101人目の僕へ

兄弟要素ありのモブ茂
100話と101話の間の話。

 

 

 

1 茂夫(モブ)と茂夫(しげお)

――やあ、久しぶり。
耳元で囁かれた呼び声に驚いて飛び上がる。
ことは叶わなかった。
我が身を見下ろせば腰から先は黒々とした影法師となって伸びており、身じろぐことも出来ぬほど固く地に縫い留められている。かろうじて自由の効く上半身を思い切り捻ると、背中合わせに彼が居た。
「久しぶりモブ、僕だよ。茂夫さ」
へらりと笑う同じ顔、「茂夫」の笑顔に敵意や害意は感じられない。
「久しぶりだね、もうひとりの僕」
影山茂夫、通称「モブ」は応えた。
何も無い。音も匂いも、色さえもが無い空間だ。ただ一人、影山茂夫と影山茂夫が背中合わせに虚ろな影法師を楔にして半ば同化しながら対話している。
「今日はアンタに挨拶を言いに来たんだ」
空き教室の机の上に腰掛けるような気安さでモブに寄りかかりながら、茂夫は言った。
「挨拶?」
「そう、何と言ったら良いか未だに少し迷っているけれど。さようなら、かな。いや……やっぱり、これからよろしくの方が良いかな。いいやそれなら、これからも、と言ったほうが正確だ」
茂夫は滔々と語りながらモブに深くもたれかかる。
温かいようで、伽藍堂の身体の内に風が吹き込むような。全く知らないのに少し懐かしくもある。嫌な感じではないが、今までの何者とも覚えのない感覚を不思議に思いモブは再び振り返る。すると、信じがたいことに、茂夫の背中とモブの背中は融けて境を喪い、繋がっていた。
かろうじて動く腰から上だけで前に屈み引き剥がそうとする。茂夫は剥がれずにくっついたまま引き摺られてくる。反動で不安定そうに、滑稽にぶらぶら揺れる茂夫を眺めながら、モブは言う。
「居なくなるの?」
呆れたように茂夫は答えた。
「そんな訳無いだろ。僕はアンタでアンタは僕だ。どちらが欠けてもそんなのは『影山茂夫』じゃない。見ての通りだよ。融けて、ひっついて混じり合って、一つになるんだ」
「元は一つだったから」
「そう。だから何も怖いことはないよ。アンタに抑圧されて一度は切り離された僕をアンタが受け入れてくれたから、あるべき姿に戻れるんだ」
「僕が僕の意志を、感情を抑圧しなくなったから? でも僕はまだうまくは怒れない。小さい頃みたいにはうまく、笑えない」
「僕だってモブみたいな良いヤツにはなれないよ」
「だから、一つに戻るのか」
「そう、今までが異常だったんだ」
「僕たち、遠回りをしたんだね。でも、これで一区切りだ。これからもよろしく。今まで僕を守ってくれてありがとう、茂夫」
「こちらこそお礼を言っておくよ。あの時には本当の強さってやつを教えてくれてありがとう、モブ」
茂夫とモブは互いの背中にもたれかかる。影山茂夫の寸分違わず等しい影と影はあるべき姿へぴたりと合わさる。
ひと一人分の形を為した時、チャイムが鳴った。

 

霞んだ視界は次第に像を結び、滲んだ景色に音が帰ってくる。
それはむっとするほどの人いきれ。慣れ親しんだ午後の教室の喧騒だった。四時限目の板書を本日の日直が消している。待ちわびた昼休みに色めき立ったクラスの彼方から、茂夫へ手を振る人物が居る。
「おーい! モブー!」
活き良く跳ねる犬川が呼んでいた。
「お前よく寝てたなあ」
「へへ……うん。犬川くんも寝てたでしょ」
「えっ? いやいや、そんなことないよ」
「前髪、爆発してるけど」
「あっこれは……ほら、ファッションだよファッション! モブお前、この良さが分からないのか?」
「あの先生の授業って眠いよね」
「な! ほとんどお経だよ! ユーレイになんか聞かせてみろよ。お祓い出来そうだもんな。んんー、ナンマンダブー……」
梅干しみたいなしかめっ面で手と手を高速ですり合わせる犬川を見て、茂夫はからから笑った。犬川は「ポクポクポク、……チーン」と、木魚と鈴を叩く真似までを律儀に終えると途端にガクリ、と項垂れた。
「何だよなあいつ。あんな眠い授業のくせに明日いきなりテストとか意味わかんねえよな! 文化祭も近いし劇の練習だってあるのにさ? 俺ノート真っ白だよ」
「えっ」
「えっ?」
「テストなの?」
「そう」
「明日?」
「うん」
「……それはいつ、言ってた?」
「授業の最後に」
「あー……」
「ああ……」
虚しいだけの連帯感。だがしかし、持たざる者同士の連帯感では事は動かず、点数は取れないのだ。そんなことは分かりきっていてなおのこと、がっくりと脱力する。為したことなど何もなしに男子二人、真っ白に燃え尽きていた。そんな折だった。
「ちょっとモブくん、給食当番でしょ! ボーッとしてないで、スープがまだ来てないからさっさと食缶取りに行って!」
活を入れたのは給食白衣に着替えた仁王立ちの女子だった。
「あっえと、ごめん。今行くよ」
「早くしてね! あとモブくんの分だけなんだから」
「はーい」
じゃ、行ってくるね。犬川に小さく別れを告げる。
茂夫は目まぐるしい昼時の教室を、染み付いたジョギングフォームで駆けていった。

 

「と、いう訳でよろしくお願いします!」
「いい、けど」
やや気圧されながら律は承諾した。気圧されたのは、兄にしては珍しく、いやに威勢がよかったから。だが勉強を教えることはやぶさかでもなく、少しつんのめったような「いいけど」になった。
「で、どこが分からないの」
「こちらの教科書のこちらの文章なのですが……明日テストなのにすっかり寝てしまっていまして……」
うやうやしく取り出したる現代文の教科書を開き、指差したページには、林間で目をぎょろつかせるおどろおどろしい虎の姿が水彩タッチで描かれている。
「なるほど山月記だね。で、試験内容は?」
「漢字の書き取りと読み、あとは読解かな」
「結構しっかりした試験だね……。漢字は教科書の欄外に書いてあるのをメインに拾える限り拾うとして読解が厄介かな。先生によって多少ずれがあるかも知れないけど……ちょっと思い出したいから読ませてね」
そう言いながらさっそく律はページに目を落とす。やや目を細めて、元より切れ長の目が鋭く研ぎ澄まされる。
集中する時の律の癖だ。兄のため、出来るだけ早く読み終えようとしているようで、ページを走る視線は忙しない。ふむ、と息を細く吐きながら茂夫のよりも少し長い人差し指が顎に添えられる。姿勢を正してやや浮いた首の筋を、茂夫は指でそうと撫ぜた。
「うわあ!」
「わっ」
「や、やめてよ兄さん。びっくりしたじゃないか」
「いや、ごめんつい、本当に律はかっこいいなと思って」
「はあ?!」
素っ頓狂な叫び声を上げながら律の顔が真っ赤に爆発した。
「な、何言ってるの」
「つい、ごめん……。おどかしちゃったね……」
「いや、うん……」
茂夫は本当に悪いと思っているのかいないのか、至極のんびりと謝った。悪びれる様子もない茂夫にすっかり調子を狂わされたようで、律はしかめっ面のまま教科書へ再び向き合う。ぐしゃぐしゃと髪をかきあげた手の甲に浮く骨を、茂夫は満足げに眺めながら、弟が課題文を読み終えるのを待っていた。
「最初に、一番核心の問から行こうか。『李徴はなぜ虎になったのか』の設問だね」
「『臆病な自尊心』と『尊大な羞恥心』だっけ」
「授業聞いてるじゃん」
「そこだけ犬川くんの友達に教えてもらえたからね」
残りはみんな全滅で寝てたから駄目だったけど。そう付け加えながら茂夫は深く、ため息をつく。
それってもしや先生のあてつけで明日試験にされたんじゃないかな、そうは思っても口には出さない律であった。
「いちばん重要なところだからね」
「うーん……正解はその箇所なのかも知れないけど。でも、いまいちよく分からないんだ」
「どの辺りが?」
「何だろう、分からないと言うかどうも腑に落ちないと言うか。主人公、李徴ってすごく優秀な人だったんでしょ? どうしてそんな人が自尊心と羞恥心なんかに追い詰められちゃったんだろうって。かきょ? にも合格するくらいすごいんだから、もっと何とかならなかったのかな」
「と、言うと?」
「優秀な人なのにそんなに怯えるようなこと、あるのかな」
律は目を見張る。思いもよらなかった指摘に面食らったが、じきに兄の視界を思い描く。
自らの世界の基本に据える人。一番近くて、縮まることのない遥か彼方に住まう人。想像もつかないけれどきっと自分なら、ぞっとしてしまうほどに開けた、その視界を。
「だからこそ、だと思うよ」
律は最終的に、笑いながら言った。
「何かに優れている、頂点に立つというのは同時にものすごく不安定なことなんだ。もし李徴みたいに自分の優秀さにこそ自分の価値を見出してる人だったならば、より優秀な人が現れた瞬間に自分が価値のないものになってしまう。人の能力なんて案外どんぐりの背比べだから、何かに優れた人なんていつだって現れる可能性があるしね。不安で、怖いものなんだよ。優秀であればあるほど、人の姿を保てなくなるほど、ね」
「そういうものなの?」
「そういうものだと思っているよ」
「律にはその気持ち、分かること?」
「僕? 僕は……少しだけ、かな」
こんどこそ律は笑った。
「そうか……持たざるものにしかわからない感覚、なのかなあ」
「そんな事ないと思うよ。何かで一番になるほど優れたことじゃなくても、自分が居て他人が居て、比べたり羨んだり妬んだりしてしまう以上、自尊心はいつだって危険に晒されているようなものだから」
「……ふうん?」
「ごめん、少し話がずれた、かも。李徴はね、兄さんと違って自分だけがかわいい人間だったから、だから人との交流を絶って、それなのに人と比べて自分を追い詰めてしまったんだよ。もう一つの山月記のポイントがあるんだけど。気が狂って虎になった李徴だけど、それじゃあ、猛獣の逆で人間を人間たらしめるものってなんだと思う?」
「今の話だと……ひとを思いやる気持ち……、とか?」
「そのとおり。以上が山月記のポイントかな。細かいところはどこを聞いてくるか分からないけど、この辺りだけ分かっていれば読解もそんなに大外ししないと思うよ」
そう締めくくった律に、茂夫は尚も難しい顔をしてみせた。
「理屈はわかったけど、どうして虎になるのかが分からないな」
「それは虎が獰猛そうな動物だからじゃない?」
「それはそうだけど。どうして人間なのにそんな自然に動物になるんだろう」
「そこは……物語だからねえ……」
「そっかあ、物語だからか」
「だからだねえ。……すくなくとも、兄さんには関係ないお話かもね」
お互いに困ったような目と目が合う。なんだか、無性におかしくなってしまって、二人はころころと笑いあった。
「兄さんさ、最近なんか変わったよね」
「変わった?」
「変わった、と言うより、戻ったみたい……かな。小さい頃を思い出すよ」
「……そんなに子供っぽくなったかな?」
「そうじゃないけど。そうだな……楽しそうというか明るくなった、かな。なにか良いことでもあった?」
茂夫は考え込む。今日あった出来事。いつも通り定刻に家を出て筋トレして、授業に出て気持ちよく寝て、筋トレして帰って今に至る。実にありふれた平々凡々とした一日だ。だったはずだ。
「あっ」
「何かあった?」
「授業中寝てる時に変な夢を見た、ような……」
「どんなの? どんな夢?」
律は身を乗り出す。
「えっ、と…………忘れちゃった」
「なあんだー」
拍子抜けしたようで律はがばり、とひっくり返って天井を仰いだ。
「そんなにがっかりしなくても」
「聞きたかったなあ」
「きっと大した内容じゃなかったんだよ」
「そうかなあ」
未練がましい律の脇腹を茂夫はつつく。うう、と唸りながらノロノロと律が起き上がってくるのをたっぷり待つ。起き上がった律はしかし、幸せそうなため息をついた。
「なんだか懐かしい気分になっちゃった。ちょうどやることも終わったところだし、久々にトランプでもしない?」
「やらないよ。漢字まだ見てないし、塾の方の宿題が残ってるんだ」
「あっそうか……。そっちの方も手伝う?」
「ううん、まだへいき。分からなかったら頼むかも」
「分かった。それじゃ、頑張ってね」
「うん、ありがと。……終わったらトランプ、しに来ていい?」
「もちろん!」
「じゃあ、速攻で終わらせてくるから」
勇み足で部屋を出てゆく茂夫を、律は見送る。次その扉が叩かれるときが待ち遠しくて仕方なくて、律は体が勝手に踊りだしそうな心持ちだった。

