龍神さまが見てる

第七支部編までを改めて読み返して、第七支部編までの兄弟って良いよな! 続きはうーん、思い出せないし知らないような…というごっこ遊びをして書いたもの。
まだ100話も経ていないし色々解決していない兄弟が龍に遭ったりするお話。

2024年5月のモブ律webオンリーの展示作品でした。

 

 

 

 放課後の、生徒会の会議が今日も終わった。そそくさと帰ろうとする影山律に声がかかる。
「影山君、途中まで一緒に帰らないかい?」
 柔和に笑いかけたのは。不祥事により生徒会長を一度は降り、選挙で再当選して再び生徒会長へと返り咲いた、神室真司だった。
「珍しいですね。良いですよ。少し待っててください。荷物をまとめますから」
 律は答えながら、手早く筆記用具を通学鞄に収めた。

 帰路にて。神室は嬉しそうに口を開く。
「僕の兄がね、プレゼントをくれたんだよ」
「プレゼント、ですか?」
「うん」
「こんなこと初めてだったからさ。びっくりしたよ」
「中身は何だったんですか」
「万年筆だったよ。生徒会で使えばいいだろうって。がんばれってさ」
 律は今日の会議を思い出そうとする。だが、他人にさして興味のない律に、ついさっきの神室の手元など思い出せるはずもなかった。
「カートリッジ式のやつでね。使い勝手もいいし書き心地が最高なんだ」
「そうですか」
 普段であればどうでも良いと切り捨てるだろうが。あまりにも嬉しそうな神室を見て、律は次の会議のときには必ず、神室の手元を見てみようと思ってしまうほどだった。
 神室は軽く空を仰ぎながら言う。
「親の方は、まあ、相変わらずだけどね。なんだかんだ言って、一番近しくて見守ってくれているのは、兄弟なのかも知れないね」
「……そう、かも知れませんね」
「それで、キミの兄を何だか思い出しちゃってね。最近は彼、元気にしているかい?」
「ええ、おかげさまで」
 律は少しかしこまって答えた。
「そうか。キミも良い兄を持ったな」
「そうですね」
 律は答えながら近頃の兄の姿を思い起こす。かの組織との激闘以降、それなりに平和な日々が続いていた。律自身も超能力を得て、色々なことはあったものの今は落ち着いた生活をしていると言えるだろう。律はそう判断している。
「それじゃあ、僕はここで。影山君、また明日」
「はい、さようなら。神室会長」
 川にかかる橋のたもとで二人は別れる。橋を渡っていく神室を見送り、律は土手を歩き始めた。

