独りぼっちの仔うさぎが住んでいました。とてもかしこくて、足が速く、森の仲間たちの間でもいっとう人気者の、仔うさぎでした。
ある朝のこと、うさぎが森の外れまでお出かけをしていると、どこからか聞き慣れない声がしました。不安げに、長いお耳をピンと立て、お鼻におひげをひくひくさせて、そうっと声のする方へと向かいました。
やがて見つけたのは古びた小屋でした。怖い怖い、にんげんの臭いが薄れているのをたしかめると、うさぎは小屋へと入りました。
そこに居たのは一頭の仔うしでした。うしはかりかりにやせた脚を、骨と皮ばかりに細った腕でぎゅうと抱え、今にも消えてしまいそうな小さな声で「お腹が空いた、お腹が空いたよ」と、独り、つぶやいているのです。
「うしさん、うしさん。こんな所でいったい何をしているのですか」
見かねたリツが声をかけると、うしはおどろいて言いました。
「ああびっくりした。まだ誰か居ただなんて。きみはずいぶん、ちいさなうしだね」
「おかしなことを言うひとだ。ぼくはうさぎです」
「うさぎ? きみの名前はうさぎくんなの?」
「いいえ、僕の名前はリツです。うさぎじゃありません。うさぎの、リツといいます」
「そうなんだ? 僕の名前はシゲオです。それじゃあリツくん、よろしくね」
のんびりとしたシゲオに、リツは少しうんざりしながら尋ねました。
「ところでシゲオさん、どうしてそんなにお腹が空いているのですか」
「そうだった、すごくお腹が空いているんだ。ここにつながれてしまっていて、一歩も外に出られないんだ」
「それならば、僕がこの歯でかじってみましょう」
リツはじまんの前歯を突き立てました。しかし鉄の鎖はごりごりと、鈍く鳴るばかりでちぎることは出来ません。
「リツくん、にんげんがあちらの方で鎖を外しているのを見たことがあるんだ。僕には手が届かないけれど」
そう言ってシゲオは、背丈の倍ほどもある壁の上を指さしました。
「それならば、僕が跳ねて見てきましょう」
リツがひと蹴りで壁を登ると、そこにはにんげんの作った大きな金具が有りました。しかし小さな仔うさぎの力では、うんうん唸って踏ん張っても、引っ張っても、ぴくりとも動きません。
リツは小さな首をこくりと傾げ、考えました。そしてそうだ、とひらめきました。シゲオがはてな、と思う間もなく、壁板をこりこりとかじり始めました。やがて金具は、まるくかじり取られた壁板ごと、ごとりと音を立てて落ちたのです。
「すごい、すごいや。ありがとう。きみは何でも出来るんだね」
小さく黒黒とした瞳をいっぱいに輝かせ、シゲオははしゃぎました。あんまり真っ直ぐにほめるもので、むずがゆくなったリツがつい、目をそらしてしまう程でした。
リツは小屋を飛び出しました。どうしてだか、会ったばかりのこの仔うしを放っておくことが出来なかったのです。天をつくほど大きな木を登り、葉のゆりかごにひっそりと眠る実の、とびきり赤く熟れたのをもぎ取りました。原っぱで朝露を垂らした若草の、やわらかな新芽を摘みました。けわしい崖をこえ、砂利道を抜け、小川の早瀬から玻璃のきらめきを灯した清水をえらび、笹の葉でこしらえたコップへと汲みました。それをひとまとめに、小さな腕の中へたいせつに抱え込み、シゲオの元へと大急ぎのうさぎ跳びに駆け戻りました。
シゲオは自由になりました。しかし、にんげんに飼われていた仔うしは、森で生きる術を何一つ知りません。リツはシゲオに、ご飯の在り処を教えました。吹き抜ける風の心地よい日向ぼっこの場所も、さらさらの砂浴びが出来る場所も教えました。リツのお気に入りの場所は、一つも残さずシゲオのお気に入りの場所となりました。
リツは巣穴の壁を掘り、シゲオは掘り返された土を運び、住処を倍に大きくしました。お日さまの匂いの枯れ草を集め、おそろいのベッドをとなり同士に造りました。椅子もコップも、二匹分。年の頃も近い二匹はすぐに仲良しになり、じきに一緒に暮らすようになったのです。
ある日のこと、リツは尋ねました。
「シゲオさんはどうしてここに独りで居たの?」
するとシゲオは、のんびりと答えました。
「前はたくさんの仲間と暮らしてたんだ。でも、僕だけ置いていかれちゃって」
「なんてひどいやつらなんだ。シゲオさんを置いていくなんて」
「仕方ないよ。きっと、僕だけ出来が悪かったから」
「出来が悪い?」
リツはまんまるのまなこをきっと釣り上げ、言いました。
「シゲオさんの出来が悪いだなんて、僕には考えられないな」
「えへへ、なんだか照れるな。そんな事を言ってくれたのは、リツが初めてだよ」
シゲオは、初めて会ったときよりもいくぶんまあるくなった頬を、桃色に染めました。