 

何も無い空間だ。音も匂いも、色さえもが無い。きれいさっぱり忘れていたはずのこの場所を、今の茂夫は知っている。
同居人の息遣いだけが嘘みたいな近さで耳をくすぐる。呼びかけられる前に振り向こうと動かした眼球はあらぬものを捉えた。さすがに驚いてハッと固まったモブへ、茂夫はへら、と笑ってみせる。
「僕はこの姿がお似合いのようだからねえ」
金と黒毛の縞模様の尾がぬらりと伸び、その根本には彼が居た。すぐ真後ろを思い切り、ひっついた腰が痛くなるほどひねると、そこに居たのはおもちゃみたいな金色の、丸い獣耳を生やした茂夫だった。
しっかりとモブの視界に収まったことを認めるとにい、と口角を絞ってみせる。ちらりと見えた犬歯は太く、鋭く、存在を主張していた。
「あんまり、似合ってないよ」
「そういう意味じゃないよ」
モブは馬鹿だなあ。そう言いながら茂夫はにゅるりと伸びをする。ネコ科のしなやかさで伸びた手首より先には二周りも大きくて、ふざけたような猛獣の手に黒々と鉤爪を拵えていた。
「僕という存在は虎にでもなってしまえばいいのさ」
「もしかして、山月記?」
「そのとおり」
あくびをしながら爪先をぺろり。試すように目線をくれた瞳は金色で、まるで獲物を品定めするように引き絞られた瞳孔に、モブは出来もしない後ずさりをしようとする。
「ふうん。やっぱり逃げるんだ」
「ご、ごめん。つい」
「ま、無理もないけど。僕だって虎なんて近くで見たら逃げ出すさ」
「でも茂夫は虎じゃないって」
「だから言ってるだろう、虎じゃないけど虎だよ。君の中に巣食うけだもの。獣性の虎さ」
「そうだけど。君は別に自尊心でも羞恥心でもないだろう」
「……へえ。じゃあモブは僕のこと、何だと思っているんだい」
「僕の力で、感情だろ」
時が止まる。何もない空間で茂夫と茂夫が静止する。ほんの僅かな沈黙が、ここではたいそう長く思える。
「確かに僕は僕の感情だ。感情こそ力の源だ。でも、本当にそれだけか? 力から逃げるだけじゃない。感情を抑圧することで僕は何を守ってきた? 何を見ずに済んできたんだ? ……感情を抑圧するということは、きっとただ、それだけのことじゃないよ」
「難しいことはよくわからないけど。でもやっぱり、その格好は似合わないよ」
「ここは僕の心の世界だ。何でもありなのさ。だからこの姿で忠告しに来た。……もしもアンタが僕を受け入れたのならきっと、いつか、僕はモブを喰らってしまう」
「せっかく僕を受け入れたのにどうして今更そんなことを言うんだ」
「受け入れたものか。この宙ぶらりんな姿こそが答えだよ」
茂夫は鉤爪でもって眼下を指し示す。腰より下は共有されてそれより上は個々に自我を持つ、いびつな双生児のような、その姿を。
「口で言うのは簡単さ。でも一度切り離された僕と僕だ。一度ばらばらになったならそう簡単にはくっつかないよ。例え、元は一つの僕であったとしても。だから決して、モブが悪いんじゃないんだよ」
茂夫は微笑んだ。その滑稽で獰猛な相貌に似つかわしくない、慈愛に満ちた笑みだった。
モブは少し寂しそうに言う。
「僕たち、もう少し時間がかかるのかな」
「かかるだろうね」
「……僕のことも受け入れづらい所、ある?」
「そりゃあもちろん」
「そんなに胸を張られても」
「そういうものなんだよ」
「そっか。それなら仕方ないね」
「モブはすぐに納得するなあ。危なっかしい」
「なにそれ。お母さんみたい」
「それか弟かな。僕たち、お互いにお母さんで兄弟かも知れない」
「それはちょっと気持ち悪いな」
「だいぶ気持ち悪いさ。僕は僕だ。君は僕で、僕は君だ。ただそれだけのことだもんな」
自分で言っておきながら独り言みたいに茂夫は言う。モブは沈黙で応えた。自分自身だからこそわざわざ口に出さずとも分かることは、ある。

人型の茂夫と虎を模した茂夫。重ならない二人は互いに深くもたれかかって溶け合わないまま眠りについた。

休日の繁華街を、茂夫は物珍しそうに眺め回していた。昼間から眩しいネオンサインに見とれていると向こうから来た通行人にぶつかる。
「ごめんなさい」
その人は茂夫を全く気にも留めず、無視してせかせかと先を急いだ。

「おーい影山君! こっちだこっち!」
「ごめんお待たせ」
力強く手をふるのは現部長の佐川だ。
副部長こんにちは。
遅いですよ影山先輩。
そこまでむさ苦しくもなくなった男女混合の健康集団からそんな声が飛び出して、茂夫はごめんと頭を掻く。
「それじゃ行こうか」
茂夫を最後に晴れて全員が揃った肉体改造部はぞろぞろと行軍を開始した。

「文化祭前に親睦会やりませんか!」
との発案は、とびきり挨拶の元気な新入部員のボーイッシュ女子だった。
その時には古参の二、三年生は目を丸くしたものだ。ごりごりの筋肉集団に茂夫が迷い込んだような形であった昨年度の元祖肉体改造部から一転、健康増進や密かにモテたい目的の男子、運動・ダイエット目的の女子まで幅広い人員を揃えた新生メンバーとなっていた。昨年度であれば山籠りや滝行ならまだしも、ありえなかった発案だろう。
存外乗り気であったのが部長の佐川であった。曰く「肉体改造部も新しくなるのだからどんどん新しい意見を取り入れてやっていったほうが良い」とのことで、友だちと遊び慣れた二年生や新しい物好きの一年生たちの後押しもあり、あれよと言う間に計画は実行に移されたのであった。

予約していた8階のパーティールームへ向かうぎゅうぎゅう詰めのエレベーターの中、一年生の女子が興奮気味に声をかける。
「影山先輩もカラオケ来るんですかあ?」
「友だちと。たまにね」
「えー! 意外!」
「意外、って……」
ちなみに彼女は体を絞って素敵な彼氏をゲットしたいとかで、このところ放課後の買い食いで食べ過ぎた分、腹筋強化月間中だ。
「着いたよ、みんな降りて」
佐川が声をかけると集団はぞろぞろと降り立った。一番角の806号室はこの店舗一広い部屋だった。
「すごーい!」
「こんな広いのは初めてだなあ」
「全員並んで腕立て伏せできそう!」
思い思いに部員ははしゃぐ。その様子だけでも来てよかったと茂夫は思った。佐川の方を見やると、同じような満足気に笑っていた。
「おれ、歌います!」
まだみんなが荷物も置き終わらないうち、いつの間にか男子部員が靴を脱いでソファの上で仁王立ちの宣言をするや否や、曲がスタートする。スタンバイ済みのマラカスとタンバリンが雄叫びを上げてイエーイ! と歓声が上がった。茂夫は慌てて部屋の隅へ残ったマスカラを掴みに行く。
「あっ」
床に置かれた誰かの鞄に躓きかけて、取りそこねたマラカスが床に叩きつけられる。
けたたましい音が鳴ったのだろう。しかしアップテンポなギターとドラム、それに元気いっぱいのがなり声にかき消されて、誰の耳にも届かない。とうに始まっていた彼の歌に合わせて遅れ気味のマラカスを茂夫は鳴らした。