 しばし歩いて律は、視界の端に奇妙なものを見つけることとなる。
「浮いてる……ヘビ?」
 それは河原のあたりでふらふらと、波を描いて頼りなく宙に浮く、小さく白い細長い物体であった。こういった物理法則を無視した「もの」が視えるようになったのも、つい最近のこと。それはきっと、本来視えてはいけないはずのものだ。
 しばし足を止めていた律が歩き出そうとした。直前、それと目があった気がした。
「おまえ。みたな」
 距離があるはずであるのに、しかしはっきりと脳に響いたその声に律はわずか、焦ってしまった。あまりの不気味さから無意識に、反射的に放った力は、狙いを外して彼方に散った。
「きさま! やるきか」
 先程とは違い、明らかな怒気を含んで低い声が脳底に震える。
 不味い、怒らせた。
 律が思うよりも速く、それは猛然と迫りくる。律が慌ててバリアを張るとそれは真正面から激突する。幾重にも連なった小さくとも鋭い牙がバリアに突き立てられて、まばゆい火花が律の目と鼻の先で爆ぜた。
「こざかしい!」
 それは吠えるとしゅるしゅると距離を取る。
 逃げてくれたか。律は気を緩めかけた。が、目にも止まらぬ速さでそれは律の背後に回り込んだ。
 「しまったッ……!」
 振り向きざまのめちゃくちゃに、律はプリズムを放つ。放射された威力不足の光の束をかいくぐって、それは律の懐に飛び込んだ。
 姿を見る間もなく、ザク、と右の二の腕に熱が走る。ちぎれた制服の下から赤い血潮がじわりと染み出して生暖かい。
 殺らなければ、殺られる。しかし生半可な攻撃も通用しない。バリアを張り続けるのもジリ貧になるだろう。
 平穏な日常から、急速に窮地に陥ったことをようやく理解した律は手のひらに冷や汗を握り込み、次の襲来へ向け、両手のひらを敵へと向けた。
 次で殺らなければお終いかも知れない。覚悟を決めた律へ向かって、それは襲い来る。遠すぎても狙いが狂う。引き付けて、狙いを定めて。
 今だ。
 律が気を張ったその瞬間、律の背後から轟音が轟いた。
 重火器から放たれたかの如き暴力的なコバルトブルーの光彩が撒き散らされて、空気を食い破る。網膜の裏まで焦がしそうな眩さが耳元をかすめる。思わず目をつぶった律が恐る恐るまぶたを開いたときには、かの敵の姿は跡形もなく消え去っていた。
「律! 大丈夫? ……たいへんだ、ケガしてる」
 見上げれば、気の動転した兄が居た。兄の顔が高くにあって、自分がへたり込んでいたらしいことに律は気がつく。律はいち早く兄、茂夫のことを安心させるべくズボンの土埃を払い、ややふらつきながら立ち上がる。
「ありがとう兄さん。でも平気だよ、これくらい」
「平気じゃないよ、律」
「このくらいかすり傷だよ」
「そうじゃない。だって。足、震えてる」
「え、いや、はは……ほんとだね……」
 言いながらじりじりと距離を詰めてくる兄から律は、じわりと逃げた。
「でも、ほんとに。大丈夫だから。兄さんも帰りだったんでしょ? 一緒に帰ろうよ」
「……分かった。帰ろう」
 その帰路にて、兄弟は交わす言葉も少なく。微妙な距離を取りながら重い空気の中で帰宅した。

 夕食後の影山律は自室にてマイスプーンを眺めている。能力に目覚める前からの日課であるが、磨かれたステンレスの曲面に反射した己の顔色は青い。
 先の出来事、それは学校からの帰りに謎の小さく細長なものに襲われて、苦戦し、兄に助けられた事件であったが。律ははっきりと恐怖を感じていた。襲ってきたものや、劣勢であった戦いに対してではない。
 助けてくれた実の兄、茂夫が恐ろしかったのだ。
 自身の力の不甲斐なさと対照的な、全てをなぎ倒せるであろう絶対の力を前にして、律は震えが止まらなかった。目を閉じて、小さかった時分にお年玉を巡って兄ではない何かと遭遇した事件が思い起こす。
 今日の兄さんはあのときとは違った。兄さんのままの兄さんだ。
 律はそのような理解をしていた。律は一つの結論を出す。つまり、言い訳のしようもなく。
 影山茂夫その人が怖くて堪らないのだ。
 超能力の覚醒と爪との戦闘を経て、いつの間にか律は茂夫への恐怖心にけりを付けたつもりでいた。しかし丁寧に思い返してみればあれは、兄弟喧嘩をしそこなって、爪の襲来に巻き込まれて有耶無耶になっただけで。目覚めた律の力は兄には遠く及ばず。結局のところ、兄の莫大な力に対する畏怖の念については何一つ解決してはいなかったのだ。
 律は自身の力不足が歯がゆかった。力に目覚めたからこそ、兄の力の異質さが分かる。力を得て終わりなんかじゃない。力を得たからこそ、兄が改めて遠くて、恐ろしい存在に思えた。
 なんて身勝手な話だろうか。律は自嘲してスプーンをペン立てに戻す。頭を悩ませたところで今解決できそうなことは何も思い浮かばなくて、律は早めの就寝を選択した。

