R18 挿入なし
MP100小説の一作目、人生二作目の小説。初期衝動の塊。
毛がちょっと生えてる。
兄さんは未精通。
投稿したい衝動に負けてタイトルはやっつけのあと付け。
*
明かりの消えた影山家のキッチンに足を忍ばせて向かう人影があった。
ついに三度目となった後始末は喜ばしくなくも手慣れてきて、恙無く済ました。ほっと一息つくと独特の気怠さが遅れてまとわりつく。汚れを清めてもなお不快がこびりつき、鬱陶しさという鬱陶しさを一刻も早く消し去ってしまいたい。しつこく尾を引く残暑も手伝い、Tシャツは寝汗に湿気っている。丁寧に拭った下腹を包む清潔な木綿は今しがた取り替えたばかりで、体温になじまず心もとない。
なにより喉が渇いてたまらない。あのときに放出しきってしまったのか。そんな世迷い言がちらつくほどに身体は水分を求めて暑く浮かされていた。そんなわけで飲み水を求めた彼は、ちょうどキッチンへと忍び込んだところだった。
いそいそと水道の栓をひねり、コップを手に取る。と、ガラス越しに見えた手指に、はたと動きを止めた。
白濁が、この指に絡みついていた。
ありありと思い起こされたおぞましい光景はそのまま脳裏にへばり付く。頭を振るおうともそう安々と離れてはくれない。
ねばつく感触に飛び起きたときにはすでに手遅れだったのだ。寝ぼけるがまま、違和感に任せて不用意に手を差し入れたのは、白濁の洪水となった下着の中だった。
背筋に這い上がる嫌悪感から逃れたい一心で弾かれるようにコップを置く。勢いのままに両の手を水道水へ突っ込む。掌をこすり合わせ恐る恐る滑りを探る。だが念入りに洗われた掌はさらりとした感触を伝えるだけだ。
「僕は何をやっているんだ」
自嘲気味に独り言を漏らす。
馬鹿げたことをしているとは人一倍に明晰な頭脳を持つ本人が一番に分かっていた。そもそものこと、どうしてこんなことが起きてしまうのか。思考を巡らそうにも答えを導き出せず、一番に落胆しているのもまた彼自身だった。
ほうっ、と細く息を吐き出す。次いで水を閉じ込めるように手を広げると、淡く輝くプリズムを伝わらせた。
すると、どうだろう。さらさらと砂時計の砂の落ちるよう規則正しく流れていた水は、まるで命を吹き込まれたようにうねり、くねる。
やがて歪に集合した塊は、一つの水球となって宙に浮いた。
影山律は超能力者だ。
その才能に目覚めたのはごく最近のことだ。つい先日まで、いかに水を前に力もうともスプーンを呪い殺しそうなほどに執念深く見つめようと、よそ行きを繕う爽やかな彼の立ち居振る舞いに淡く焦がれる同級の女子生徒には彼女らの心的外傷を慮るとちょっとお聞かせできないような奇声を発しても、正気の沙汰とは思えぬ身の捩り方をしようと、やはり物理法則の規律に品行方正に従う、つまりは何も起きない、どこにでもいる至って普通の素朴な中学生だった。
そして誰よりも超能力を欲し、畏怖していた。
律は水球を眺めている。彼のよく見知っているものよりは幾分かさざ波が立ち、安定に欠けるものであった。が、確かに律の超能力によるものだった。
しかしその目は水球を通り越しはるか遠くを見つめ、考えるのは専ら今晩に見た夢のことだった。
白状すると、律は同じような夢を繰り返し見たことがある。
愛おしさ、恐れ、執着。
冷静を心がける彼の胸の内を抑える間もなく沸騰させて濁らせるその夢は、何度見ても耐え難いものだった。幾度となく叩き起こされもした。だが、所詮はただの夢であり、それだけのことであった。
ただ、近ごろになって困ったことが起きた。
近ごろ、というのはより正確に思い返すならば、生徒会での過ちを犯した結果超能力に目覚め、兄と初めての喧嘩をし、し損ない、そのまま爪と名乗る連中に捕まり、兄の師である霊幻の大立ち回りにより終焉を迎えたという、平々凡々を自負していた人生において最も目まぐるしい一日の後からだ。
夢に起こされたある日の夜。突然に知覚したのは、肌に張り付く生温かい水気と、生理的に遠ざけたくてたまらなくなるような、なんとも言い難い生臭さだった。
初めてのそれに多少の戸惑いはあった。
日頃より、教科書参考書の類は手に入れた瞬間には目を通し、授業で習う頃には内容の殆どを習得し終えているのが常になっている。国語英語数学といった主要な教科、家庭科に美術、道徳。保健体育、という教科も例外ではなく、先々まで読み進めていた。そしてさしたる感慨も覚えず、豊富な知識庫の片隅にひっそりと加えられていた。
