「律、お願いがあるんだけど。猫になってみて」
僕は停止した。
兄曰く。猫になって欲しい。
僕の部屋を訪れて、兄さんはいきなりにそう言った。ような気がする。
猫、か。僕の知る猫とは。小さな頭に三角耳をひょこりと揃えて靭やかな身体に尾っぽをゆらり、街中のそこかしこに居るあの小動物くらいのものだ。
それに「なれ」とは。どういうことか。
兄さんは口数が少ない。少ない言葉の分、無駄口はほとんど叩かない。言いたいことだけを言いたい分だけ、飾り気もなく突きつけてくる。だから突飛に思える言動もままある。
しかし、だ。猫になれとは。あまりに度を過ぎていやしないだろうか?
一体、なぜ? どうして? 兄さんに何があった? もしや僕は何か兄さんに仕出かしたのか? 次から次へと疑問だけが浮かんでは儚く消えた。
兄さんは僕のベッドへ腰を下ろす。返答に窮したまま、なにかの聞き間違いだったのであろうと無難に納得しかけた、ちょうどその頃だった。
「律。ちょっと、猫になってほしいんだ」
しかしながら無慈悲なことに、要求は全く同じく繰り返された。
「待って兄さん。そうだね、まずは……。猫ってあの、動物の?」
「そう」
「そうか。そう、猫、ね?」
「ご、ごめん。やっぱり僕、変なこと言ってるね」
「ううん。いいよ。で、僕は何をすれば良いかな」
趣旨さえ理解してしまえば迷いはなかった。滅多にない兄さんからの頼まれごとだ。断る理由は無かった。むしろ心なしか浮かれてさえいた。
見直しの済んでいない半端な数式を書きつけたノートを閉じ、スタンドの明かりを消すと僕は兄さんのお隣へ、そそくさとベッドに腰掛けた。
しかし猫か。僕はあのありふれた動物をまるで知らない。自由で気まま。壁も塀も物ともせず、飛び越えては自信満々に闊歩する。ありていに浮かんだ漠然としたイメージに僕はますます困ってしまった。
そんなの、僕にできっこない。
どうしたものかと固まったままの僕へ、兄さんの手が伸びる。伸ばされた指先がしばし惑うように僕の喉仏を掠めると、やがて意を決したかのようにあご下をくすぐられた。慈しむように指を這わされる、あまりの心地よさに僕は思わずうっそりと、目を閉じた。
「律、猫っぽく」
そうだ、猫だった。僕は口を閉じたままごろごろ、と言ってみる。
僕が知っている猫とは。夕飯時のテレビでやっている動物番組くらいのものだ。飼い主に撫でられては甘える様子を思い出す。兄さんの言う通り猫らしく、ごろごろ、ごろごろ。
僕は今、猫なんだ。言葉をはなすよりもっと、喉の奥底を唸らせるようにごろごろと。兄さんに喉元を撫でられて嬉しい。心地よくていっぱいの喜びに、思わず喉を鳴らしてしまう、猫。
兄さんの手が喉元を離れる。離れた手は顎骨を伝い、頭のてっぺんをこしょこしょと掻く。毛並みを軽く乱しては手ぐしで撫で付ける。きっとそこは耳の裏。薄べったくて三角形の猫の耳。僕の心の猫耳は蕩けるようにへたりこむ。
兄さんの手つきはどこまでも優しい。次第に物足りなくなって、もっと、もっと撫でられたくなってくる。もっとその手を這わされたい。首元からまろく弧を描く猫背から、はたりはたりとくゆらせる尻尾の付け根まで。毛並みと言う毛並みを梳かれたい。欲望に忠実な、自由気ままな僕の猫は、兄さんの胸の中へと飛び込んだ。頭の天辺を、猫耳をこすりつける。
お願い兄さん。もっと撫でて。
兄さんが床へと転げ落ち尻餅をつくのも構わずにごろにゃん、とのしかかったところで、ぺしぺしと肩を叩かれた。
「律、ストップ、ストップ。それは、犬みたいだよ」
「あっ。ごめん兄さん、その、こんなつもりじゃ……」
一瞬で人へと還った僕は、しかし異変に気が付いた。
「兄さん、震えてるの……?」
「へへ、ふふふ……そうか、僕は、あの世界で怖かったんだ」
「怖い?! 兄さんを怖がらせるものなんて。今日は帰りが遅かったけれど、もしやあの詐欺師に危険なことをやらされていたんじゃ」
「ううん。大丈夫だよ。僕は大丈夫。もし大丈夫じゃなくたって人は変わっていけるんだ」
「? どういう、」
「それにやっぱり、猫じゃだめだな」
「あの、ごめんね。僕、うまく猫になりきれなくて……」
「律。僕の弟で居てくれて、ありがとう」
ぼわ、と耳まで血が登る。
とても、とても耐えきれなくて、僕はひと声にゃあ、と鳴いた。