 翌日、生徒会の会議が休みの律には行く宛があった。相談先として真っ先に思い浮かんだ場所を目指して、通学路を外れる。以前とは違う場所の、しかし以前と同じくマンションを買い取って改造した施設にたどり着くと、律はチャイムを鳴らした。
「影山律くんじゃないか! よく来たね!」
 出迎えたのは市松模様の派手なジャケットを身に纏ったおじさんだ。ここ、覚醒ラボの施設長である密裏賢治である。
「おじゃまします」
「ちょうどみんな揃ったところだよ。さあ、上がって上がって」
 密裏は快く律を迎え入れると「実験スペース」へと案内した。そこには見知った六人の中学生が既に居た。
「おや、弟くんじゃないか」
「テルさんも来てたんですね」
 華やかな顔立ちに甘い声の美少年、花沢輝気が律に気安く声をかけた。
「いきなりここに来るなんて何か困り事かい?」
「いえ、困るってほどじゃあないんですけど、まあ……」
 見透かされたような気がして、律は言葉を濁して続ける。
「みんながどのくらい成長したのかなあと思って気になったんですよ」
「へえ。キミが、ねえ」
 輝気は薄く微笑んだ。
 黙っていないのが他の面々だ。
「影山じゃねえか、元気にしてたのかよ」
「影山くん! 会えて嬉しいな」
「うん、みんなも元気そうで良かったよ」
 メンバーは律を取り囲むと、この前ぶりの再会を喜んだ。
「調子はどうかな、どんな特訓をしているのかな」
 律が問いかけると、面々は嬉しそうに語りだす。
「テルさんのお陰で順調だよ! この前なんてスプーンを120度まで曲げることに成功してしまった……まあ、俺の可能性はこんなものじゃないし、俺の物語はこれから始まるんだけどな」
「フッ……俺の必殺技『地獄爆炎陣』も日々完成に近づいている……。完成の暁には影山にも見せてやろう」
「テルくんが居てくれるだけで私、絶好調になれる気がするの!」
「テルさん器用だからね。僕たちテレパシストでも参考になる意見を言ってくれるんだ。系統が違う力なのにすごいよね」
 どうやら輝気の影響は相当なものであるらしい。皆がそれぞれに進歩を実感しているようだった。
「そう言う影山こそ最近はどうなんだよ」
「影山くんの力、また見たいな……!」
 メンバーからも声が上がる。そういう流れになるだろうとは思っていた律は、どうということもなくオーダーした。
「良いよ。スプーン貸してよ」
 今の律にとっては、たかがスプーン曲げレベルの話はどうでもいいのだが。メンバーに納得してもらうためには大した労力でもなかった。覚醒ラボにストックされているスプーンをテーブルの上に置くと衆目の元で、片手をかざして力を込めた。
「……あれ?」
 しかし。スプーンは微動だにしない。沈黙の中、律は焦る。真っ先に異変に気づいたのは輝気だ。
「弟くん……?」
「いや、これはえっと……あれ、何で? どうしてだ……」
 再び力を発揮しようとする。スプーンは、動かなかった。
「影山でもそういう日はあるんだな」
「まあ、そんな日もあるよ」
 覚醒ラボのメンバーはさして気にしていないようだった。だが、律にとってこれは、一大事であった。鼓動が早鐘を打ち、思い当たる原因を必死で模索する。輝気は心配そうに声をかけた。
「弟くん、大丈夫かい?」
「どうして……今更になって、そんな……どうして……!」
 律は叫んだ。叫ぶと同時に、けたたましい音が響き渡る。机の上のスプーンが飛び上がるように宙を舞い、制御を失って落下したのだ。
「……力が無くなったわけでは無さそうだね。最近何かあったかい? 僕で良ければ話を聞こうか?」
「いいえ、大丈夫です。何もありません……」
「何があったか知らないけど。あまり思い詰めないほうが良いよ。リラックスしないと使えるものも使えなくなってしまう、何事もそうだろ?」
 輝気は床に落ちたスプーンを拾いながら言う。
「……失礼しました。今日はもう、帰ります」
 律は精一杯それだけを絞り出すと、踵を返した。