さすがの律も、無味乾燥に印刷された教科書体の羅列と初めて目にした生々しい雄の証との乖離にはしばし動揺した。それでも一度手持ちの知識に結び付きさえすれば、的確に行動できてしまうのは律の長所だった。
その知識庫曰く。ムセイ、そしてセイツウ、と呼ばれるものを迎えたらしい。
身に起きた現象をつぶさに理解すれば取るべき対処に迷いはない。鈍く脱力した身体を叱咤し、淡々と片付けていった。
明らかに何かがおかしい。そう確信したのはついさっき、今晩のことだ。
夢精自体は早々に受け入れていた。洗濯の手間や独特の気怠さを思えば憂鬱にならないでもなかった。だがそんなことを言い出すのであれば、中学に上がってから兄を追い越すまでになった背骨と、しなやかに伸びた背丈に比してもすらりと長い四肢との伸長に追いつききれていないのか節々が軋むように痛痒い。半端に生え揃わない縮れ毛は瑞々しい柔肌を針のように突き収まりが悪かった。どうも成長というのはすんなりと事が運ばないものらしい。
それでも現代の義務教育の賜物というのは案外偉大で、こんなものだ、という知識を身に着けた律は、大した動揺もなく諦め半分に納得していた。
問題はその前兆だ。
始めの一度きりならば勘違いか偶然にしておきたかった。二度も同じ夢を見れば、嫌でも原因に思い当たる。
まさか、という疑いも三度目の粗相で確信に変わった。
まず湧き上がったのは羞恥心だ。次には罪悪感がじわりと広がった。
「ねぇ、律?」
「律は、僕の兄弟だもん」
起き抜けの朦朧の中、幻の幼い兄はまばゆいばかりの笑顔で語りかける。自身の放った穢れに塗れて聞くには耐え難い幻聴だった。意味もなく耳を塞いでも、腰の奥に重く残響する気怠さは引き金の正体を嬉々として囁いた。
飛び起きた律にいつまでも傷心している暇はなかった。現実の大問題を片付けなければならないのだ。さもなければ寝直すこともできやしない。体液の染み込んだ衣服が乾いてガビガビになっていくのを放置して、二度寝出来るほどの図太い神経は持ち合わせていなかった。しかし事情が事情なだけに、兄に知られることだけは避けなければならなかった。
すぐ隣の部屋で眠っているであろう兄を起こさぬように、細心の注意を払って気配を殺し、部屋を抜け出す。惨めでたまらなかった。己の無意識が憎くて仕方ない。
とはいえ意識をあざ笑うようにやって来る厄介な生理現象に、抗う手段は何一つ思い浮かぶ気はしない。
なぜならば。
夢と覚醒の狭間に、快楽、としか言いようのない感覚を自覚していた。
心地よさと恐怖の溶け合ったさなか、極まった夢の果に、ビクリ、ビクリと、甘い痺れが神経を焼き焦がすのだ。それは律に覚えのある感覚の何れにも当てはまらない。奇妙でおぞましいものだった。だが、本能というべき部分では、一度味わえば逃れられない麻薬の類だとも勘付いてしまっていた。
事実、快楽に囚われた証は今宵も無情に律の股ぐらを濡らしていた。
律は苦悶した。だって、こういうのは、きっと女の子に向けるべきもののはずだ。律は兄が大好きだ。ひと呼吸ごとに兄さん、と呼びかけるほどに兄を慕っている。だがそれは兄弟としての親愛のつもりだ。もちろん誰よりも兄を好いているという自負はある。でも、これではまるで、兄に、その、やましい気持ちを向けているみたいじゃないか、と。まるで自分が変態になってしまったかのようで恥ずかしくてたまらず、なにより兄に申し訳が立たなかった。
快楽。そう、快楽だった。もやのように不確かな意識の中で、鮮烈にほとばしる。快感だった。思い出したとたん、律の一点がドクンと脈打つ。顔から火が出る音も同じくして聞いた気がした。グイとせり上った物の窮屈さにたまらず腰を引き、両の手で押さえつける。
そして、水球は念動力の支えを失った。
しまった、とばかりに、押さえ込もうとへっぴり腰のままとっさに力を送り込む。過剰なエネルギーが水球を急激に満たし、突沸しボコボコと泡を吐く。大慌てで出力を抑えると、まだらになったエネルギーに球の形はみるみるうちに崩れていく。どうにかして立て直そうと苦闘の末、一瞬の気の緩みで注ぎ過ぎた念動力に無残に膨張し、爆ぜ飛んだ。
Tシャツの袖で顔を拭い恐る恐るに見下ろす。俯向けば、水を吸ってぺしゃんこ寝た毛髪から滴る水音がいやに悲しく響く。今度こそ、総取り替えで着替えなければならないらしい。律はずぶ濡れの床にがくりと膝を落とした。
*