「僕はお乳も出なかったし、身体もなかなか、大きくはならなかったから。リツはすごいな。なんでも出来て、本当に尊敬してるよ」
「尊敬なんて……ずるいよ。僕は、シゲオさんに比べたら……」
リツは知っていました。慣れない野山をけんめいに駆けるシゲオを知っていました。シゲオのひたむきさだけは誰よりもよく、知っていました。
リツはよく出来たうさぎですから、森じゅうの人気者でした。しかし、誰かに尊敬しているだなんて言われたことは一度もありませんでした。誰かの言葉でこんなに嬉しくことなんて、ただの一度も、無かったことでした。
「ねえ、シゲオさん。もしよかったら、僕のお兄さんになってくれませんか」
「えっ?」
「あ、ええと、ごめんなさい。その、聞かなかったことにして下さい……」
驚いたのはシゲオだけではありませんでした。リツもまた、口をついて出た言葉に驚いていました。
「僕がリツのお兄さんだなんて、たしかに生まれはひとつ、早いけれど。いいのかな」
「……すみません、忘れて下さい」
「その、もし良かったら、僕からもよろしくおねがいします。えっと。……リツ?」
リツのふわふわな胸の内が、信じられないほどの熱を持って、高鳴っていました。
リツ、リツ。僕の名前は、リツ。聞き慣れたはずの自分の名前を、初めて呼んでもらえたような、そんな心持がしました。かしこい頭には何のお返事も浮かばず、ただちいさく、兄さん、と呼んでみました。シゲオの顔を恐る恐る伺えば、シゲオの顔は、はちきれんばかりの真っ赤に染まっていました。そればかりが二匹の精一杯でした。いつまでもいつまでも、からからと笑いながら、本当にこんなにすてきなひとと兄弟だったならどんなにか良かったろうと、思うのでした。
季節は順にめぐり、冬が来ました。リツとシゲオは暖かな干し草のベッドを作り、たくさんの食べ物を蓄えておきました。
しかし、ひときわきびしい寒さの冬でした。シゲオと半分に分け合っていた食べ物はついに底をつきました。木の皮を剥ぎ草の根を堀り返し、どんなにか少なくても二匹は分け合って、日に日に骨の浮く小さな体を寄せ合っていました。
しかしそれも、長くは続きませんでした。どんなに探してももう、食べられそうなものは見当たりません。
リツは悩みました。リツはシゲオの褒めてくれたかしこい頭をうんと悩ませ、自慢の脚で駆けました。けれども、何をしてもどこまでも、真白い雪が森を閉ざすばかりでした。そうしているうちにも兄さんは、いつの日か、出会ったばかりのころのようにやせ細り、やつれてゆきます。そうして小さなお胸を裂けそうなほどに痛ませていたリツは、やがて良いことを思いつき、いつかの牛小屋へと向かいました。
「兄さん、今日はやっとご飯を見つけたよ」
そう言ってリツは兄さんの前へ久しぶりのごちそうを差し出しました。けれども兄さんは、すぐには食べようとはしません。
「リツ、これは……」
「ちょっと食べ慣れないかも知れないけれど、何も食べないよりはマシだと思うから」
「……分かったよ。でも、リツも。ちゃんと食べて」
「……僕はいいよ。また見つけたら食べるから。そんなにたくさん無くてごめんね」
「でも…………」
シゲオは口ごもりました。いつになく頑ななリツに見守られながら、きゅっと目をつむり、たったひとくちを頬張りました。
次の日のこと、リツは再び牛小屋へとやって来ておりました。脂汗を垂らし、歯を食いしばり、せっせとはたらいて居りますと、ふと背中から、慣れ親しんだ気配を感じました。
「兄さんか。どうしたのこんなところで」
やはりそこに居たのはシゲオでした。にこにこと道具を後へと追いやりながら振り向いたリツへ、シゲオは表情無く、静かに告げました。
「リツ。脚を見せて」
「足? 足ならほら、足がどうしたの兄さん」
そう言ってリツは微笑みながら、ふかふかなつま先から、ひっくり返して足の裏まで見せました。
「そうじゃない。隠してることがあるだろ」
「まさか。兄さんに隠し事だなんて」
「リツ、分かる。それは嘘だね」
たじろぐリツへと、時計の針みたく厳かに的確に、蹄をこつこつ鳴らしながら、シゲオは寄りました。
「そんなのはまるっきり、嘘だ。でも、僕を助けようとしてくれた気持ちだけは、本当なんだろ」
「兄さん? いったい、何の話をしているのか、」
「でもそんなのは、間違っているよ」
まっすぐ、迫るシゲオにリツはじりじり追い詰められ、ついに壁へと背を預けました
「これは。えっと、この前。おおかみにおそわれそうになっちゃって」
「まだ嘘を付くの」