 自室に帰った律は、空虚へ向けて呼びかける。
「エクボ、居るんだろ」
 何も居ないはずであった空中に緑色のひとだまが浮かび上がった。
「律から呼びかけるなんて珍しいじゃねえか」
 名前をエクボと言うひとだま、より正確にはそこそこに悪知恵の働く悪霊は、やや面倒くさそうに返事をした。
「なあエクボ。これはどういうことだ。僕の力が言うことを聞かないんだ」
「そんな事言われてもなあ……」
「せっかくエクボを使ってコントロールを掴んだんだ。なのに今度は力がうまく使えない」
「使って、ってお前なあ……」
 エクボはムッとした様子だった。
「で、わざわざ俺様を呼んだってことは、何か頼みがあるんだろ?」
「もう一度、僕に憑依してくれ。コントロールを取り戻したい」
「俺様を補助輪扱いしやがって……」
 悪態をつきながらエクボは考える。別に小生意気なガキを手助けしてやる義理など無いのだが。こいつはシゲオの弟だ。今の状況でこの超能力兄弟に打ち勝てる算段も無く、将来のための投資として、また敵意はないことのアピールとして力を貸すしか無さそうであった。
「ほらよ。目を閉じて力を抜きな」
「うん」
 律は言われた通り目を閉じる。肩を持ち上げてから、息を吐きながら力を抜いた。
「憑依!」
 エクボが律の体に入り込む。相変わらず、体の主導権は律の方にあるようだ。律が自分の意志で、手近にあった枕に向けて力を込める。
 枕は、浮かなかった。
 律の中でエクボは無い首をひねる。以前に憑依したときとはまるで感覚が違っていた。
「エクボ、サボるなよ……!」
 律は怒鳴った。枕が弾かれて天井に激突する。そのまま宙には留まることは出来ず、ベッドの上へぼすん、と音を立てて落ちた。
「なあ律、これはお前、コントロールが出来ていないんじゃない」
 エクボは体から抜け出して、律へと向き合う。
「どういう意味だ」
「これはコントロール以前の問題だぜ。力の出力が乱れてるんだ。乱高下して、一定の出力になっていないから上手く使えるわけがねえ」
「そんな……せっかく手に入れたのに」
「別に完全に無くなっちまったわけじゃない。どうした? また何かあったのか?」
「何も無い! 何も無い、よ……」
「そ、そうか。それならそうだ、力を高めれば解決するんじゃねえか? またもう一回くらい……」
「断る。もう悪いことはしないって決めてるんだ」
「そうかよ……」
 拒絶を受けて、エクボは意気消沈した。
「それじゃ、俺様はお役御免かな」
「そうだな。……呼び出してごめん」
 律から謝られて、エクボは逆にゾッとした。今まで、影山律がエクボに対して丁寧な態度を取ることは無かったからだ。
「そ……そうかよ。じゃあ、失礼するぜ。アバヨ!」
 エクボは努めて明るく言い放つと窓の外へと消えていった。
 一人きりとなった部屋で律は考える。悪いことは、しない。何故ならば、兄を悲しませることはもう、したくなかった。しかし、ようやく力を得たはずだったのに、再び兄に置いてけぼりにされるのは耐え難いことであった。
「出来ることを考えるか……」
 律はベッドに倒れ込み、目を閉じて考える。
 兄さんに並びたい。兄さんと同じ景色が見たい。そこに近道は無さそうだ。だから、地道に努力するしか無いだろう。
 律はそっと決意する。窓の外では轟々と、風が吹いていた。

 翌日は、小雨の降る日であった。早速に律は動いた。生徒会の会議が終わるといち早く教室を出て、今日も通学路を外れ、繁華街の片隅へと向かう。目指したのは廃ビルだ。ここならば誰にも見られずに特訓が出来るであろうという目論見だ。
 鞄を床に置いてペットボトルを取り出し、床に置いて軽く息を吐く。強くは当てすぎないようにまずは弱く。意識して落ち着いて、出力を高めていくイメージだ。
 しかしペットボトルはびくともしなかった。
 律がどんなに力んだって、変化など何もありはしない。滴る水の音と、外で強まる風の音だけが耳障りだ。
「どうして……!」
 たまらなくなって律は呟いた。風が、割れた窓から吹き込んでくる。それは質量を持った風だった。
「オマエか! オマエが風を乱しているのか! ウルセエんだよオォ!」
 風の塊が語りかけてくる。否、それはきっとこの世ならざるもの。イタチのようなしなやかな体躯を震わせて、悪霊は吠えた。
 非常に不味いことになった。律の首筋を冷や汗が伝う。攻撃はおろか、バリアすら張れない。助けを求めようにもここは廃ビルの最上階。この状況で生き延びるには、逃げるしか無い。全速力で階段を目指す律の足元にかまいたちが斬りつける。
「逃がすわけネエだろうが!」
 悪霊は軽快にステップを踏み、律の前へと立ちはだかった。

