に降参してランドセルに被せてあった薄手のパーカーを一枚、腰に結わえた。

制服姿と並びたくなくて距離を空けてついて行く僕を、兄さんは振り返り振り返り待った。そうしてたどり着いたのは家から少し離れた公園だった。
人工の雑木林の只中にまとめて植樹された桜の下には、ビニールシートが所狭しと敷き詰められていた。ずいぶんにお花見日和だった。ホットスナックの焦げる油臭い煙が立ち込める。赤ら顔のおじさんが地べたで鼾をかいている。埃っぽい喧騒に僕は思わず眉をひそめた。
兄さんは満開の桜も、桜よりも多そうな人の群れにも目もくれずにシートの隙間を縫ってゆく。やがて人気はまばらになり、しまいには桜の木も無くなった。芽を膨らませるばかりな裸の木々の、その合間を通されたでこぼこの土の坂に、不揃いに丸太を埋めただけの急な階段を登る。肩で息をしながらのろのろと、しかし迷いのない確りした足取りで進んでゆく兄さんにはどうにも声がかけづらくて黙々と背中を追った。
「律、ついたよ」
頂上で兄さんは振り返る。僕は階段の成れの果てだろう、ささくれた木片の埋まる荒れたけもの道を飛ばし飛ばしに駆け上がった。

現れたのは見たこともないほどの大樹だった。
「……すごい樹だね」
「そう、遠足の時見つけたんだ。あんまり立派に葉を茂らせていたから花が咲く頃にいつか律にも見せてあげたくて。よかった。思い切って来られて」
「そっか、うん。ありがとう。兄さん」
兄さんは微笑んだ。見たこともないほどの、巨大な立ち枯れに微笑んでいた。墨に浸されたかのような真っ黒の制服を身に纏い、植物の残骸が濃厚な陰を落としてそびえるのにうっそりと目を細めていた。
苔蒸した樹皮と朽ちかけの枝ぶりから辛うじて桜と判るその樹が爛漫に春を謳歌していたのはどれほど昔のことだろう。そんなことすら僕には皆目見当もつかない。
「律、花びらが付いてる」
風が吹く。血の通うように、生あたたかい。兄さんは僕の肩をそうっと払うと風の行く先を見送った。つられて僕も顔を上げれば、乳白色の花曇りがのっぺりと広がっていた。

以来、僕は桜という植物がどうにも苦手だ。あれは魔性の樹木だ。白昼に兄さんすらも容易く惑わせてみせる、人の手に負えない怪物だ。ましてや僕など到底敵うはずもない。畏怖混じりに忌避するより、どうすることも出来やしない。
だのに僕はあの日の桜を見たかった。刻々と土へと還る大樹の遺骸からばらばらと、きっと夢みたいな淡紅が零れては風に攫われてゆくのだろうか。そんな趣味の悪い幻が見たかった。
兄さんのと同じ桜が狂おしいほど、見たかった。