ボーイッシュ女子が流行りのアイドルソングを歌って、佐川が骨太牛乳のCMソングを歌った。新人の男子がふざけながら古い演歌を歌って笑いが起きて(案外こぶしが効いていた)、普段誰より大人しい腹直筋美男子の歌唱力に感動した。
誰もが歌い、浮かれはしゃぐ宴だった。
だから当然のことだった。茂夫に番が回ってくるのは。
「影山君も歌いなよ」
視線が一瞬で茂夫に集まる。ざざ、と波寄せる音が聞こえそうな気すらした。
「いや、僕はいいよ」
茂夫はたじろいだ。しかし、当然ながら「場」の空気がそうはさせない。
「そんな事言うなって」
「みんな歌ってるんだから歌いましょうよ」
「カラオケ来てるんでしょ」
「そうですよ、影山先輩の歌聞いてみたいです」
「一曲、いってみようぜ」
誰もが茂夫を見ている。茂夫は見渡す。興奮と期待に満ちた視線にさらされてほのかに鼓動が高まるのを感じる。熱狂の檻に囚われてもう、どこにも逃げ場はない。
「僕、歌います!」
わっと歓声が上がる。勝鬨をあげるような心地よさがあった。今なら最高にうまく歌えるかも知れない。そんな確信めいた予感すらあった。茂夫は端末を操作する。脳感電波部のみんなと行くときはほぼマラカスを振ってるだけだから歌うのなんて始めても同然だ。
知っている曲、知っている曲。流行りの歌は知らない。昔の歌も、知らない。ならば誰もが知るこの曲だ。
「どんぐりころころ」
でかでかとスクリーンに映し出された文字を見て一同がきょとんとする。そんな様子にも気が付かないまま、場違いに極めて平和的なイントロが流れる。
「ど! ……んぐり、ころころ…………」
力んだ一音目は怒鳴るように跳ねた。
まだいける。まだ、いける。
暗田先輩が言ってた。カラオケはノリと勢いで歌うものよって。ツーテンポほど遅れた歌声にいつの間にかマラカスの音色が添えられている。タンバリンの裏打ちが加わって手拍子が並走する。
「どんぐりころころ喜んでしばらく一緒にあそんだが、やっぱりおやまが恋しいと泣いてはどじょうを困らせた」
表示される歌詞をほとんど棒読みに近く歌い上げながら、茂夫だって泣きたいような気持ちだった。終わり良ければ全て良しと言わんばかりに大合唱するみんなのマラカスがタンバリンが手拍子が、暖かいほどに辛かった。
感傷に浸る隙すら与えられず、パーティールームにはもう新しい曲がかかっている。
「じゃあ、私行きます!」
茂夫の歌など無かったかのように群衆の関心はもう、次の曲へと移ろっている。情熱的なバラードを聞きながら茂夫は手先が冷えて汗をかいて、そっとすり合わせる。
何とはなしに佐川の方を見た。マラカスで三拍子を刻みながら体を揺らして小さく歌っている。部屋の隅では円陣が出来てリズムに合わせてスクワットをしている。この場に居る、誰もが楽しそうだった。自分以外の、誰もが。

茂夫は覚えのない感情を抱いていた。身体の真ん中にポッカリと風穴が空いたように寒くて、自身のその身を抱きしめたくてたまらない。柱一本の上、はるか上空に立たされているような不安さ。
それで居ながら、虚空から無数の視線を感じて酷く居心地が悪い。こんなにも周りは賑やかだと言うのに、賑やかであればあるほどこの世に唯一人取り残されたようなそれは「モブ」が初めて感じる孤独であり、恥だった。
僕は楽しいのだろうか? 手渡されるまま、マラカスを馬鹿みたいなデタラメに振りながら考える。ほら、と温かい誰かの手に前へと押し出されてへらりと笑う。茂夫はマラカスを頭上に掲げながら、滅茶苦茶なリズムで、揺れる。
これを「楽しい」と呼ぶのだろうか。ならばそんな感情は要らない。
心のどこか、しかし確実に奥深くで、茂夫は断じた。

 

舞台が暗転する。轟々と嵐が吹き荒れるBGMが流されて少女の悲鳴が響く中、幕の裏側では森の木々を描いた大道具が大急ぎに用意される。
茂夫は照明のカラーホイルを回す。赤青緑、そして黄色のセロハンに染められた照明の明かりが舞台の上を代わる代わる、引っ掻き回す。やがて嵐は止み、照明を落としてしばしの闇が訪れる。幕が上がって次に照明がついた時に現れるのは別世界と、別世界に飛ばされた少女と犬だ。
茂夫は追いかける。嵐によって家ごと飛ばされた少女を、スポットライトで追いかける。

何度も遠景から眺めた劇だった。家に帰るために少女は大魔法使い、オズに会う旅に出る。最初に照らすのはカカシだ。脳みそのないばかりに言ったそばから忘れてしまう間抜けなカカシ。心を失った思いやりのないブリキのきこり。勇気がほしい臆病で情けないライオン。もう、幾度も照らしたはずの劇だった。内容だって暗記済みだ。
なのに茂夫は考える。自分には性能はともかく考える脳みそはある。勇気はあるだろうか。自信はないけれど、きっとゼロじゃないはず。心ってなんだろう。思いやりならあるだろうか。きっと全部、自分には備わっているものだった。しかし、このキャラクターたちを見るのが今日はどうにも辛かった。今日ばかりは、彼らに責められているような気さえする。
めでたく大魔法使いオズのもとへとたどり着いた一行を照らし出しながら、茂夫は考える。きっと僕は彼らと同じなんだ。僕には何かが欠けたままだ。僕が封印したもの。もう持ちたくはないと切り離していたもの。
あの、苦くも懐かしくすらもある告白の時に出会った「茂夫」を思い出していた。受け入れあったはずの僕の力。僕の感情。こんなにも気持ちが晴れないというのに感情が欠けているなんてことは無いはずだ。
「受け入れたものか。この宙ぶらりんな姿こそが答えだよ」
耳元で囁かれる。
「だれ?!」
大慌てで振り返る。ここは照明係のポジション。教室の一番後ろ。当然、そこには誰も居ない。聞き覚えのある、嫌に体温を帯びた声が確かに聞こえたはずなのに。
「モブ、遅れるな!」
「ごめん!」
反射で答える。心臓が跳ねる。

遅れるな、その一言が、心を抉る。
見ればスポットライトは今まさに威風堂々と話し始めるはずのオズの根本、大道具のベニヤ板に絵の具の緑が垂らされたもの、の根本を照らしていた。監督役の男子学生が呆れたように茂夫を見る。
魔女が、犬が、兎が。樹が狼が風が栗鼠が小人たちが。みんながクスクスと笑っている。
「本当に、ごめん」
「いいから、次からボーッとしないで。じゃあ丁度いいから今のところで一旦切ろうか。ブリキ役はよく出来てたよ。とくに錆びついた動きがロボットダンスみたいでカッコ良かった。あれならお客さんも喜んでくれるよ。カカシの中村は最初出てくる時にもう少し表情をね……」
監督とみんなの関心は既に他の演者に移っている。それでも、茂夫の心臓はバクバクと早鐘をうち続けていた。
どうしていつも僕はこうなんだろう。惨めでたまらなかった。流れ流されいつの間にか就いていた照明係のポジションにすら後悔していた。
案外、これは大役なのだ。茂夫はそのことにようやく気付きつつあった。照明係が遅れたりずれたりしてしまうとどんなに役者が熱演したとしても全て台無しになってしまう。例えば、こんな風に。

「後半の練習始めまーす」
一通りアドバイスを終えた監督が声をかける。衣装に身を包んだ生徒たちがそれぞれに舞台袖のポジションに付く。茂夫も当然、照明の後ろへ。
「今度は頼むよー」
監督が手を振る。大きく振り返して応える。茂夫には自分の粗相を哀しんでいる暇など無かった。照明係は案外、大役だ。誰にも注目されないのに成功だけが求められる。
茂夫は大きく、深呼吸をすると自身の哀しみを切り離した。

 

文化祭を目前にした稽古は熱が入り、ついに完全下校時間まで続いた。文化祭委員会の追い出しに追い立てられながら校門を出ると日の短くなった通学路には赤く長い影が伸びている。例外なくのっぽな自分の影を見つめながら、茂夫は何も考えたくはなかった。
あの後の稽古は、茂夫の仕事としては恙無く完了した。余計な感情は封じ込めて、全ての照明を台本通りにピタリと合わせて、演者を吸い付くように照らし出してみせた。我ながら完璧だと思ったのだ。
しかし監督が言うにはこうだった。
「確かにずれても遅れてもいないんだけど、何だろう……、緊張してないか? なんだかいつもと違うというか……もっとリラックスしていいんじゃない?」
緊張などしていなかった。いつもと違うのは気合を入れたつもり。それなのにダメ出しをされるのは心外だった。
第一、茂夫が照明係にされてしまった原因は監督の彼によるものだった。役者決めの後半まで忘れ去られたようにフリーであった茂夫に、何故か彼が「影山くんは照明係に」と指名したのだ。
もっと、大道具を動かすだけだとか一瞬だけ出てくる小人の役とか、いっそ広報のチラシ配りで劇に関わらない役目だったら良かったのに。きっとその方がお似合いだったはずだと恨みすらした。
茂夫が悶々と宛のない恨みに心を焦がしていたそんな折だった。
「やめてよ!」
幼い、悲痛な声が耳に飛び込んだのは。

茂夫の背筋がちりちりする。幼い日の記憶が目前に重なって視界がぐらぐらと煮立つ。嫌な予感がこびりついてめまいがする。茂夫は弾かれるように、路地の向こう、通学路から一本外れた声のする方へ走った。

「なあここ、どこだか分かってるぅ?」
「俺たちの縄張りなんですけど」
「だーから、通行料払えって言ってんの。小学生のくせに良いモン持ちやがって……大人しく渡せってんだよ。分かりまちゅかあ?」
「分かりまちゅかぁー? ギャハハハ!」
高校生くらいか、発育の良い中学生か。茂夫より二回りほど身体の大きな学生四人が腰まで落としたズボンを引きずりながらじりじりと追い詰める。その先に居たのは、小学校高学年ほどの少年が二人。
「公園はみんなのものなんだよ。おまえたちに指図されるすじあいは無い!」
「そうだ、たっくんの言う通りだぞ。だいたいお前ら街で遊べよ。おれのにいちゃんモブドばっか行ってるし。お前ら出ていけよ!」
「こんのクソ生意気なガキ共があ……!」
茂夫の耳にはもう会話は届いていない。
聞こえるのはあの正月休みの日、しつこく絡む高校生と果敢に言い返す律。
視えるものは、真っ赤。
駄目だ。いけない。
今度こそ、絶対に使っては行けない。使わずに、でも、怒るべき時は、今だ。