 そんな様子を盗み見ているものが居た。
「こいつあいけねえ……シゲオを呼ばねえと……!」
 緑の悪霊は、助けを呼びに一目散に飛び出していった。

 茂夫は空を駆ける。未だ貧弱な筋肉に頼っている場合ではないからだ。自身の持てる最も強大な力、すなわち念動力を細い脚に纏わせて空を蹴り、エクボの指示する先へ猛進する。
「律! りつ!」
 廃ビルの壁を突き破り、茂夫は着弾した。報告通り、弟はそこに居た。いたぶられ、全身を細かに傷つけられて、ボロボロの体で倒れ伏し、それでも再び立ち上がろうとしているところであった。
「なんだあテメエ。せっかく遊んでたのによ。オメエもやんのか? ああ?!」
 悪霊は余裕綽々と言った様子で茂夫へ凄む。茂夫は無表情だ。表情筋をピクリとも動かさず、悪霊へ手のひらを向ける。
「オイ、聞いてんのかよ、ォォォォォ?! ァァギャぁぁ?!」
 茂夫に聞く耳など無い。汚らしい断末魔を残して、悪霊は言い訳すら許されることなく、素粒子レベルまで分解されていた。
「りつ、律! どうしよう、酷いケガだ……そんな、どうして律がこんな目に合わなきゃいけないんだ……!」
 茂夫は律を抱き上げながら、小さな声を震わせながら言う。
「兄さん……これくらい、大した事ないよ。僕のせいだから気にしないで……」
「そんな。どうしてこんな……ねえ律。これはどういうことなの」
 エクボが会話に割って入る。
「律のヤツ、どうも超能力の出力が安定しないみたいでな。様子もおかしかったし跡をつけていたんだが……正解だったみたいだな」
「出力が……? どういうことだエクボ。律は超能力を手に入れたのに……!」
 それを言いたいのは僕の方だ、と律は思いながら、兄の悲しみを眺めていた。
「それじゃあ律が危ないじゃないか。守らないと。僕が、律を守らないと」
「おいシゲオ、言いたいことは分かるが、そこまで思い詰めなくても……」
「律が危ないのに、放って置けるわけないだろう!」
 茂夫が叫ぶと、空気にプラズマが散る。慌てて距離を取ったエクボは、黙るしか無かった。

 茂夫は律にぴたりと付き添って帰宅した。茂夫は片時も律から目を離したくなかった。ご飯を食べて、お風呂に入り、律が自室に帰ってもなお、着いてきた。
「ねえ、律。いつからだったの」
 茂夫は問いかける。その瞳は潤み、揺れていた。
「……僕にも分からないな」
 律はとぼけた。間違っても知られたくはなかった。
 兄への恐怖心と、超能力への恐れとを、知られたくはなかった。
「……そっか。言いたくないんだね」
 こういう時だけ、兄というのは鋭い。全てを見透かすように、真っ直ぐに向けられた瞳から、律は逃れることも出来ずにうつむいた。
「でも大丈夫だよ。こういうときのための、僕は律の兄弟なんだ。僕が、律を守るからね」
「そんな、大げさだよ……」
 律は項垂れる。兄に隠し事すら出来ない、空元気すら見せられない自身の幼さを恨んだ。結局、超能力を手に入れても、兄と並ぶことが出来るどころか守られっぱなしの自分が情けなくて、嫌いだった。あわよくば兄を追い越せるかも知れないなどと、一瞬でも夢見た自分が滑稽で、恥ずかしかった。
 大丈夫だよ、と。兄は何を勘違いしたのか優しくささやく。律の両肩に腕が回されて、洗いたてのシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。抱きしめられて律は初めて気付く。
 茂夫は震えていた。
 腕の中に囲い込んだ、最も大切な兄弟がひどく脆いものに思えて、茂夫は茂夫で切迫した使命感に囚われていた。その細かな震えは律に伝わり、律もようやく、自身がいかに危ない状況であったかに思い至って寒気がした。
「大丈夫だ。律は僕が守らなくちゃ」
 茂夫は何度目かの呟きを漏らす。それはきっと、茂夫が自身に言い聞かせた言葉だ。
 プラズマがチリチリと空気を焦がす。兄弟二人きり、それ以外の全てを拒絶する光の粒子は分厚く垂れる雲までもを巡り、夜の空を焦がした。