昨晩、二度目の着替えを済ませてベッドに戻れたのはとうに日付を過ぎたころだった。寝付けたのは時計の長針がさらに何周かした頃だ。かなりのグロッキー。はっきり言って最悪のコンディション。それでも起きることが出来たのは生来の負けん気からだった。もとより、生徒会の朝のミーティングに遅れるわけにも、部活に入りやたらと早く家を出るようになった茂夫と鉢合わせるわけにも行かず、寝過ごすという選択肢は無かった。
生徒会での業務を完璧にこなし、時間割も普段と相変わらず背筋をピンと伸ばしたままに全うした。隠しきれない目の下のクマは精悍な顔立ちに一層の凄みを彩り、一部熱心なご趣味をお持ちの女子生徒らの間で本日一の噂の種になっていたとは本人の知るところではない。
かくして睡眠不足の学校生活を根性のみで切り抜けた律の一日は、家に帰り着いても終わらない。兄が戻る前にやらなければならないことがある。大急ぎで鞄を置き学ランを脱ぎ捨て部屋着に換えると、リビングへ飛び込み、母に洗濯物畳みを買って出た。
「ありがとうね。最近律が手伝ってくれるから助かるわあ。シゲも見習ってくれたらいいのにねえ」
のんびりと母は感謝する。最も、兄に手伝われては困るのだが。曖昧に笑うと任せてよ、と一言だけ返した。
母が畳んで渡してくれる洗濯物はときたま兄弟の持ち物が混ざっている。ほとんどが母に買い与えられた年子の彼らの持ち物にそう違いはなく、本人たちですら見分けの付かないことも多々ある。かつてなら、さして気にすることもなく相方の所有物を見つけると互いに交換していた。
だが今となっては兄の衣服を身につける訳にはいかない。万一にも兄の衣服を汚したくなかった。それに洗濯したとは言え、自身の後ろめたい汚れを吸い取ったものを兄の手に触れさせたくなかった。
成長盛りに働き盛りの男三人を擁する家族四人分の高々とした洗濯物の山を前に、いざ参らん、と意気込んだ。その時に、
「ただいま」
と、間の抜けた声がした。
「あら、おかえり。今日はシゲも早かったのね」
「兄さん、おかえり」
動揺を気取られないよう、あくまで自然を心がけて返事をする。
「兄さん、随分早かったんだね。部活はどうしたの」
「筋肉って休ませながら鍛えなきゃいけないんだって。だから今日は軽めだよ。律、知ってた?」
「そ、そうなんだ。知らなかったよ」
本当に知らなかった。肉体改造部とかいうのは茂夫の所属することとなった新設の部活だが。やたらストイックな筋肉ダルマの集団の言う軽めの練習、とはどのくらい信用なるものか。それはともかくこの先活用する予定もない知恵を得てしまった。どうにも調子が狂わされる。
「じゃあ、バイトは?」
「今日はシフト入ってないよ。休み。律こそ、今日は早く帰れたんだね」
「まあね?簡単な議題だったからすぐに審議まで終わったんだ」
「そっか。良かったね」
内心冷や汗をかきつつうん、と頷く。生徒会が早く終わったのは本当だ。会議が始まると律は真っ先に挙手をした。指名されるや否や睡眠不足に一周回って冴えた頭に任せ、議題の問題点を洗い出しその解決策までを息継ぎなしに演説してのけた。鬼神の如き殺気に徳川副会長ですら口をはさむ暇はなく、神室会長は怯えたように引きつった笑顔のまま決を取った。
しかしながら、これ以上無駄話をするのは非常によろしくない。引き受けた仕事は早いこと終わらせなければならない。それに、あまり下手なお喋りをしていると要らないことまで口走ってしまいそうだ。眠気はとうに限界を通り越していた。
「シーゲー! 見てないで手伝いなさい、あなたのもあるのよ」
夕飯を作り始めたキッチンから母が顔を出す。
「いいよいいよ母さん! 僕、今日は暇だから。そうだ、兄さんはせっかく早く帰れたんだから宿題でも終わらせなよ」
「律も、そうやってお兄ちゃんを甘やかさないって言ってるでしょう」
「うん、僕もやるよ。」
やや食い気味に茂夫は言う。
「そんな、いいよ」
「数学の先生がね、宿題の分まで進ませすぎちゃったんだ。」
珍しく頑なな口調で迫るように重ねられる。まずい、こうなった兄さんからは逃げられない、と律の直感が告げていた。
「だから、とりあえず着替えと手洗いうがいだけしてくるから」
「でも、」
「じゃあ、律は待ってて」
「そう、うん。分かった。待ってるね」
決定事項のみを淡々と述べるとぱたぱたと階段を登っていった茂夫を見送る。万事休す。じゃあ二人とも、お願いね、と嬉しそうな母の声に力なく任せてよと答えた。
