傷/傷跡

兄さんにばったり遭遇したのは、生徒会の仕事も終えて学校を出ようとしていた頃だった。すっかり人気のなくなった校庭の犬走りの彼方から兄さんはびっこを引き引き、ひょこひょこと歩いてきた。
「自主トレしてたら転んじゃって」
僕を見つけた兄さんはそう言うと、居心地の悪そうにはにかんだ。

ちょっと見せてと頼んだら、差し出されたのはふくらはぎ。魚の腹のように青白く透けている。筋一つ浮かすことなくほっそりと伸びた脛骨。そのてっぺんで控えめにちんざまする、ひざ小僧。
ふっくらと柔らかな白いお皿は、粗いヤスリにかけられたように粗く、ざらざらと剥がされていた。不均等な凸凹に抉られて砂粒が付いたまま。血の雫がぷちぷちと湧き出して、紅の珠がぷくりと膨れて育つ。やがて育った粒がくっつき、粘性を帯びながら連なりねっとりと、垂れ落ちる。
「律?」
「ご、ごめん、つい。あんまり痛そうだから見とれちゃって。保健室行って消毒しよう。肩、貸すから」
「ううん、平気だよ。しょっちゅう転んでるから」
「それ、大丈夫じゃないよ……」
「そうだよね。……どうしてこんなに鈍くさいかな」
兄さんはしょんぼりと目を伏せる。
そんなことはない、と叫びたかった。でも、何を叫べというのだろう。
怒りのようでそれほど単純なものではない。愛の告白を言い淀むような歯がゆさと羞恥と、子供じみた言い訳を考えるような焦燥と、言い表しようのない感情のせめぎ合いに翻弄されて結局、何一つ、伝える言葉は出てきやしない。
視線を落とせば、情けない僕をあざ笑うよう、膝小僧の傷はいつしか黒ずみ、あんなにつやつやと潤んでいた雫はでろりと萎びてひしゃげていた。

無性に腹が立ったんだ。
跪き、傷口へ爪を立てる。
「いたいっ」
かさぶたのあかんぼうをぐしぐしと削ぎ落としにかかる。汚らしい固まりかけの剥げた跡からはじわじわと血が吹き出した。
「いっ…………、汚れちゃうよ、りつ」
弱々しく訴える兄さんを盗み見る。半端に開き、歪められた薄い唇。困ったように寄せられた眉間の皺。噛み殺した吐息がふうふうと歯の隙間から漏れるのを聞いた。不条理な蹂躙を甘んじて受け入れるどころか、どこか期待すらしているような熱を孕んだ瞳とぶつかる。むき出しの肉を掻きむしる僕の爪を、縫い留めるようにつぶさに見つめていた。

カッと腹の底が燃える。怒りではない。もっと熱く、突き上げるような。
エネルギーが漲るような、何か。
ありていに言って僕は興奮した。

「汚くなんかない」
出来かけのかさぶたも後から後から滲み出した鮮血も、ベタベタといっしょくたに塗り込める。
「汚いわけがないよ」
僕は膝をべろり、と舐めた。粘着質な鉄錆が鼻の奥にこびりつく。およそ口にするものではないと本能が警告を発する生臭さに、しかし僕はすっかり酩酊していた。
ひと舐め、ふた舐め。両の手で膝小僧を包み、むしゃぶりつく。が、つたない吸血はそう長く続かなかった。
「うえ、じゃりじゃりする」
舌に砂がまとわりつく。噛み締めてみればざりざりと不快を催す口内に、たまらずぺっぺ、と唾を吐いた。
まだ洗ってなかったからね。
申し訳なさそうに兄さんは笑う。笑う兄さんにつられてしまって、僕もうやむやにはにかんだ。