「急速に発達した低気圧が高気圧とぶつかり前線が発生しています。激しい雨風が予想されます。不要不急の外出は控えましょう……」
 天気予報はそう言うが、近距離徒歩通学が基本の塩中学校は休校にはならなかった。窓の外を見れば、雨はまださして強くはないようだが、黒黒とした雲が渦を巻いて流れていた。
「……律は行っちゃダメだ」
 朝食にもろくに箸も付けず、茂夫は言った。
「え? なんて……」
「律は今日、家から出ないほうが良い」
「どうして、兄さん。だって、ねえ?」
 律は顔を引きつらせながら笑って見せる。しかし茂夫は真剣そのもので、とても冗談を言っているようには思えなかった。
「シゲ、律のこと困らせちゃダメよ? ちゃんとご飯食べなさい」
 母親も小言を漏らす。しかし茂夫は、頑なだった。
「何か、居る。学校の方向だ。せめて、僕が先に行くから律は家に居て。ごちそうさま」
「ちょっと、シゲ?! 全くもう、変な子ね」
 母が止める間もなく、茂夫は学校鞄を掴んで外へ飛び出す。
 家から一歩出て茂夫は空虚へ向けて声を掛ける。
「エクボ、出てこい」
 何も見えなかったはずの空間から、悪霊は律儀に飛び出してきた。
「お前ら兄弟揃って俺様を便利なモンスター扱いしやがって……」
 悪態をつくエクボだが、霊素が蒸発しそうなほどの茂夫の感情の乱れを察して、内心逃げ出したくて堪らなくて、でも圧倒的な強者を前にどうすることも出来やしない。
「エクボは家に居て。絶対に、律を家から出さないで」
「おう、分かったよ……」
 エクボに拒否権は与えられていない。それは命令だった。玄関前に漂うエクボを置いて茂夫は歩き出した。

 住宅街を抜けて土手へと出る。いつも通り、真っ直ぐ学校に向かう通学路。だが今日ばかりは様子が違っていた。川の幅は増し、河川敷はとっぷりと呑まれている。黒く濁った渦がいくつも沈んで、草木をなぎ倒し、触れたもの全てを引きずり込もうとしている。
 茂夫からプラズマが走る。触れた雨粒が蒸発して、雲を構成する粒子の一つとなり、天蓋に吸い込まれていった。かっぽりと拡がった川縁に立ち、空を見上げた。
「何か、居る……」
 茂夫は目を細めた。幾重にも垂れ込める暗雲に、さらに濃く巨大な影が落ちている。見つめていればそれはゆっくり降りてきて、輪郭が像を結び雲を突き破り、とぐろを巻いて波打った。
「ドラゴンだ……」
 茂夫は思わずつぶやく。鈍い銀に輝く鱗を不気味にくねらせて、それが空で身をひるがえすたびに風は強まり、雨は激しさを増すようであった。
「苦しい……苦しい……!」
 ビリビリと地を震わせて龍が藻掻く。雨脚が強まり、滝のようだ。ここまでの荒れ方は天気予報でも言っていなかったはずだ。茂夫が警戒を強める。やっぱり、律を連れてこなくてよかった。今の律を、こんな物に出会わせるわけにはいかなかないだろう。
 茂夫が警戒を強める。弟を、守らなくてはならない。その不安定な心は茂夫の意識と無関係にプラズマを発生させた。ピリピリと流れた電流に吸い寄せられるように、金の双眸がこちらを向く。
「貴様か……きさまきさまきさまキサマ!」
 叫ぶ龍が向かい来る。茂夫は天空へ向けて手のひらを向ける。ありったけのプリズムを込めて龍を叩き落とそうとした。龍は天で身を捩り、もがき苦しんでいる。効いているだろうと判断してもう一度、力を叩き込む。雨水が灼け、風を割いて龍に襲いかかった光の束は龍の身を穿つ。
 しかし、龍は倒れない。全身に紫電をまとい、藻掻き苦しむよう、めちゃくちゃに宙で暴れた。
 茂夫は内心焦っていた。普段の茂夫の力を、二発までもを浴びて存在している悪霊の類などほぼ見たことがなかったからだ。倒せないかも知れない。そうしたらどうなる? 街は? 家族は? 弟は? 最悪のシミュレーションが頭に浮かび、冷や汗となって額に浮かんだ。
 龍が首をもたげる。
「向こうか……」
 龍は呟くと飛び立とうとする。それはあろうことか、弟の待つ我が家の方角だ。
「行かせない!」
 茂夫は龍を捕らえるようにプリズムで囲い込む。光に触れた龍の鱗が爆ぜて雨粒となる。茂夫が攻撃を加えれば加えるほど、嵐は強まるようであった。
「どうしたら良いんだ……」
 龍を撃てば嵐が強まる。龍は我が家の方角へ向かおうとしており、撃たざるを得ない。膠着状態に陥りながら茂夫の焦りだけが増して行った。