うず高く積まれた山の一端を崩そうと格闘しているうち、茂夫はすぐに戻ってきた。そういえば体育になると運動部の人間はやけに着替えが早かったと律は思い出す。そんなところにも茂夫の成長は現れているらしかった。いつもならば兄にとって喜ばしい森羅万象の全てを最優先に喜ぶ律も今回ばかりは苦々しい思いがする。
じゃあこっち手伝うね、と茂夫が腰を下ろす。うん、とだけ答えると律は自分の洗濯物をそれとなくかつ効率よく探し当てることに専念することにした。洗濯物の山越しの真向かいに座り、両の端から攻めていく。畳み終えるたら持ち主ごとに分けていく。茂夫のと父のものは茂夫のほうへ、律のものと母のは律の側へ。ひっきりなしに手を動かして山を崩していく。
「ねえ、律?」
先に沈黙を破ったのは茂夫だった。律は密かに身構えながら、長方形に折り整えられたジャージを自分の区分に加えつつ、なあに兄さん、と続きを促す。
「何か悩んでることはない?」
「えっ」
思いもしない一言に心臓が飛び出しそうになる。危うく止まりかけた手をそのまま山に突っ込ませる。
「特に、無いかな」
とっさに引っ張り出したのは父のポロシャツだった。
「そう」
茂夫は案外そっけなく答えた。
洗濯機でもみくちゃにされた鹿の子編みにうっすらと皺がついている。パシン、パシンと小気味よい音を立てて身頃を伸ばしていく。リズミカルな乾いた音とバクバクと乱れたままの心音がてんでばらばらに分離して耳障りだ。
「律」
凛、とした呼び声に反射するように顔を上げる。黒く濡れた二つの瞳が律をまっすぐに射すくめた。身じろぎ一つできずに続きを待つ。だが声の主は、まるで読めない表情のままに見つめ返してくるだけだった。
「兄さん?」
たまらずに声をかける。茂夫は虚を見つめたまま黙りこくる。時が止まってしまったかのようなたっぷり三秒、息を詰めて見守ると、思い出したかのようにこう言った。
「そうだ、今日の数学が進みが早すぎちゃって。教えてほしいんだけど、良いかな」
なんだそんなことか、とそっと肩の力を抜く。
「良いよ、じゃあご飯終わったらね」
「うん、ありがとう。後で行くね」
「わかった待ってるよ」
視線を手元のポロシャツに戻すと、次は襟を揃える。首元のボタンをはめていくと一つ取れかかっている。これは後で母さんに頼んだほうが良いかな。今のうちに直しておかないと取れて無くしてしまうのは時間の問題だろう。そんなことを考えると、適当な三つ折りにして他の山とは避けて置いておく。
律、と再び声をかけられたのはその時だった。
「これ、律のだった。そっちに置いてもらえるかな」
茂夫の手に握られていたのは、昨晩のあの、ブリーフだった。不揃いにふんわりと折られた腰ゴム。そこに名前ペンで書きこまれた、サイズもデザインもまるで見分けの付かないごく一般的な男児下着の、唯一持ち主を示す「影山律」の文字を唖然と見つめた。
ありがとう。礼を絞り出すと、叱られそうな子供のように真正面の兄を盗み見る。直立に据えた顔をまばたき一つもせずに見つ返してくる茂夫は、軽く微笑んでいるようで、感情は深く黒い瞳の奥底に沈められていて、結局のところその表情は何一つ読み取ることは出来ない。
受け取ったブリーフをよろよろと自分の持ち物の区分に重ねる。と、シゲ、律、そろそろ夕飯出来ちゃうわよ、と母の呼ぶ声がする。じゅうじゅうと肉汁のはぜる音。それに玉ねぎの甘く焦げる匂いに、食べ盛りの胃袋が二つぐう、と鳴った。洗濯物の山はようやく五号目といったところか。無駄口を聞いている暇はないかもしれない。二人は未だ半分残る山を大急ぎで崩していった。
*
律は駆けていた。滑り台の下をくぐり、巨大にそびえるジャングルジムの間をすり抜け、小さな兄の背を追いかけていた。ポイ捨て禁止のフェンスの張り紙の赤色がいやに眩しい。どうやら公園にいるらしい。
小さな歩幅を重ねた先には水飲み場があった。待ちきれないとばかりに律は思い切りつま先立ちになり、てっぺんの蛇口をひねる。
「ねぇ、律?見てごらん」
茂夫がそう声をかけると、垂直に吹き上がった水は高く高く宙を目指す。惚れ惚れとするほどの放物線は流れに任せるようどこまでも伸びていく。伸びやかな弧の末に丸くまとまり、浮かび上がる。シャボン玉のように軽やかな水の玉が宙を漂う。
実の兄、影山茂夫は超能力者だ。だが律とは異なり、生まれながらの超能力者だった。そして、途方もない力を持った超能力者だった。