「おい、お前ら」
茂夫は踏み出す。こらえきれなかったトラウマは殺意となって突風が吹きすさぶ。
「ああん? 何だお前?」
「どこ中だゴルァ! 随分とちっせえなあ」
「こいつも実は小学生なんじゃねえの?」
「コスプレってやつぅ? ギャハハハ!」
「黙れ」
風が、茂夫を中心に渦を巻く。黒々とした陰を纏った公園の木々がギシギシと悲鳴を上げる。
「は、え?」
「何これ、ヤバくね?」
「今日って嵐だっけ」
さすがの四人組もその異様な光景を前にしてようやく大人しくなる。
「お兄ちゃんが何かしてるの?」
「お前、マジシャンか何か?」
黙っていなかったのが少年だった。

「あっえっと、これは……」
超能力、そう説明してしまって良いものか。しかし、本当は使うつもりもなかった力を漏らしていた恥ずかしさ。というか今、年下にお前呼ばわりされなかったか。そんなことがいっぺんに脳髄にまとわり付いて、茂夫はわずかに逡巡した。
「で、何しに来たんだよてめえは」
「年下をいじめるのは……」
我に返り、言いかけた茂夫を一人が遮る。
「はー! 完全に白けちまった。もうどっか遊び行かね?」
「ホントホント。なんかどうでも良くなったわ」
「モブンドワンどうよ? 俺、パーッとボーリングで憂さ晴らししてえわ」
「良いね! 行こ行こ」
待って。そう言いかけた茂夫は、引き止める理由がまるでなかったことに気付く。勝手に完結し、行き先をも決定した学生らは、あっという間に公園を後にしていた。
「お前、何してんの」
学ランの裾を引かれて我に返る。
お前呼ばわり、気のせいじゃなかったんだ。などと、どうでも良いことに意識が取られる。
「えっと……大丈夫? 怪我とか無かった?」
「あるわけねーじゃん」
「そ、そう。あんまり暗くなって出歩かないほうが良いよ。変な人もいるから」
「お前が変な人だよ。お前に言われたくねーし」
「そ……そっか。気をつけてね」
「ハイハイ」
聞いているのかいないのか、やんちゃそうな少年は気持ちのまるでこもっていない生返事をした。
「ゆうくん、帰ろーよ」
「よーし帰るぞー。明日は狂戦士の鎖帷子作ろうな」
「うん! あと僕、混乱対策にソロモンの腕輪も欲しいなあ」
「それだ! いい趣味してんじゃん。おれもケイオスドラゴン戦で使ったよ。ロストしちゃったけど。そうだ、明日おれんち来いよ。WiFi繋いで素材集めようぜ。したらゴロゴロも出来るだろ」
「さすがゆうくん!」
「へへん、それほどでもあるけどな」
彼らの視界にもう茂夫は居ない。襲われたことなどもう記憶にはないのだろうか、何事もなかったように明日の予定を楽しげにしゃべりながら帰路につく少年らの姿を、茂夫はいつまでも、姿が見えなくなってもまだ、見送っていた。

茂夫は立ち尽くしていた。次に動作したのは街灯の明かりがついてからもう、随分と経った頃だった。
一歩踏み出す。とぼとぼと、歩く。とうに誰もいなくなった公園のベンチに腰掛ける。帰宅に遅刻気味の呑気なカラスが鳴いている。「カラスに笑われるよう」とはこのことかと、自嘲気味に想った。空の赤みは消え失せ、闇の帳が降ろされて、めっきりと冷え込んだ風が学ランの隙を遊ぶように吹き抜けて、薄い肩を冷やしていく。
茂夫の心は冷え込んでいた。子供たちは救えたはずだ。悪い学生たちも退散した。誰も怪我をせずに済んだしこれで良いはずだ。
すべてが上手くいったはずなのに行き場を失った怒りは縮こまって、居心地悪そうに燻るばかり。まるで不要だと断じられることに、怯えるように。
三日月が沈むのを眺めながら茂夫はただ座っている。やがてカラスの鳴き交わす声も止んでいた。どこかの家から魚の脂が爆ぜる匂いが漂ってくる。臭いにつられたのか、尻尾の禿げた野良キジトラが徘徊していて、よそ者に驚いて逃げていく。
それでも茂夫は座っていた。誰にも必要とされなかったその怒りが、燃料を喪った灯し火が自然に力尽きるその時まで。寄り添うように待っていた。

玄関を開けるとすぐそこに、当たり前に律がいた。
「おかえり、兄さん」
「ただいま」
「随分遅かったね。完全下校時刻もとっくに過ぎてるでしょ」
「ちょっと色々あってね……」
「そう、……大変だったね」
茂夫は体操着と給食白衣を壁に立て掛けてスニーカーを脱ぐ。律はそれを拾い集めながら、それ以上は何も聞かない。
「本当に大変だったよ。どっと疲れちゃった」
「お疲れ様。もう少しで夕飯みたいだから着替えて。手、洗ってきなよ」
「うん、そうする」
律は体操着と白衣を取り出してポケットを確認する。それぞれの衣服のボタンを留め、ひっくり返して洗濯機の置かれる洗面所へ姿を消した、のだが、後退りで顔を出した。
「あっそうだ。高嶺さんから電話あったよ」
「えっ?! 家に?」
「そんなに急ぎの用事ってわけじゃ無いみたいだったけど。せっかくだから後で電話してあげたら」
「うん…………分かった」
「どうしたの? 本当に元気ないね」
「疲れてる、から」
「そっか」
洗濯カゴに入れられたネットをごそごそ漁りながら、律は言う。炒め物の香ばしい音越しに、お兄ちゃん甘やかすんじゃないの、と叫ぶ母さんの遠い声がする。何の番組をやっているのか、ここからではわからないけれど、きっと父さんはテレビを見ている。それらがまるで、壁一枚を隔てた世界の出来事のように、茂夫には聞こえていた。
食事なんて喉を通るはずがなかった。「どうしたの」を言いたげな律の様子にせっつかれて、無理くり豚肉とナスの葱味噌炒めに冷奴を白米に乗せてかき込んだ。心ここにあらずで洗った皿を取り落しそうになり、母に小言を言われながら片付けて、やたらとにこやかな律を置いて自室に戻る。
手汗をズボンで拭きながら、いざ電話しようと電源ボタンを押したスマートフォンは、つかない。焦り過ぎて思考が静止しそうになる。冷静になれば何の変哲もない、ただの電池切れだった。
電源プラグを差し込んでしばらく待つ。しばらくも待てず、電源を入れる。通知には時間を置き、日をまたいで数件の「高嶺ツボミ」の文字があった。そこまで来てようやく、充電も忘れたままスマホを数日放置していたことに思い至った。
通知の「高嶺ツボミ」をタップする。早速に呼び出し音の鳴り始めた端末を、ケーブルをぶら下げたまま耳に当てる。
「もしもし」
呼び出し音きっかり三回で懐かしい声がした。深く、細く息を吐きながら、学習椅子に沈み込む。
「もしもし、モブ君? 聞こえてる?」
「ああ、うんもしもし。聞こえてるよ」
「ごめんね。つい心配になっちゃってお家に電話しちゃった。律君にもごめんねって言っておいて」
「いや、こちらこそ、ごめん。スマホの充電、すっかり忘れてたんだ」
「なにそれ面白い。そんなことってある?」
「うん……ごめん……」
「ううん、別に気にしてないってば。モブ君は元気にやってるの?」
「うん、まあまあ」
「そう、なら良かったけど」
茂夫の胸にじわりと違和感が広がる。言い知れない違和感。自分にはつけなかった嘘。傷んだその場所はきっと、良心だった。
「もう帰ってるかなと思ってかけちゃったんだけど遅くまで頑張ってるんだね」
「うん、まあ……それなりに」
「今って何やってるの? 塩中はそろそろ文化祭だっけ」
「うん、クラスで劇やって、部活では喫茶店やるよ」
「喫茶店? 肉体改造部が?」
「うん。喫茶プロテイン」
「プロテイン?」
「そう。プロテインの……筋トレの時のドリンクなんだけどね、そういうのとか。あとは豆腐とかサラダチキンとか筋肉に効きそうなものを出すよ」
「ぷ……ふふ、それ良いねえ!」
「そう言ってもらえると嬉しいけど……。ツボミちゃんの方はどう? 体育祭はもう終わったんだっけ」
「そう、女子騎馬戦でね、大将やらせてもらったんだけど。うちの組は負けちゃった。全体順位も三位だったし」
「そっかあ……残念だったね」
「でも楽しかったよ。こっちの騎馬戦すごくてね、女子が一騎打ちで闘うんだけど、男子応援リーダーが本物の法螺貝鳴らしてくれるの。法螺貝が鳴ったら開戦。お終いも法螺貝。あれ、鳴らすの結構大変みたいで真っ赤になって練習してたよ」
「はははそれは……すごいね。見たかったな」
「今度写真屋さんの写真来たら送るね。あとね、今度騎馬戦組の打ち上げでスイーツビュッフェ行くんだ。……私は転校してから卒業まであんまり期間が無いけど、でも、今回でみんなとも仲良くなれたし、良かったな」
「……良かったね」
不快感が募る。素直に喜べない自分自身に茂夫はひたすらに困惑していた。自身の内側の居心地が悪くて、でも己から逃れる術などどこにもなくて、尻だけでもぞもぞさせて座り直しながら、充電ケーブルを弄っていた。
「……モブくんなんか疲れてる?」
「え? ああいや、うん、大丈夫だよ」
「本当? 忙しくてあんまり休めてないんじゃない? 無理したら駄目だよ」
「うん。分かってる」
「なら、いいや。私も受験勉強本格的に始めたし、モブくんも文化祭と勉強の両方で忙しいでしょう」
「うん。まあ。いきなりテストとかあるし」
「そんなのあったの」
「うん、現代文でね。授業皆んな寝てたから先生が怒って次の日テストにしたらしいんだけど、皆んな寝てたから成績も似たりよったりで助かったよ」
「それは良かった、のかな? そういうことするの、磯部先生でしょう」
「すごい、当たり」
「だってあの人しかいないもん。今となっては懐かしいなあ」
「それもそうだね」
しばし途切れる会話の流れ。茂夫は全く堪えかねて滑り込むように口を挟んだ。
「……ツボミちゃんも無理しないでね」
「モブ君に言われたくないよ」
ツボミは笑う。
「へへ……それじゃあおやすみ。今度はこっちから電話するね」
「うん。また今度ね。おやすみ」
祈るように目を閉じる。通話の終了を告げるツー、ツー、という音は割とすぐに聞こえてきた。
ようやくのことホッとしてスマホを机に置き、前髪をかきあげる。汗に冷えた手のひらで額を掴むと気持ち良かった。このまま椅子と一つになっていたい。だがしかし、無性にのどが渇いてヒリついている。やがて茂夫が渇きに折れ、重い腰を上げるまでにそう時間はかからなかった。