リツの退いた跡には、真新しい赤がてらてらと、点を連ねておりました。いつの日か、齧り取った壁の穴から冷たく刺さる冬の陽が、シゲオの小さく、黒黒とした瞳を照らしておりました。底なしの澄んだ瞳に吸い込まれそうな心地がして、身じろぎ一つ許されず、腿を伝う生暖かなしずくを拭うことすら出来ず、リツは後ろ手に隠したものをたやすく取り上げられました。
「そんなつもりは! ……どうして分かったの」
「僕を突き放そうとしたって無駄だよ。だって僕は。リツの『兄さん』なんだから」
シゲオは、取り上げた包丁の持ち手をリツへ突き付け言いました。もう、逃れようが無いことを悟り、ようやくリツは後悔しました。こんなつもりでは無かったのです。いつだってふくふくと、穏やかだった兄さんでした。こんな時ですら、兄さんは顔色ひとつ変えず、浅はかなリツの企みを淡々と暴くのです。兄さんにこんなことを言わせてしまう自身の行いを省みて、リツはようやく、自身の犯した過ちに気がついたのでした。
「ごめんね、リツ。こんなになるまで、気づいてあげられなくて」
リツはうつむきました。こんな時ですら兄さんはどこまでも優しいひとでした。今更に隠す事も場違いで、どうすることも出来ないまま、足元にじんわり広がる血溜まりを見つめておりました。柘榴の実を潰し割ったようにべたべたと、乾ききらない生傷は、どんなに睨みつけようとも元の通り、無かったことになってはくれないのでした。
その日、リツは出かけたきり、シゲオの元へ帰りませんでした。気まずさのせいでもありました。何よりも、明日から兄さんを、そして自分も、飢えない策を見つけなくてはなりません。じくじくと痛む脚を叱りつけ、凍ってしまいそうなお耳をなびかせ、吹雪を切り裂いて、来る日も来る日も、期待も虚しく通った獣を、つむじ風のように駆けました。しかし昨日と同じように、真っ白な雪がいっそう厚く積もっているばかりでした。
リツが住処へと帰り着いたのは、薄べったい月が浅葱鼠の空に白々と昇り始める頃でした。
「ただいま。兄さん。その、昨日は……ごめん」
リツは戸口へ上がると、伏し目がちに、帰り道に心の内で何度も練習したごめん、を言いました。
「それで、今日も。何も、見つからなかったんだ……」
鋭く澄んだ冬の夕に、リツの声は静かに吸い込まれていきました。兄さんの返事は、ありません。よくよく考えてみれば、それもそのはず、シゲオは夕のお昼寝をしているころなのでした。気付いたリツは少し自分が恥ずかしく思えてしまって、そそくさと兄さんの眠る、隣のベッドへと向かいました。
しかし、何かがおかしいのです。おかしいと言えば帰ってきた時から、あまりに静かすぎるのです。まるで、誰もいないみたいに。
「兄さん……?」
返事はありません。北風ばかりがごうごうと、いやに耳障りでした。リツは長いお耳をピンと立て、お鼻におひげをひくひくさせて、そうっと兄さんのそばへと寄りました。
近寄らずとも、分かりきっていたことでした。むせ返りそうなほどの、命の漏れしたたる臭い。兄さんが横たわるのは、いたずらにぐしゃぐしゃと崩したような、赤黒の寒天のような、なにか。
それでも、どうにか信じたくなくて、指先を震わせながら祈る気持ちで触れた兄さんは、踏み固められた雪のように、既に凍てついていたのでした。
横たわっていた兄さんを、仰向けに抱き起こしました。いくぶんか痩せてしまって、ずいぶんと青白くなってしまったけれど、つい今朝までと変わらない、ふくふくと穏やかな寝顔でした。穏やかなその顔は、飛沫にべったりと濡れていました。首元にはためらいなどまるでない、一条の鋭利な裂。まるで、それは。にんげんのすると聞く、「屠殺」のようで。
かしこいリツでした。兄さんだったものが物語ることを、すぐさま理解してしまいました。
せり上がるものに慌てて、顔を背けると、酸えた汁ばかりが空っぽのお腹から、ぱたぱたと溢れます。あふれる涙に滲んだ視界が次第に像を結び直すと、そこには兄さんの掌がありました。茫然と目を凝らすと、錆びかけた肉断ち用の包丁を転がしたすぐ側で、干からびた小さな肉のかけらを、さも大切そうに握り込んでいるのでした。
厳しい冬もいつしか温くゆるみ、春が訪れます。ぶ厚い雪の布団にくるまっていた草花の種がいっせいに芽吹き、柔らかな風に揺られるうららかな春の夜に、一匹の仔うさぎがいました。とてもかしこくて、足が速く、森の仲間たちの間でもいっとう人気者の、仔うさぎでした。
「春がきたよ、兄さん」
仔うさぎは独りぼっちでした。独り、愛おしそうに呟いて、ふくふくと穏やかに笑いました。天頂でほほ笑むお月様にも劣らない、とっぷりと満ちた笑みでした。
仔うさぎは、爛漫たる森のかなたへと、しあわせそうに駆けてゆきました。