影山律にとっての影山茂夫という存在は、あまりに身近であり過ぎた。産まれ落ちたその日からいつだって一歩先を歩いている兄の背中を、視界いっぱいに収めて生きてきた。
律にとっての世界の中心にはいつも兄がいた。だから兄は世界の基本だった。
律はわあ、と目を輝かせ、そっと手を差し入れてみる。水球は穏やかに幼い手を迎え入れひんやりと気持ちがいい。こんな時、兄の超能力に感激した時、いつでも同じ質問をしていたものだ。
「僕にもできるようになるかな」
そうすれば、兄もまた決まってこう答えたっけ。
「律にだってできるよ。だって律は僕の兄弟だもん」
茂夫はふっくらとした頬をふにゃりと緩めて微笑む。なんの疑いも、悪気もなしに、そう返してくれたのだった。
すぐ目の前に居る兄に出来ることは自分にだっていつか出来るに違いない。出来ないほうがおかしいだろう。そう信じてきた。少なくともこの頃は、信じ込んでいた。
のめり込むように夢中になって感触を楽しんでいると、水球が突然ぶくぶくと膨れ上がり始めた。腕まで肩まで浸かっていき、とうとう全身がすっぽり水に飲み込まれる。天も地も分からぬまま重たい水をめちゃめちゃに掻く。たまらず吸い込んだのは水ばかりで、慌てるまま肺の空気ごとごぼごぼと吐き出す。苦しい。怖い。もはやこれまでか。そう思った瞬間、律は再び地表に立っていた。息を乱しながらあたりを見渡すと、住宅街の路地にいるらしかった。
こちらにも見覚えがある。確かこれは、ある年のお正月の。
「返してよ!」
忘れもしない、あの日の二人組後ろ姿が現れるや否や、叫んでいた。
「いいよ、あの人達、高校生だよ」
兄さんの声が聞こえる。これ以上は行ったらいけない。分かっているはずなのに、身体は勝手に走り出す。
「僕達のお年玉返してよ!」
下劣な笑みを浮かべた高校生がぐいぐい近くなる。行ってはいけない。止まってくれない脚に運ばれて、あの時へと向かっていく。あれは兄さんじゃない。兄さんじゃないんだ。
「ごめん、起こしちゃった」
兄さんが覗き込んでいた。
「いーはん?」
状況が飲み込めずもがもがと呼びかける。
つけっぱなしの蛍光灯に逆光に照らされた茂夫の顔に黒黒と影が落ちている。それでいてうっすらと纏ったプリズムは、薄く造形された目鼻立ちをくっきりと浮かび上がらせている。間近に迫った茂夫の念動力にひゅっと喉が鳴る。後ずさろうと反らせた背中はマットレスに沈み込むばかりで、ベッドの上に横たわっているらしいことを知る。パジャマ姿の茂夫がベッドの脇に膝を立てて、律を覗き込んでいた。
「兄さん、なんで、これは」
これは、一体どういうことか。律は、ぼんやりと記憶を手繰り寄せていく。
洗濯物を手分けしてどうにか夕飯前に片付けると、帰宅した父も迎えて家族揃って夕飯を囲んだはずだ。ハンバーグを切り分ける兄さんが櫛の一本一本をてんでばらばらに曲げてしまったフォークとバネみたいに螺旋に巻かれたナイフを超能力で直したのだった。まさかこんな事ができる日が本当に来ただなんて。兄さんの超能力で曲げられたものを、自分の超能力で戻すことが出来る。夢みたいなことだ。あの微笑みを見るためならば、これ以上の力の有効活用法も無いのではなかろうか。否、きっと無いだろう。いやいや、そうじゃない。つい嬉しさに脱線をしてしまった。
「どうしたのかと思って、入ってきちゃった」
その後はどうしたのだったか。夕飯が終わって自室に戻ると緊張が一気に解けて眠気がのしかかってきた。ちょっとくらい横になるだけなら、と僅かに残った思考でベッドに倒れ込んだ、ような気がする。
違う、もっと前。数学。そう、兄さんに数学を教える約束を洗濯物畳をしながらしたのではなかったか。
「勉強も教えてほしかったけど、だって律、ずっと漏れていたから」
ずっと、漏れていた? 漏れていたとはどういうことだろう。
そうだ、兄さんとの約束すら忘れて、布団も掛けぬまま、睡魔に負けて眠りこけてしまっていたのだ。眠っている間、夢を見ていた。幼い日の記憶の夢だった。それは例の、起きるといつも夢精をしていた。
不味いことになった。ガタリ、と茂夫を跳ね除けて起き上がろうとする。しかし、ゆるく念動力が流し込まれているのか、叶わずベッドに磔にされたままだ。
「ごめんね、律。僕は律の兄弟なのに」
「やめて兄さん、どうして兄さんが謝るの」