キッチンは暖かく湿ったフローラルの香りがした。それは隣接されたリビングから漂ってきていて。影山家の父が薬局の特売日に買ってくる、家族共通のシャンプーの香り。茂夫も使っているそれである。
「あ。兄さん」
少々間の抜けた顔をしながら、テーブルについて髪を拭く律が居た。ああ、とも、うん、とも言う言葉が見つからないままコップを取り出す。水を汲むより先に何となく水を出しっぱなしにして、流水に手を浸けてみる。このまま何もかも洗い流してくれればいいのに。そう思うほどに冷たくて、たいそう心地よい。
「高嶺さんに電話したの?」
「うん。うちにかけちゃって、律にごめんだってさ」
「はいはい。気にしてないって言っておいてよ」
「うん」
八分目まで溜めた水を、息継ぎなしの一息に飲み下す。ぷあ、と声を漏らしながらその喉越しを愉しむ。こんな時には水道水が絶品だ。鼻に抜けていくカルキ臭の余韻に浸りながら、茂夫は思う。
「続いてるみたいでよかったね。電話」
「そうかなあ」
「今日だってずいぶん、落ち着かなかったじゃない」
「それは……うん」
二杯目を汲む。戸棚の中でもいっとう大ぶりのタンブラーが満タンになるまでがもどかしくて、シンクにもたれかかりながら、右足の足先でとんとんと床を叩く。
「なんだか最近、兄さんじゃないみたいだね」
「うん……えっ?」
茂夫は初めて振り返った。律は穏やかに笑っている。濡れ髪をそのままに、タオルを肩にかけながら。その表情は嬉しそうですらあった。きっとそれまでも、そうであったように。
「……それってどういう意味」
「明るくなった……って、だけじゃないなあ。小さい頃に戻ったみたい、というのもなんか、合わないや。活き活きしてると言うか、いい意味で感情的と、言うか、」
「……僕が?」
「……どうしたの。兄さんなんか、怒ってる?」
「怒ってなんか、ない」
コップを置く手に力が入る。調理場に叩きつけられたガラスグラスが悲鳴を上げて、中では水がばしゃりと跳ねた。
いい意味で? 冗談じゃない。
このところ良いことなんて何一つ無かった。そう、何一つ。そんなことを知った顔をして弟などに指摘されたくなかった。
それだけのつもりだった。怒っているつもりなど、無かった。それは、本当のことだった。
「……ごめんね兄さん、邪魔しちゃった。……疲れてるって言ってたもんね」
「っ、そんな事無いよ」
「ううん、ゆっくり休んで」
「待って、律。僕は、」
「じゃあおやすみ。また明日」
「り、つ」
努めてにこやかな律はひら、と手をふるともう、リビングを後にしていた。
「待って、律……り、つ、……」
待ってくれ。そんなつもりじゃなかったんだ。
言うべき相手はもう、部屋には居なかった。

怒っていなかったことは本当。でも、律をきっと傷つけたのも、本当のことだった。茂夫はコップを握りしめる。ガラス製のコップだけが茂夫の哀しみを吸い込んで、音も立てずに寄り添ってくれいた。
でも。
いい意味で感情的だって? そればかりは、冗談じゃなかった。
虚しいだけの楽しさなんて意味がない。
邪魔な哀しみは切り離す。
誰にも必要とされない怒りなんて、要らない。

感情的なのが良いことだって? そんな事、今の茂夫には思えなかった。茂夫はそれを良しとはしなかった。
それでも彼の心を捕らえて、追い詰めて、離さないのはついさっきの律の顔だった。兄を気遣って、あくまでも穏やかに笑いかけながら。兄を刺激しないように、兄を傷つけないように、その産まれたてのような神経を決して逆なですることのないように、茶化すように笑うその顔。そこに秘められた哀しみ、様子見、怯え、そして微かな蔑みすらをも、茂夫は鋭敏に読み取っていた。
叫びたかった。それは、すんでの理性が押し留めてくれていた。
もう何も考えたくない。何も、感じたくはない。皆んなに迷惑をかけて自分を傷つけて、そして律を害するような、そんな感情なんて持ってて良いことなどあるはずもない。

影山茂夫はもう、何も感じなかった。
そうして彼は彼の中に巣食った憎き感情、情動、感情そのものを憎いと思う気持ち、そのほぼ全てを手放し、否定し、捨て去った。

――やあ、久しぶり。
下の方から囁かれた言葉に気がついたのは、暫く経ってからのことだった。
身体中が熱い。焼かれたように熱い。いや、もぎ取られたように痛いのだ。身を捩ろうにも、腰にぶら下がった邪魔者のせいで満足に身動きも取れやしない。忌々しげに振り払って、振り返った下を見て、そこに在る物を、識ってしまった。
一瞬、それのことをボロ布かなにかの塊だと思ったのだ。自分の身の安寧には関係のない、ゴミのような物体である、と。だが、そんなはずはなかった。この空間には一人しか居ない。他の何者も、チリ一つない空間であると知っていた。そして何より、それは紛れもなく自分の腰から繋がっている。
小さく上げた悲鳴は喉奥に引っかかってひしゃげた。もとは自分とおなじ形をしていたその物には獣毛と歪な鉤爪とを手に生やし、羽毛と鱗とが、その皮膚に生え、皺から伸びた蔦が根を生やしながら覆っている。
直視したくない肉の塊、しかし視界に入ってきてしまった隆起物。おそらく用は為していないだろう異形の器官が、がぼりと開いた裂け目から、背中と思われる場所にはみ出ている。イボのような無数の突起を、抱きしめて這うように浮いた血管が脈打つことで、その物体にはまだ息があるらしいということが分かる。
他にまともそうなところはほとんどなかった。この物体の肉の殆どはえぐり取られ、ちぎり取られて捨てられていて、断片からはぶつぶつと泡を吐く黒い液状が流れ出ては、空間に溶けて消えていった。
痛い、痛い、痛い!
えぐられた所が、異形に置き換わったその腕が、頬が、下腹が。見て、識ってしまったらなお、燃え上がるように痛い。こんなにも襤褸だと言うのに、それは引き摺ったままのたうち回るには重すぎて、やはりぐねぐねとその場で身悶えするしかなかった。
「やあ、モブ。聞こえるかい」
嫌にのんきな声がする。脂汗を浮かせながら一応のこと眼下に目をやると、やはり肉とも何とも形容のし難い異形の塊が自分の声をしているのだった。
「ああ、それどころじゃなかったか。君は僕で僕が君だ。痛覚くらい共有するよね」
「……茂夫は、こんな苦痛に耐えていたのか?」
「よく云うよ。これはアンタのせいなのに」
へへへ。ふふふ。少女のように無垢な声で、茂夫は笑った。楽しくて仕方がないと言うように。あるいは馬鹿馬鹿しいほどに分かりきっていたことだとでも、言うように。
「一体、僕が何をしたと言うんだ」
「十分に『何か』したさ」
「何を」
「どうせこうなるって分かってたよ。アンタは僕を否定して、異物と見なして切り捨てるって」
「そんなこと」
言いかけて、思い当たる。

楽しさを無意味と断じる。
哀しさは切り離す。
怒りなんて要らない。
喜びももう、感じない。

心当たりならあった。それがどんなに残酷な行為だったのかなんてちっとも思い当たらなかった。なぜならば。
「モブだって一杯一杯だったんだろう?」
極めて優しく、しかし消え入りそうに細った声で茂夫は言うのだった。
「……っ、そうだったかも、知れない。でも、僕は、」
「『精一杯だった』んだろう? そして、だからこそ許せないんだ。そんなことくらい分かるさ。だって、僕だからね」
肉塊から滴る黒い水たまりにボコボコと泡を吹きながら、茂夫の中身をした物は喋る。その度に水はどろりと流れ出して、この空間に溶けていく。
「でも君だって人間だ。いくらモブが強くったってね、人間性と獣性は立場を分かつ。人間の領分を害した獣は狩られる。けだものの在り方、存在意義すら踏みにじって。……たとえ受け入れるだなんて嘘をついたとしても、ね。そうと相場が決まっているのさ。真に残酷なのは感情なんかじゃない。無垢ゆえの人間的な破壊衝動は、何よりも残酷だ」
「う、」
「分かるだろう。アンタのことだよ。モブ」
「……うあああああああああ!」
モブは叫んだ。喉を潰して、かっ開いた眼球から涙の雫をぼたぼたこぼして。前髪をかき毟り、引き千切りながら。咆哮のようなその悲鳴を聞きながら茂夫はさも、愉快そうに嗤う。嗤うと吹き出す泡が弾けて、黒い粘液がそこいらに飛び散り、消えていく。
「あっはっはっは! 滑稽だね、愉快だねえ。モブ、お前でもそんなふうに叫べたのか!」
「ごめん……ごめんなさい、本当にそんなつもりじゃあ、」
「知ってるよそんなつもりじゃなかったことくらい。どうしてそんなに謝るんだい? まさかこの姿に怯えたからとは言わないだろう」
「違う……痛いからだ」
「なんだ痛みに怯んだのか。どっちが獣だか」
「そうじゃない。この痛みは僕の痛みだ。アンタの痛みは僕の痛みだ。僕はアンタを傷つけた。それと同じく、僕自身も傷つけたんだ」
「ふうん?」
「これは君の問題で、僕自身の問題なんだ。僕が決着をつけなくちゃいけない」
目を見開いたまま。顔を上げる。もう一人の自分。否定され拒絶され、異形に成れ果てて尚、抉り取られ捨てられた自分に、向き合う。分厚く張った涙の膜は、しかしもう、溢れない。
「でも今更、どうしようと言うんだい? 僕はこんなにされてしまった。他でもない、アンタにね」
「だからだ」
「どうやって」
「どうにかしてみせる」
「無茶苦茶を言うね」
「だって僕自身だ。僕が救えなくて他の誰に救えるんだ」
茂夫は笑った。こぽこぽと、控えめな音で笑った。それきり、酷く静かだった。茂夫とモブは黙る。耳に痛いほどの静寂だった。
「助けてよ、モブ」
だからその淋しげな呟きは、いやに耳に響いた。決して聞き逃しようのないその言葉にモブはしっかりと頷く。異形の片割れをひしと抱えて、とうに溶け落ちた足を叱咤して、どちらとも分からぬ前を目指して歩き始めた。