 自宅にて律は待つ。嵐は収まるどころか激しさを増し、窓のサッシがミリミリと音を立てている。
「兄さん、遅いな」
「そうだな」
 茂夫の命令通り、律に寄り添うエクボが応じる。
「兄さんに限って、こんなに遅くなるなんて……おかしいと思わないか?」
「それはまあ、そうだが……」
「……僕はもう、守られるだけの弟なんて御免だ」
「しかし律よ、それじゃあどうする? 俺様はお前さんをここから出すなと言われているんだぜ?」
 エクボは意地悪く嗤った。
「力ずくでも出てみせるさ」
「超能力も使えないのに、か?」
「やって見せる、今、やらなきゃいけないんだ。僕は兄さんと並ぶんだ……!」
 律は、気を奮い立たせて力を高めようとした。デタラメな出力のプリズムが波となって部屋の外まで放散する。途端、雨風が強くなる。地響きのような、何か獣の咆哮のような音がして、風に煽られて家が揺れた。
「うわっぷ、コラ! やめろ、律!」
 たまらずエクボが叫ぶ。リビングではお母さんも叫んでいる。
 しかし律は、力をバラ撒きながら、既に家の外へと飛び出していた。
「あっ、コラ! クソガキが……」
 エクボが後を追おうとしても後の祭り。外は雨風だけではない。超常の電流が満ちていて、並大抵の霊ならば消し飛ばすほどに荒れていた。
「ああもう、何だって俺様がこんな目に……! だがそこまでしてやる義理はねえ!」
 エクボは悪態をつくと家の中へと退避した。

 龍が吠えた。嵐が、勢いを増す。空気中にどこからかデタラメなプリズムが浸透して、より一層龍は苦悶し、荒れ狂うようであった。
「どうしてそっちにばかり行こうとするんだ……!」
 いよいよ目的を持って移動しようとする龍を、茂夫はどうにか食い止めていた。焦れば焦るほど、手元は狂い、状況は悪くなるようであった。
「兄さん!」
 そんな折であった。茂夫の耳に思わぬ声が飛び込んできたのは。
「律……! どうしてここに……!」
 絶望的な気持ちになって茂夫は律に問う。その隙をついて龍が吠える。
「苦しい、苦しい! やはりキサマもか! 大気を荒らしているのは!」
 龍は律の方へと向き直り、その身を投げ出すように突進してきた。茂夫は大慌てでバリアを張る。強固なバリアと龍の牙がぶつかり、削り合い、人の背丈をゆうに超えて火花が散った。
「兄さん、分かった気がする」
「何が?!」
 必死の形相で茂夫は問う。
「攻撃するんじゃない、大気ごと力を吸い取るんだ! きっと僕らの力が漏れ出して、それで充満してしまっているんだ!」
「吸い取るって……」
 思っても見なかった提案だ。自慢のかしこい弟は茂夫に思いつかない逆転の発想を提示した。
「兄さんなら出来る。きっと、出来るから」
「でもそんなことをしたら律の力まで吸い尽くしてしまうかも知れない!」
「僕は、大丈夫。兄さんの力になれるのなら、それが本望だから」
 律は笑った。心の底からの、柔らかな笑みであった。
「……分かった。やってみる」
 茂夫はバリアで龍を押し切る。龍が弾かれた隙を利用して、吸収を開始した。
 普段は力を集めて押し出すイメージ。今回は、逆だ。大気から、身体の周りのあらゆるものから、力を集める。雫となって滴る、いくつもの源流を持つ力の筋を集め、それはやがて大河となり、茂夫という海へと流れ込む。さながら水の大循環のようなイメージだ。
 大気から草木から、龍から、律から力を吸い上げる。吸い上げた力は茂夫の豊かなキャパシティに抱かれて、穏やかに収まっていく。