兄さんに謝りたいたいことがたくさんあるのは僕の方だ。と、ありったけの筋力と念動力を込めても、茂夫の力の前では虚しくもそよ風ほどの意味もなく縛り付けられている。見事に調節された力は律に一切の苦痛を与えることなく、しかし堅牢に拘束していた。
満足にもがくことも許されないまま、律は気づいてしまった。律の自身が痛いほどにジャージごと勃ち上がっていた。ひとたび気づいてしまうとどくり、どくりと脈打ちながら更に血を集めていくようだった。半泣きになりながら、しかしイヤイヤと首を降ることすら出来ず、茂夫の顔を、罪を読み上げていくその口元を強制的に見つめこととなる。
「このところしょっちゅうだったの、知ってはいたんだ。」
気づかれていた。兄さんに。
とうとう処刑台にギロチンの鎌が宛てがわれた気がした。血の気が引いていく。肚が底まで冷えて震えが止まらない。なのに股間は熱く滾り、腹に触らんばかりに反り返るほど突き上がる。
「今日は特にすごかったから。でもやっぱり、僕は律みたいに察しも良くないし頭も良くなれないから。何も気付いてあげられないから。一度ちゃんと話さなきゃって、そう思って」
続きなんて聞きたくなかった。
「この前みたいに、律だけが苦しんでるのを見過ごすことなんてもうしたくない。ちゃんと律の悩みも聞きたいから」
だが逃げ出すことも耳を塞ぐことも出来ず、鋭利に磨き込まれた鎌が引き上げられていく。ギシギシと鋼鉄の重量に軋む音すら聞こえてくるようだ。
「だから教えてほしいんだ。律、何か悩みごとがあるなら、教えてよ」
言い渡されたのはほとんど極刑だった。茂夫の言葉はまっすぐ、的確に律の喉笛に刃を定めた。覚悟を決めなければならなかった。だが、律自身にも整理の付けられていない生理現象をどう説明したものか。考えはまとまらない。切っ先に身をすくませたまま、懺悔の言葉すら出てこない。
「ねえ、律? 落ち着いて、ね?」
この状況でどうしたら落ち着けると思えるのか。慣れっこのつもりだった兄の見当外れな気遣いに精神が削りとられていく。茂夫は言葉を切ると、一瞬の逡巡の後、プリズムを揺らしながらおもむろにすっくと立ち上がる。唐突な行動を律は動かせる眼球だけで追いかけた。決心したようにずいと迫ってくる。すると、あろうことか、茂夫はベッドの上に這い上がってきた。
「お願いだから、それだけはやめて!」
「律、大丈夫、大丈夫だよ。落ち着いて」
駄々っ子をあやすよう、優しい声音で語りかけられる。一体全体大丈夫な要素はどこにあるんだ。そんなものを授けてくれる救世主がもし居るのならば、例えブロッコリーにだって信仰を捧げるだろう。しかし空気の読めなさもここまで来ると凶器になり得るのか。息も絶え絶えにさすがの律も兄の行く末が心配になってくる。最も、真っ先に心配すべきは自身の処遇である。追いつききれない現実からのささやかな逃避だった。
逃避どころか身じろぎ一つままならない虚しい抵抗を試みるうち、茂夫の左の膝、右の膝とが順にベッドに添えられる。成長の軌道に未だ乗り切れていない華奢な男子中学生とは言え、ひと二人分を支えるスプリングはギシギシといやに耳障りに軋む。茂夫の腿が律の体幹をまたぐ。いよいよ逃げられない。元より逃げ出す隙など低級霊一匹逃さぬほどに無かった。だが、馬乗りに見下された絶望感の説得力は中々の物だった。
ああ、ギロチンの刃が、落ちる。きっと臨死体験ってやつはこんな風のスローモーションに見えるんだ。逸らすことも出来ない目の前で、茂夫がゆっくり、ゆっくりとしゃがんでいく。
「落ち着いて、超能力が漏れてるか、ら? ひあっ?」
「へっ、ええっ?」
思いもよらない一言に律が間の抜けた声を上げたのと、茂夫が屹立に腰を下ろしたのはほぼ同時だった。
兄弟は各々に混乱していた。しばしの沈黙。ギシギシ、ギシギシと、スプリングが軋む。ベッドだけではない。部屋中の家具が、相反する二人分のプリズムに宛てられて軋んでいる。
「あの、律、超能力が漏れてて。ごめん、こんなつもりじゃ」
「兄さ、落ち着い、て。あっ、あんまり動かな、あうっ」
どっかりと座り込んだ茂夫があわあわと動くたび、はちきれんばかりに膨らんだ律の一物はぴちりと押し付けられた茂夫のまろい臀部に捏ねられる。痛いほどの電流が走る。言葉が跳ねる。浮き立ちそうな腰は相も変わらず抑えつけられて、脳天まで駆け上る衝撃に耳の先まで熱が昇る。なんだこれは。こんなのは知らない。知りたくない。
