金星の体温

空の彼方が赤く染まる暮れ方だった。

刻々と暗くなる宿の部屋で、僕たちは町の年老いた錬金術師から借り受けた本を読み漁っていた。特段、目新しい知識も書かれていない本の山に飽き飽きしてふと、兄さんの方を見ると、本に齧り付くように顔を張り付かせて読みふけっている。僕はこんな、魂と鎧だけの姿になってから、不思議と視覚や聴覚は鋭敏になったようで夜目は効く方であるけれど。いつの間にか夕闇は深まり、生身の兄さんにこの暗がりは酷であったと思う。それでも、ライトを灯しに行くのは面倒がって横着しているんだろう。
僕は本に栞を挟むと、ライトのスイッチを点けるために立ち上がった。
「ありがとな」
顔も上げずに兄さんは言った。
「そんなに夢中になって、使えそうな情報あった?」
「なあんも、ねえよ」
ぱちり、という軽い音と共に切り替わって明るくなった部屋で、兄さんは本を投げ出してぐい、と伸びをした。
「アルはどうだった?」
「僕の方も、あんまり。兄さんのそれは何の本?」
「恒温動物と冷血動物の魂に質的な差はあるかどうか、みたいなことが書かれてたな。牛や馬と魚ならば直感的に前者のほうが人間の魂と近そうに思えるけれど、人里離れた野生に暮らす短命な小鳥と長年飼われた人の顔も見分ける老齢の亀ならばどちらのほうが人間の魂や肉体と近しいか、体温の違いで魂を線引して良いのか? みたいな話だな」
「デビルズネストでは哺乳類との合成獣の人もいたけれど、蛇の人も居たよね」
「ああ。きっと大事なのは動物の種類じゃない。命あるものであれば合成はとりあえず、可能なんだ。ありえないなんて事はありえない、んだろうな」
「僕の常識がどんどん書き換わっていくよ」
「オレたちの知りたい本題じゃないけどな。でも、考えてみれば当たり前だよな。だって命ある動物ですら無い……鎧に魂が定着できたんだから」
「……うん」
僕がうなずくと、ひときわ強い北風が家を揺らした。造りの甘い家屋に隙間風が吹き込んで、兄さんは震え上がった。
「さみい……この所、どんどん気温が下がるな」
「そうなんだ。僕にはよく、分からないけど」
「そっか。そうだよな」
兄さんは困ったようにへら、と笑った。僕はそんな兄さんの顔を見るのがいつも苦手だ。逃げるように目を逸らした。
しかし、目を逸らしたはずの、視界の真ん中にずい、と兄さんが入り込んできた。とびきりの名案を思いついたというようにニカ、と笑っている。こういう時は、大抵ろくでもないことを考えているんだ。
「……なんだよ」
「オレが、暖めてやろうか?」
「え? どういう……」
僕が困惑している隙に、兄さんは僕にぐいぐい近づいてきて、手を取り、胴に腕を回して身体をピタリと密着させて、頬を寄せる。想像とはまるで違う、静かに甘える子猫のような、平和的で幼気な仕草に拍子抜けして、つい固まってしまった。
「どうだ、少しは暖かい気が、するか?」
うつむいて、酷く頼りない声で言う、その表情は伺い知れない。
「……うん。僕には兄さんの体温は分からないけれど、心はとても、暖かいよ」
「そうか。それは良かった」
こちらを見上げたところの兄さんは、ほっとしたような、泣き出しそうなように、眉間にしわを寄せて精一杯に微笑んでいた。
「でも兄さんはこんな、鉄の塊に抱きついてたらもっと寒いだろ。風邪引かないように暖かくしてよ。ひざ掛けの毛布出してこようか」
「そうだな。アルは優しいな」
「ううん。そうだ、今晩の夕飯はここのおじさんが畑で収穫した根菜のスープだって。暖まると良いね」
「それは楽しみだな」
先程までの、脆く崩れそうな、危うげな表情はどこへやら。本当に楽しみなようで、ニコニコ顔で机の上を大雑把に片付け初める。
すっかりブルーに沈んだ夜空には金星だけが冷え冷えと輝いていた。