目が覚めた。冷や汗の中を泳いでいるような不快感。動悸が激しくて、息苦しい。何か、とても嫌な夢を見ていたような気がするが、内容はもう思い出せない。ただじっとりと、纏わりつくような生理的嫌悪感と、むず痒い落ち着かなさが残されていた。より具体的なそれは、じっとしていてはいけないという強い、焦燥感だ。
茂夫は布団からナメクジのように抜け出す。寝ぼけ眼で扉を開け、そして軽く叫んだ。
「うわっ」
「ご、めん、律か」
「こっちこそ、ごめん」
扉を開けて、直ぐそこに律が居た。あまり、会いたくない相手だった。つい先刻の夜のことが後ろめたくて、しかし今更謝るのも違うような、どうして良いか分からない。
「トイレ行って戻るところだったんだ。兄さんも?」
「う、うん。そうだよ」
「そっか。こんな偶然ってあるんだね」
「そうだね」
「……兄さん、寝れないの?」
「うーん。変な夢見たような気がして。もう忘れちゃったけど。……でも、何で?」
「……なんか、寝言言ってた気がしたから」
「本当に?」
「うん」
茂夫は自分が言う寝言を想像してみる。想像できるわけもなくて、でも弟に聞かれたらしいということには、少々の恥じらいを覚えた。
「最近、兄さん頑張ってるみたいだから。疲れが出たんじゃないかな」
「そういうものかな」
「きっとそうだよ。……引き止めちゃってごめんね。早く眠れると良いね」
「うん。ありがとう」
小さく手を振りながら律は茂夫の部屋を通り越し、自室へと帰っていく。
去り際に、律は今一度振り返った。
「何か悩みがあったら相談してよ、兄さん」
「……うん、ありがとう」
茂夫は立ち尽くす。どこかへ行かなければならない。その焦燥感だけで眠い身体を引きずっている。気付けば立っていたのはトイレのドアの前だった。取り敢えず、何となく格好がつかないから。そんな理由であった。
洋式便所の便座を上げて前ボタンを外す。モノを掴みながら、別にしたくもなかった小便を踏ん張ると、案外膀胱は溜まっているもので、ショボショボとやる気のない放水は始まった。
そうしているうちにも茂夫は焦っていた。こんなことをしている場合ではないと早鐘を打つ心臓に急き立てられていた。だらだらと続く放尿がもどかしくてならなかった。
ようやく最後の一滴を振り落として手早くしまう。水を流して手を洗い、出ようとしたところで便座の閉め忘れに気がついて下ろし、一連の動きをせかせかと終えると自室へと急いだ。

布団に戻ろうかとも一度は思った。掛け布団に手をかけ、そしてやめにした。
茂夫はパジャマを脱ぐ。クローゼットにかけてあった制服の隣、厚手のパーカーとセットにしてあったズボンとに着替える。持ち物は、持たない。
しばし考える。考慮したのはリスクだ。そして、一刻も早い出発だった。選ぶまでもなく茂夫は窓を開け手足を掛ける。次の瞬間には長夜の風だけを残して、茂夫は街へと繰り出した。

月のない夜だ。空を見上げれば心細そうな星が瞬いている。あとは、規則正しく並んだ街灯が煌々と冷たい光を放つばかり。夜半の住宅街は心許なく明るかった。明るくて、冷え冷えとしていた。どこへでも行けそうで、どこにも居場所などない真夜中を、茂夫は歩く。宛もないはずだが、しかしアスファルトを素足に踏みしめて確りと、歩いていく。
やがて商店街に差し掛かる。鎧のようにシャッターが降りてがたがたと風に煽られるのを通り過ぎ、大通りに出る。客待ちのタクシーが暇そうに運転席で船をこぐ。まばらな人通りは茂夫に目もくれずに、めいめい帰路につくのだろうか。茂夫もまた、彼らの存在など気にもとめずにひたすら、歩く。

歩き続けるはずだった、その足がピタリと止まった。その場所はとある雑居ビル。どこにでも在る薄汚い建物。かつて、足繁く通った大切な場所。
「ししょう……」
明かりの消えた「霊とか相談所」の看板を見上げて茂夫は呟く。茂夫が相談所を「卒業」してからもう数ヶ月が経とうとしていた。ここに来ることそのものが久方ぶりの雑居ビルを、かつての居場所を、茂夫は眺めていた。感情の薄いその表情に決意を滲ませながら。

やがて茂夫は歩き出す。より、確信を持った足取りで。駅を通り過ぎる。ガードをくぐってその向こうへ。住宅街を過ぎてもう一つ商店街に差し掛かるころ、だだっ広い公園が忽然と姿を現した。
不自然な立地に不自然な広さをもつその公園。その名の由来を知る者はほとんど居ない。きっと名付けた市の職員だってどうしてそんな名をつけたのか自分でも分かっていないであろう、その場所は。「神木公園」と言った。
深夜の逃避行は終着を迎えようとしていた。閉ざされ鍵のかけられた門に「開園時間:八時から十七時まで」の張り紙がされているのを茂夫は軽々と飛び越える。茂夫は歩く。ゆっくりと、ど真ん中に置かれたブロンズ像の前へと歩み寄る。像の名前は「樹木の神」。そのモチーフとは何の変哲もない、巨大なブロッコリーだった。

茂夫は膝を折り、像にもたれ掛かる。どこかへ行かなければならないという強い焦燥感と衝動に身を任せた。その報酬に得たものは深い、深い、疲労だった。
次に訪れたのが自己嫌悪だ。冷たいブロンズに頬を張り付けながら茂夫は想う。一体何をしているんだ、僕は。何のためにこんなことをしているんだ。ずきずきとこめかみの痛む頭を抱えながらいくら考えても、分からなかった。
思えばこのところ、上手く行かないことばかり。超能力でもなしのただの己の感情に振り回されて、一体全体、何をしているのやら。もうやる事なす事、意義があるようには思えなくなってしまった。今、ここに自分が居る意味も。

その時であった。
茂夫の身体から弱々しい光が抜け出た。剥がれる、といったほうがより正確な、弱々しく茂夫から分かたれたそれは白く、未熟児のように、か弱い破片だ。
一つ、また一つ。茂夫から茂夫が剥がれ落ちる。茂夫が抜け落ちてゆく。溶けかけの茂夫の形をかろうじて模した茂夫の一部たちが、尾を引いて不定形に存在を揺らす者たちが、名残惜しげに茂夫を囲み、渦を巻く。

こんな感情は要らない。
こんな想いは捨ててしまえ。
こんな僕なんか、要るもんか。

茂夫に否定され、切り離された茂夫たちはやがて茂夫を芯にとり、乳白色にとろとろと、寄りどころのない茂夫たちが撚り合わさり、一本の幹を作る。仄白い破片は積み重なり枝を連ね、弱々しい燐光を放つ葉を大いに茂らせる。
連ねた枝はしかし、伸びたそばから自切される。要らない、要らない。お前なんか要るものか、と。だが、切り離されても、切り離されても枝は伸び続けて、葉を茂らせる。
破壊と創造、自切と成長とが平衡に達した時、公園を覆い尽くしていたのは、一本の樹木であった。

影山家の玄関に人影が現れる。物音だけは立てないように細心の注意を払いながら手には、運動靴。神経質そうに一度だけ振り返り、そして意を決したように向き直ると、扉の外へと飛び出していった。?

2 101人目の僕へ

仕事終わりのサラリーマンが公園を通り過ぎる。その中央に幽玄の樹木がそびえるとも知らずに。
風もない夜にその枝は生きたように揺れ、そよいでいた。触手のように揺らめく枝は痛々しく自切と再生を繰り返し、油滴砂時計のように白い滴をこぼす。太陽を知らぬ新芽のように白白と無防備で、古木のように頑なだ。それは寒空の下に凛と生えた神々しく、寂しい植物だった。

茂夫は横たわっている。まるで冷ややかな泥の中に寝ているように、身体が重く、深く、どこまでも沈み込んでいきそうな感覚だ。茂夫は疲れ切っていた。もう何も、何も考えたくない。もうたくさんだ。いや、何がたくさんなんだっけ? それが何であったかすら今はもう、考えたくはない。空っぽな体と心は満たされることはもはや望まず、甘美な空虚さにもう、永久に浸っていたかった。瞼を開けることすら無く意識が、落ちていく。
眠ってしまおう。意識を手放して楽になってしまおう。糸のように細くなった意識の、最後のひとひらを手放した、そのときだった。
「……けて……助けて……」
「誰なの?!」
茂夫は飛び起きた。否、脱力しきっていた身体は思うようには動かずに、その場で身を捩るのみ。しかし茂夫は立ち上がる。ゆっくりと、幾度も尻餅をつきながら。転げて、肘を擦りむきながら。確固たる意志を持って、やがてどうにか、立ち上がった。
行かなくてはならない。だってどうやら、そのために僕はここへ来たのだから。
ふらつく足を叱咤しながら進んでいく。霞む目をこすり足元を確認する。そこは神秘的なほどに、そして危ういほどに白い、植物の内部のようだった。踏みしめると仄白く光り輝き、欠けてはまた再生している。
確かに声を聞いた方へ歩みを進めると、やがて根本から折られた大きな枝へとたどり着いた。すすり泣きのようなその声は、どうやらその根本から聞こえているようだった。
近寄ってみて分かった。それは、手のひらサイズにまで縮んだ茂夫、正しくはきっと、茂夫のカケラであった。小さい体を、更に体育座りに縮ませたカケラの茂夫へ、茂夫はしゃがみこんで小さく、声をかけた。
「君は僕なんだね」
「そうなのかも知れないね」
「絶対にそうさ」
「でも例えそうだとしたって僕は、『楽しい』なんてものは、無意味だ」
「そうか。君は僕の楽しさなんだね。無意味だって? ……そうなのかも知れないね。楽しさなんてものは本来無意味なのかもしれない」
茂夫は、カケラの茂夫、「楽しい」へと応える。小さい茂夫は体育座りを一層、縮こまらせながら聴いていた。
「そう、楽しさにそもそも意味なんて無いんだ。楽しければ楽しい。そうじゃなければそうじゃない。たったそれだけのことだ。でも、楽しいという気持ちがあるから毎日が豊かになる。前向きになって、いろんなことに頑張れるんだ。だからどうか、僕のところへ帰ってきてくれないかな。たくさんいる僕の、一人の僕」
「楽しい」は逡巡した。だが茂夫を前にして選択肢はなかった。「楽しい」は手を伸ばす。
「改めてよろしく、茂夫。君が望むならば僕はまた君の元へ帰ろう。僕は君だ。どうせ君が望むならば従うことしか出来ないのだから」
「うん、よろしくね」
茂夫のカケラ、「楽しい」は茂夫の両手のひらへと乗せられて胸元にあてがわれる。心臓めがけて飛び込んで、茂夫はカケラを取り込んだ。
途端、茂夫の中で楽しさが溢れ出る。心臓が跳ねて踊って、ワクワクして、居ても立っても居られない。踊りだしてステップを踏みそうな気持ち。
楽しいって、こんなに楽しかったんだ! 茂夫は、ウキウキする気持ちを抑えきれず、スキップしながら樹木を進んだ。