背徳感。そして、罪悪感。焼き切れた思考回路に明滅したのは、二つの感情の正体だった。迂闊だった。それはかつても経験した感情だった。もっと早くに気付くべきだった。いずれこうなることは予見しておくべきだったのだ。
「律、危ないから。まずは力を抑えて」
「兄さん、ご、めんなさい。ごめんっ、ひっ、なさい」
「聞いて、律。だめだよ。超能力をそんな使い方したら、事故が起きるよ」
涙の膜に歪んだ視界いっぱいに、茂夫の顔まで赤く染まっていく様をまざまざと見せつけられる。こらえようもなく陰茎に上り詰めてくるものがある。火照りが火照りを呼び、燃え上がった情炎に身も心も超能力も焼き尽くされてなお燃え盛った。何もかもが一杯一杯だった。律にコントロールできるものは何一つ残っていなかった。
「話をしたいんだ。聞いて」
不安定に増幅した念動力が部屋ごと抑えつけている茂夫のものと干渉してぐわんぐわんと響くのも、茂夫の呼びかけも、きっともう耳に届いていない。情欲と罪の意識に囚われたその目はもはや茂夫を映していない。
「り、つ!」
茂夫は律の名を叫ぶと、両の手で頬をバシン、と挟み込んだ。圧倒的な出力は律の念動力をかき消して、ひときわ大きくぐわり、と空気が共鳴する。飾り気なく切りそろえられた茂夫の髪が滾々と湧き出る念動力に陽炎のように揺らいでいる。無尽蔵に湧き立つプリズムに引き絞られた瞳孔と、顕になった鳶色の虹彩が煌めいている。残響が収まる。大気さえもが絶対的な力に調律され、訪れたのは完全な無音だった。神々しい。兄さんはやはり、世界の基本だった。極限に張りつめた心身が最後に捉えたのは、兄に見出した神聖だった。
産まれ落ちたその日から律は茂夫の弟だった。身近であり過ぎたその人にいつか手が届く日が来ると願っていた。たぶん、未だ心の何処かで信じていた。こんなにも敵わない存在に今日まで欲深い憧れを抱いていた。
そして律は絶頂した。
白く、皓々と弾ける快感に、些末な感情も、理性も、木っ端微塵に打ち砕かれた。駆け巡る性感の激流は細身の体躯に収まりきらず、声にもならない悲鳴が漏れる。いつの間にか目に見えぬ束縛は解かれていて、びゅくり、びゅくりと精が吐き出される毎に、一回り小柄な茂夫を乗せたまま腰がガクガクと跳ねる。
未知の法悦がもたらしたのは、長い長い射精だった。行き過ぎた快楽に、呆然と涎を垂らし息を切らし、消え入りそう律の意識を引き戻したのは、実にシンプルな茂夫の一言だった。
「あの、どうしよう。これ」
指し示したのは、しとどに濡れた律の股間だった。そして、パジャマの柔らかな生地越しにはっきりと形を主張する茂夫の怒張だった。
まず動いたのは身体だった。今度こそ茂夫を跳ね除けてベッドに尻餅をつかせたところを、すかさずに緩く締められたパジャマのズボンを引き剥がす。自身の身につけているものと全く同じ大量生産のブリーフに記された「影山茂夫」の文字を親指でねっとりとなぞる。腰骨までたどり着くと、少しこそばゆかったのかふるりと震える。零れそうな唾を飲み下すと腰ゴムに指を引っ掛け、ひと思いにずり下ろす。ぷるん、と実に瑞々しく茂夫のものが跳ね上がった。
ミルクのようになめらかな色白はまじまじと見つめれば漆黒が点々と覗いている。最後に一緒にお風呂に入ったのはいつであったか。そう遠くはない過去にはまだ生えていなかったと記憶している。幼い頃から何の気なしに見てきた茂夫の物の、初めて目にする性器として欲情を示す様を吸い寄せられるように凝視している、と、待ったがかけられる。従順に指示を乞う子犬のように顔を上げる。
「律のも、苦しそうだ」
指摘されて初めて気付く。あれ程までに精を吐いたばかりだというのに中心は硬く芯を持ち貪欲に頭をもたげている。律はズボンに手をかける。律の手に茂夫の手が重ねられる。二人は合図するでもなしにジャージを下着ごと抜き取った。火照った体温に温められた白濁をぐっしょりと含んだ布地が外気に触れて、湿った臭気が放たれる。鮮烈な生々しさは鼻の奥深く粘膜に染み渡り、掻き立てられた情欲に脳の髄までグラグラと煮立てられる。
律はつい先程の快楽を思い起こしていた。こうすれば、きっと、兄さんも。
茂夫の勃ち上がりを握りこむ。吸い付くように柔らかな感触に痛めたりはしないだろうか、とおっかなびっくりに揉んでみたり扱いてみたりと試すうち、むくむくと膨れ上がり一直線に天を衝く。茂夫もおどおどと真似をするように律の剛直に触れる。慈しむように包み込む掌の、ふっくらとした肉に包まれた骨の節がもどかしく擦れ、甘い痺れが腰の奥深くまで蝕む。恐る恐るに始まった愛撫は、力加減を扱く箇所を、速さを、そして自身の物に走る痺れとを貪欲に学びとるごとに遠慮が剥がれ落ちていく。