 すっかり静かになった周りを茂夫は見渡す。へたり込む律を見つけて、慌てて声をかけた。
「律! 大丈夫?! 怪我してない? 能力はどうなった?!」
 律は茂夫に揺さぶられてゆっくりと立ち上がる。手のひらを開いて見つめ、深呼吸をする。
 無くなっても、悲しくない。兄さんの一部分になったのならば。兄さんを支える弟になれたのならば、本望だから。
 確かめるように指を握る。得たばかりのコントロールの加減を思い起こして手のひらを開いた。
 湿った大気から水蒸気が集められて律の手のひらの上へと集まる。小さな水滴は寄り集まり、やがてこぶし大の水球となる。片手では心もとなくなってきて両手をかざす。それは小さい頃に兄が見せてくれたものよりかは幾分か小さくてやや不安定ではあったものの。出力の安定した超能力そのものであった。
「やった、兄さん、やったよ……!」
「良かった。良かったね、律……!」
 兄弟は抱き合う。はしゃいで、宝物を取り返した幼子のように喜びあった。
「あいててて……まったく、りゅうさわがせなガキどもが……」
 足元の茂みで、白いヘビのような何かがぼやいた。思わず律は返事をする。
「あ、えっとどうも、こんにちは……」
「オマエ、このまえこうげきしてきたガキじゃないか! きをつけろよな!」
「あっと、うちの弟が済みません……」
「オマエもだ! おまえらそろって、たいきにちからをバラまきやがって。……まあ、さいごはたすけられたしな。にどとやるんじゃねえぞ!」
「あの、本当にすみませんでした……」
 龍は宙へと舞い上がる。兄弟へ背を向けると、穏やかに波打つ川面に溶けて、消えていった。

「律! やーっと追いついたぜ!」
 遅れてやってきたのは騒がしいエクボだ。茂夫はじっとりとした睨みを効かせてエクボへ小言を漏らす。
「エクボ、律を頼むって言ったよね。どうして今更やってきたんだ」
「し、しかたねえだろ?! あんな嵐の中出歩けるお前らがおかしいんだよ!」
 エクボは大慌てで弁明した。嬉しそうなのは律だ。
「エクボ聞いてくれ。力が戻ったんだ、戻ったんだよ……!」
「おうおう、どうしたよ」
 エクボは律を頭の天辺からつま先まで眺め回して、言った。
「お前さんはあれだな、一気に力でも使ったか? 力が急に発達して目詰まりでも起こしてたんだろ。成長痛みてえなもんじゃねえか? 一皮むけたな」
「そういうものなのか?」
「さあ。知らねえけどよ」
 エクボはとぼけた。
 茂夫は、律の両手を掴みながら、それはもう嬉しそうに語りかける。
「ありがとう。律のおかげでどうにかなったよ。さすがだよ。ぼくひとりじゃあどうなっていたか……」
「やめてよ兄さん、元はと言えば僕が原因だったみたいなものだし……。兄さんが居なかったらあのまま龍神さまを苦しませて怒らせたままだった」
「ううん、律だけじゃないよ。僕もだ。僕たち兄弟だから、一緒だよ。律、これからもずっと一緒だよ?」
 茂夫は問いかける。選択肢は与えられていない問であった。
「うん。もちろん、一緒だよ」
 兄弟は笑い合う。切れ切れになった雲の隙から光の柱がいくつも伸びて、地表の水滴がきらきら艶めいていた。