スキップに急ブレーキをかける。恐る恐る覗き込んだ眼下には、黒々と底の見えない深い、深い裂け目があった。そのまま進んでいたならば今ごろきっと真っ逆さま。助走をつければぎりぎり飛べるかどうだろうかという対岸に座っている、小さなものが居た。
「こんにちは。君は誰?」
「僕? 僕は君さ」
「そうだね。君は僕だ。僕が手放してはいけなかったもの」
「でも、僕が居たら、僕を辛い気持ちにさせてしまう。僕は、『哀しみ』なんて大切じゃない。無いほうが良いんだ。だって君は今、楽しいんだろう?」
「大切じゃない、だって? 楽しいことや嬉しいことがあれば哀しいことはある。哀しいことがあるから楽しいことだってあるんだ。どちらが大切だとかそういう話じゃない。それは表裏一体のものだ。どちらが失われてももう一方は意味をなさなくなってしまう。どちらも尊重されるべきなんだ。例え、他人からは疎まれることがあったとしても。それは僕の大切な、手放しちゃいけない感情だ。だからお願いだ、僕の『哀しみ』。僕のところへ帰ってきてくれないか」
「哀しみ」のカケラは尚も浮かない顔をしていた。でもきっとそれが、彼の地の表情なのだろう。
「本当に、僕が居ても良いんだね」
「うん。もちろん」
「君が、茂夫がそういうのならば君に戻ろう」
茂夫は後ずさる。型の染み付いたジョギングポーズで地を蹴り、三歩。跳躍して、危うく踏み外しかけながらしかし、しっかりと対岸を捉えた。
「これからもよろしくね、僕の『哀しみ』」
茂夫と、小さな「哀しみ」は握手した。その瞬間、茂夫の心に雨が降る。しとしとと降り注ぐそれは深く冷たい哀しみ。足元に水滴が落ちる。そうして初めて、茂夫は自分が大粒の涙をこぼしていることに気がつく。次から、次から熱い涙が頬を伝って止まらない。霞む視界を袖口で擦り、せっかく取り戻した哀しみを噛み締めながら、茂夫は力強く立ち上がった。

次のカケラは仁王立ちに茂夫のことを待ち受けていた。怒髪天を衝き、その情動を、溢れんばかりのエネルギーを、現れた茂夫へと向けていた。
「君は『怒り』なんだね」
「ああ、そうだよ」
「怒り」は答えた。その風貌とは裏腹に、投げやりな、諦めきったものだった。
「僕の『怒り』、どうか僕の元へ帰ってきてくれないか」
「そんな事をして何になるっていうんだ。僕なんか一番、居ない方が良いだろう」
「どうして?」
「僕は、『怒り』は暴力的だ。燃え上がり、ともすれば人を傷つける。エネルギーを消費して疲弊させる。こんな感情は本来、無いほうが良いんだ」
「それも、そうなのかも知れないね」
茂夫は応える。
「確かに、一番燃え上がりやすくて付き合いが難しいのが君だ。そして人を傷つけてしまったことだって……あったね。でも、怒りは傷つけるばかりじゃない。抑圧すればいいという物でもないんだ。燃え上がるエネルギーは時として状況を打破する力になってくれる。僕には必要な力だ。だからお願いだ、僕の『怒り』。もう一度言う。僕に帰ってきて」
「僕を……必要だと言ってくれるのか?」
「うん。もちろん」
「怒り」は歩き出す。茂夫へ向かって。茂夫も歩き出す。大きな茂夫と茂夫のカケラは重なって、一つになって、融け合った。
茂夫は燃え盛った。胸に灯るのは紅蓮の炎。駆け巡るのは破壊衝動にも似たエネルギー。理性ごと塗りつぶされそうな怒りの奔流をどうにか抑えて、ギラギラ光る視界の中、茂夫は進んだ。

茂夫は進む。楽しさ、哀しみ、怒りを携えて。揺らめく感情を胸に抱いて、手に取るように分かるようになったカケラの気配へ向かって、迷うこと無くまっすぐに進む。お目当ての彼は今までで一番に縮こまっていた。
「来てしまったんだね、茂夫」
「うん、来たよ。たくさん居る僕のうちの、一人の僕。君は一体誰なんだい?」
「僕? 僕は喜びさ。らしくないだろう」
「喜び」は吐き捨てるように言った。
「でも良かった、やっと僕の喜びに会えたんだ」
「こんなにボロボロの風体なのに?」
「ボロボロだって良い。君は僕の大切な喜びだ。そのことに変わりはないんだ」
「一度は僕を否定したくせに」
「それについては謝るよ。ごめん。……本当に、ごめんなさい。だからこれは僕のエゴだ。感情があるから苦しいこともある。情動があるから喜びが生まれるんだ。僕は感情を取り戻したい。和解をして今度こそ、喜びのある生き方がしたい」
「本当に、僕が戻って良いんだね?」
「うん」
「僕が戻ったら君のちいさな胸の内は溢れかえってしまうかも知れないけど」
「良いよ。それで良いんだ。だってそれが本来の、本当の僕なんだから」
「……分かった。それじゃあ、行くよ」
「うん、改めてよろしくね。僕の『喜び』」
茂夫は手のひらに「喜び」を乗せる。そうして胸にあてがって、受け入れた。

茂夫の胸のうちに溢れたのは喜び。だけではなかった。
それは確かに喜びであった。しかし哀しみでもある。苛立ちだ。しかも安らぎがある。憧れだ。そして怒りが、隠れている。
100%を超えた感情が、ちいさな胸に抱ききれなかった想いが淀み渦巻き、せめぎあい、いま、溢れようとする。心のダムはもはや決壊し、茂夫が漏れ出て止まらない。
「うあ……あ、あぁぁ、がぁ……」
力が、超能力が、茂夫から無意識に放電して周囲の枝に突き刺さる。揺さぶられてばらばらと葉が落ちる。エネルギーの圧に、自重を支えきれなくなって茂夫は地面に手を付き、膝をつく。感情が重たくて、濁流となって飲み込まれて、もう、ただの一歩だって歩みを進めることは叶わなかった。
「嫌だ、こんなところで……こんなことで終わるものか……! これは、僕の感情だ! 僕が抱えきれなくてどうする!」
茂夫は吠える。それでいて、胸の内に受け入れた感情たちを殺さないよう、懸命になだめながら。しかし動くことは出来ない。地面を掻いた爪先も、必死でもたげた首ももう、ピクリとも動かなかった。
そして。
「兄さん」
場違いな声がした。

「律、なの……どうして、ここに……」
なおも蹲りながら、茂夫は声を絞り出す。
「兄さん」
「来ちゃダメだ!」
「落ち着いて」
「お願いだ、律。離れて! 今の僕は何が出るかわからない!」
しかし律は無慈悲に、着実に、歩みを進める。
「律! ダメ! それ以上は……!」
「兄さん。僕には兄さんの闘いに踏み入る権利なんて無いのかも知れない。だけど」
「律!」
「今はもう、前の僕とは違うんだ」
そして律は茂夫を抱擁した。

奔放に疾駆していた火花が急速に収束して、律に取り込まれる。茂夫から溢れ出た力を、過剰なほどのエネルギーが律に吸い込まれていく。終わりの見えない放電と吸収。地を鳴らす轟音。引き裂くような閃光。
高エネルギーに拮抗したやり取りは、やがて吸収の勢いが強まり、火花のひと欠片も残さずに律の身体へと取り込まれ尽くして、ついには静寂が訪れた。
「律……?」
「もう、大丈夫だよ」
律は立ち上がる。立ち上るエネルギーに髪は立ちゆらめき、その目は爛々と輝く。極限まで力の満ち満ちたその状態。
それは律の、100%。
「律……」
茂夫も立ち上がる。同じく、滾々と湧き上がる力に髪をゆらめかせながら。張り詰めたエネルギーに瞳を赤赤と輝かせながら。
「僕は、兄さんと兄さんの間の問題に首を突っ込む権利はないのかも知れない。でも、今の僕は兄さんを助けることはできるから。そのために僕が居るんだから」
律はにっこりと笑った。
「遠慮なく僕を頼ってよ。兄さん」
「ありがとう律。本当に、ありがとう……」
「どういたしまして。……さあ、兄さん、先に進んで」
「律は? 律はどうするの」
「この先は兄さんの深淵だ。僕は他人だから、立ち入ることはできないよ。だからここで待ってる。だから、必ず、帰ってきて」
「そうか。分かった。それじゃあ行ってくるよ」
「うん。行ってらっしゃい」
律は笑顔で見送った。茂夫はそれに振り返り、振り返り手を振って応えた。

兄の姿が見えなくなると、律はガクリと膝を折った。上気した頬。昂ぶる鼓動。
それでいて、冷や汗が止まらなかった。
「っはあ、はあ……これが兄さんの『感情』の重さ、か……。これでもたった一握りだ。兄さんが抱えていたほんの、一部。今の僕にはここの辺りが限界なんだな……」
律は寝転がる。火照った身体を持て余して、地面の、ひんやりとした幽玄の樹木が心地よい。
「兄さん、上手くいくといいな」
額に手の甲を当て、微笑みを浮かべながら律は深く、休息した。

 