知らずのうちに前のめりになり、額と額がぶつかる。交差する視線の先には、よく似た形の目が、鼻が、口が、情欲に歪んでいた。熟れた吐息の合間にどちらともなく好きだ、と言う。
好き、可愛い。大好き。僕のほうがもっと、好き。口寂しくてはくはくと零す。求める唇を唇と合わせてどうしようもなく浅く食み合う。
布一枚の僅かな距離すらもが惜しくなり急くように上着を剥き去る。薄っすらと浮いた肋に薄紅の瘢痕が一対載るばかりの胸板を重ね、腕を回して囚え合う。二本の剛直は若竹のように靭やかに絡み、敏感な先端がもどかしく擦れる。自らの物を扱いているのか。相手の物が疼いているのか。感覚の境目は融け、じきに一本に重ねられ、擦り扱きあう。
ついに互いの重みを支えきずに倒れ込む。背中を剥がれた手と手は硬く結ばれる。零れる唾液の一滴も逃したくはなく、舐めとる舌先がぶつかり、次第に深く、奥深くまで口腔を蹂躙する。少年一人が眠るために備えられた窮屈なベッドの上、殻の内で孵ることを拒む雛鳥のように、きつく寄り添う。上も下も分からぬまま、同じ形の骨と肉を絡めて、同じ性の形を貪る。始めから一つのいきものであったかのように入り混じり、融け合い、兄弟は共に果てた。
精も根も尽き果てて、律はベッドに沈み込んだ。脱力に身を投げて天井を仰いでいる。と、今にも泣き出しそうな茂夫の顔がひょこり、と覗く。
「りつ、りつどうしよう。収まらないよ」
眠気に霞む目をこすり見やった屹立にぎょっとする。ビクリビクリと断続的に震えながら感じ入るままの茂夫の物は、律の撒き散らかした精にてらてらと濡れている。しかし包皮を被ったその先端からは蜜の一滴も零さずに、ふるふると震えたまま硬く、反り返り続けていた。
そうか、兄さんは、まだ。思い当たった可能性に得も言われぬ愛おしさがこみ上げた、のも束の間のこと。有無を言わさず覆い被さってくる茂夫に青ざめる。
「待って兄さん、もうキツイ、かも」
吐き出すべき熱原は未だ作られず、熱暴走する享楽に茂夫の理性はとうにショートしていた。終わりを知らない猛りは精の滑りを借り、ふにゃりと萎れていた律の物の硬度を取り戻させていく。制止の声がぐずぐずと蕩けていくのにそう時間はかからなかった。
*
目覚めの良い朝だった。一つ大きく伸びをすると、セットのきっかり五分前に起きた目覚まし時計のスイッチを止める。階下に降りれば、父と茂夫は先に食卓についていた。トーストに目玉焼き、スープカップに開けた粉末のコーンポタージュにお湯を注いでコップ一杯の麦茶をお盆に乗せ、茂夫の隣の席に着く。
ニュース番組はさして興味もない芸能人のゴシップを垂れ流している。原色のテロップに押しのけられ、申し訳程度の左隅に表示された天気予報が味玉県に切り替わる。晴れ時々曇り、降水確率二十%。カラリとした秋晴れだけれども、念のため折りたたみ傘は鞄に入れて出かけようか。
トーストのきつね色にバターナイフに少量こそげたマーガリンを塗り込めていく。軽やかな植物性油脂は熱に蕩けて鼻孔を甘くくすぐり、香ばしく焼き上がったパンに染み入りふやかしていく。その真ん中に目玉焼きをするりと乗せる。表面を薄く覆う白身の膜をフォークで突くと、半熟の黄身がもったりと溢れ出る。所々が半流動に固まった鮮やかな橙色を几帳面にほぐし、とろとろとかき混ぜ、広げていく。口に運ぼうと薄く唇を開く、と、すぐ隣からぼちゃり、と音がした。茂夫のティースプーンは幾重にも捻られた上に直角に折り曲げられて雫を零し、とろみのついた波紋にはインスタントのクルトンが揺られている。
貸して、兄さん、そう声をかけるよりも先に茂夫が口を開く。
「ねえ律。これからもまた、お願いできるかな」
だっはっは、シゲはまたかあ、と新聞から顔を上げた父は笑い飛ばす。律は一拍、歪められた銀の光沢を見つめる。交差させた視線の先には、いつものごとく感情の沈められた瞳が見つめ返すだけだ。
「こちらこそお願い、ね?兄さん」
恭しく受け取ったスプーンは、蕾が解けるよう艶やかにくるくると回る。細く真っ直ぐな柄の先に磨かれた曲面のなだらかに開く元の姿に戻されると、再び茂夫へと手渡された。本当に、何なのかしらこの子達。そんな母のつぶやきは聞こえているのかいないのか、無垢に微笑みを交わす兄弟が見たのは、夢か現か。