律は破壊的な物音に飛び起きた。
一人ぼっちのリビングルーム。いつの間にテーブルに伏せて眠っていたらしい僕の耳をつんざくのは、ドタドタと不器用に踏み鳴らされるフローリングの悲鳴で。
飛び込んできたのは案の定、僕のよく知るひとだった。
「うわっ。びしょびしょ」
「晴れ、て、た、から……。すぐ、止むかと、思ったのに」
ぜぇ、はあ。と、整いきらない息の合間で兄さんは健気に答える。全身びしょ濡れの濡れ鼠。否、ふんわりとしたマッシュルームカットのストレートヘアは雨でぺたりと張り付き、萎んでいて。絶妙に悲しげな目付きも相まって、さながら不本意に洗われた犬のよう。
なんて哀れな、おかしな姿。こみ上げる微笑みをほっぺたの内に閉じ込める。
「狐の嫁入りだったね」
「きつ……? なにそれ?」
「狐の嫁入り。太陽は出てるのに雨が降ってたでしょ」
「へえ、そんな名前があるんだね。」
律はすごいや。なんでも知ってるね。兄さんの声が甘やかな雨音に溶けてゆく。僕は聞かなかったふりをして再び、こめかみをテーブルに押し付ける。
兄さんは僕の隣へどかりと腰掛けた。学ランを脱ぎ捨てると、洗い場から拝借してきたらしい、洗いざらしの白タオルで頭を拭く。ゴリゴリと雑に混ぜられた髪の毛は水気を失い、ぴょこぴょこと奔放に飛び出す。薄手のカーテンの隙間から揺蕩う夕日に染められて、ぼさぼさの髪の毛は朱色にか細く燐く。
それをぼんやりと、あえて見るものでもなしに視界の端に置き去りにしていると学ランから滴る水がぴたぴたと床を叩く。
あ、母さんが帰る前に拭いておかないと。これは酷く叱られるぞ。
寝ぼけた僕の頭はそんなどうでもいいことを、とりとめもなく浮かべては消してゆく。
「だからなのかな。こういう日はいつもへんなのがいっぱい居るよね」
「変なの?」
「うん。わざわざ除霊するほどの危なそうなのじゃないけど。僕はけっこう、好きだから」
「そうだっけ。今度から気をつけて見てみるよ」
兄さんは飲みかけの僕のコップへ勝手に麦茶を注ぐと、ぐい、とひと思いに飲み干す。嚥下に上下する喉仏に、拭いきれなかった水滴がつぅ、と流れた。
「律でも気づかないことなんてあるんだね」
「そんなこといっぱいあるよ。虹が出てたからぼんやりしてたし」
「え、虹が出てたの?」
限界まで水を吸ったタオルが学ランの上へべしゃりと落ちる。ぺたぺたと足跡のはんこを残しながら兄さんはカーテンに飛びついた。
「あっ」
「あ。雨、止んだね」
窓の外には朱色の世界。雨に洗われた街の大気は、水滴を纏った家々が朱に染まるのをシンと抱いて澄み切っていた。
「虹、見たかったなあ」
「家から見えるとも限らないよ」
「でも、せっかく律も見たのに僕も見たかったよ」
そんなの僕だって。
そうだね、と。それだけ返して空の彼方に目を凝らす。こんなにも雨が止むのが恨めしいのは初めてかも知れなかった。
家々の端から覗く空の果てに藍色が滲む。音もなく暮れゆく空を眺めていた。兄さんと二人で眺めていた。顔も合わせず、言葉も交さず。ただ空に吸い込まれた。部屋が暗闇に沈むのもお構いなく、流れる時間に浸るのが心地よかった。
ただいまと言う母さんの声だって、聞こえないほどに。