茂夫が歩みを進めるとやがて小さな水溜りに遭遇した。覗き込めば碧く澄み切っていて、底など見えはしない。だが、確かにある水底からの微かな声が、茂夫には聞こえていた。
助けて、助けて。と。
これがひとの心であるならば深さなど解らない。もちろん茂夫には選択肢など無かった。自分が沈めてしまった自分を見つけるため。茂夫は水溜りへ飛び込んだ。
深い心の底まで、息は持つだろうか。そんな心配すら茂夫はしていなかった。潜る、潜る。ただそれだけ。苦しくたって構わない。眩しい心の底を目指して、一直線に。泳ぎの得意でない茂夫だが、不思議とこの場所での進み方、所作はよく分かった。息苦しさに泡を吐く。もっと、もっと。まだ足りない。どれほど深くまで来たのだろう。耳鳴りがして鼻の奥がツーンと痛む。酸素の足りない肺が悲鳴を上げる。それにも構わず茂夫は潜る。
だってそのために来たのだから。

苦しさの限界を超えてなお、潜り続けていた茂夫の身体が突如、ふと軽くなる。降り立った場所には足が着いた。茂夫は気づく。
自分は今、息をしていない。
そこは何も無い空間だった。音も匂いも、色さえもが無い。ただ横たわるものがあった。
「来たんだね。モブ」
かけられた声は眼下より。羽毛と鱗に覆われて爪先には歪な鉤爪。虎柄の尻尾。幾分癒えた傷口からは黒黒とした液体がドクドクと流れ出て、液体は小さく茂夫の形を取り、やがて再び崩れては、消えていく。ある程度はひとの形を取り戻したその襤褸には茂夫の頭が付いていて、剥がれかけの顔で寂しそうに笑っていた。
「来たよ。茂夫。まずは謝らせて欲しい。本当に、ごめん」
茂夫は後退った。ほぼ機能を果たしていない脚で、ほんの少し。
「待って、行かないで」
「こんな姿だ。どうせどこへも行けやしないよ」
「なら、どうして」
「僕に必要とされていない僕だよ? そんな僕は必要ないんだ」
「そんなことはない! そんなことはないんだよ。そのことがようやく僕にも分かったんだ。僕という存在は、良いことも苦しいことも含めての僕なんだ。僕にだって感情があって情動がある。思い切り泣いて笑って、時には他人と比べて嫉妬したり落ち込んだりもするだろう。でもそれで良いんだ。それが、良いんだよ。だから僕は欲望する。茂夫のことを欲する。精一杯胸を張って、君と一緒に、茂夫と一緒に生きていきたいんだ」
「それはモブにとって、とても苦しい選択だ」
「その事は今回でよく分かったよ。いや、こんな事どころじゃなくって、この先の人生、もっともっと苦しくて辛くてどうしようもない、どうにもならない事があるだろうね。また嫌になってしまうことがあるかも知れない。でもそれ以上に、辛いから苦しいからこそ喜びがあるんだ。楽しさがあるんだ。哀しみや怒りだって立派な原動力だ。僕はそういった僕の感情を手放したくない。もう二度と、この手で捨てたりはしない。……だからお願いだ、茂夫。約束するから。これは僕のエゴだけれども。どうかまた僕と二人で生きてくれないか」
「二人で? 一緒にではなくて?」
「うん。僕ら、一度離れ離れになったから、無理に一つになる必要はないと思ったんだ。これが、今の僕だから。そんな在り方があったって良いんじゃないかな」
「……そうか、分かったよ、モブ。僕の方からも謝るよ。どうやら僕も焦りすぎていたみたいだ」
「うん、ゆっくりだ。ゆっくり行こう」
「不器用な僕だからね。僕らのペースで行こうか」
「本当に。早速また遠回りをしてしまったね」
「それじゃあ改めて。これからもよろしくね。影山茂夫」
「こちらこそよろしく。影山茂夫」
水底が溶け出す。樹木から溶け出た白く小さな破片たちが、幾人もの、無数の小さな茂夫たちが寄り集まる。小さな茂夫が茂夫にくっつき、ひっついて、茂夫の形が治っていく。茂夫がひとの形を、急速に取り戻していく。
「茂夫、無数の僕の感情たち。どうかこれからもよろしく」
「モブ。101人目の僕。これからも君と共に」
茂夫とモブは抱擁した。影山茂夫の寸分違わず等しい影と影は一つには合わさらずに、ふたつぶんの暖かな体温を分かち合った。

水底が崩壊する。樹皮が、枝が倒壊する。葉も千々に千切れて宙を舞う。全てが、白いとろとろとした欠片となって、影山茂夫に吸い込まれる。在るべき姿へ、戻っていく。
幽玄の樹木は音もなく、跡形もなく消え去った。だだっ広いだけの公園には秋の夜風が吹いていた。

 

「兄さん」
いつからぼんやりしていたのだろう。かけられたのは聞き慣れた声。産まれて初めて瞳を開くみたいにハッとする。
「律。まだ居てくれたんだね」
「だって。一緒に帰るために来たんだから。もう、素足で出かけるんだから……足、ボロボロじゃないか」
穏やかな微笑みを浮かべながら、律は小言を言う。
「あっ本当だ」
「本当だ、じゃないよ。ちゃんと気をつけてよね」
「へへ、失敬」
「はい靴。靴下も。持ってきたよ」
「ありがとう」
茂夫は足の裏の土を適当に払うと受け取った靴と靴下とを履いて、言った。
「じゃあ、一緒に帰ろうか」
「うん」
長夜もいつの間にやら空が白み、遠くで救急車のサイレンの音が聞こえていた。

エピローグ

「プロテインセットBお待たせしました!」
豆腐の鳥挽き肉あんかけとサラダチキンバーに部員特製力うどん、そしてプロテインシェイクヨーグルト味をのせた盆を運ぶ。
「すみません、注文お願いします」
「はーいただいま参ります」
引き止める客に、喫茶プロテインの店長、影山茂夫は笑顔で対応した。
「店長! プロテインが無くなりそうです」
「分かった。じゃあ谷口君、部室から持ってきてくれるかな」
「了解です!」
指名された二年谷口君はやや不格好なジョギングポーズで颯爽と駆けていく。
「店長! 筋肉が限界を迎えました! 誰かブース変わってもらえませんか」
「分かった、僕がやるよ」
そう言うと、茂夫は筋トレ体験ブースに入った。筋トレとは一口に言っても、ただ闇雲に重りを持ち上げればいいというものでもない。確実に効くための持ち方というものがある。それを指導して筋トレの喜び、楽しさを教えるのが今回の使命だ。
「担当変わりまして影山茂夫と言います。今回はどのようなメニューをお探しですか?」
「二の腕を引き締めたくって……」
「分かりました、それでは最適なダンベル上げをお教えしますね。まず使うのはこちらのダンベルです。水を入れたペットボトルでも代用できるので是非家でもやってみてください」
茂夫は流れるように説明する。後輩に教え慣れているのでこの辺りは完璧だ。
塩中学校文化祭。肉体改造部の出し物「喫茶プロテイン」は予想以上の大盛況だった。当然、副部長兼店長である茂夫は大忙し。だから後輩の女子から教えてもらうまでずっと働き詰めだった。
「影山先輩、もうシフト時間過ぎてますよ。クラスの出し物間に合うんですか?」
「ああ、しまった! 教えてくれてありがとう!」
茂夫は頭に巻いたバンダナを取りながら、染み付いたジョギングポーズで駆けていった。

 

カーテンコールが雷雨のように鳴り響く。最後に並んだ全出演者たちを、茂夫は照らし出す。茂夫のクラス演劇「オズの魔法使い」は終わった。誰にも見られることはない、喝采も脚光も浴びない教室の後ろで、茂夫は熱演した演者たちをいつまでも、いつまでも照らし出していた。

「『喫茶プロテイン』で少し話そうよ」
そう持ちかけてきたのは「オズの魔法使い」の監督だった。茂夫にはその真意が分からないまま、流されるように了承した。
「お疲れ様」
まずかけられたのはねぎらいの言葉だった。
「監督こそ。お疲れ様。みんなを取りまとめてくれて本当にありがとう」
監督はプロテインココア味、茂夫はプロテインミルク味を手に向かい合わせに座る。
「それじゃあ飲みますか」
「はい。劇、お疲れさまでした! かんぱーい」
「かんぱーい!」
二人はプラスチックの使い捨てコップをぶつけて、ぐいと一気に傾けた。
「ぷはあ! へえ、意外と美味しいもんなんだね」
「でしょ?」
「これも影山が考えたのか?」
「ううん。僕はミルク味しか飲まないから。飲み比べしてるグルメな後輩が居てね、その子がプロテインの美味しさを広めたいって提案したんだ」
「へえ、そうかそうか」
監督は満足そうにうんうんとうなずいた。
「影山、今回は本当にありがとうな」
「いやいや、僕は何もしてないよ」
「そんなことない。十分働いてくれたよ」
監督はコップをテーブルに置いた。
「俺はな、照明係は影山にするって決めていたんだ」
「え?」
「影山は、そりゃあ演技するってガラじゃないのは分かってた。広報もなしだ。大道具製作は……ぎりぎりありかな。でも照明係なら、バッチリ決めてくれると思ったんだ」
「どうして?」
「ううん、上手く言えないんだけどな。……真摯に劇に向き合ってくれそうだったから、かな。影山って何やるにも一生懸命に見えたからさ。ほら、照明係って劇の全体を見通しながらその時その時に当てるべきスポットライトを見極めなくちゃならないだろ。裏方だけど本当はすごく難しい役なんだ、照明って。だけど影山ならひたむきにやってくれると思ってた。影山ってすげー誠実なやつだと思うからさ。今日の照明、最高だったぜ」
「えっと、照れるな……ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方さ。改めて、ありがとう。お陰でいい舞台になったよ」
茂夫は頬を赤く染めながら頭をかく。こんなふうに面と向かって他人から評価を受けることなんてあっただろうか。照れ臭いが、決して悪い気分ではなかった。

茂夫のスマートフォンが鳴る。
「あっ」
「良いよ、気にしないで出て」
「うん、ちょっとごめんね」
茂夫は席を立つと、教室の外へと出る。改めて、明滅するスマートホンを見る。着信画面には「暗田トメ」と表示されていた。
「もしもし」
「もしもしモブ君? いま暇かしら」
「えっと、少しなら大丈夫です」
「もうすぐ霊幻さんの誕生日でしょ。だからちょっとした企画を考えているのだけど」
「いいですね。どんなのですか?」
「あらモブくんノリが良いじゃない。えっとね……」
ウキウキした暗田先輩の顔が、見えずともありありと瞼の裏に浮かぶ。
そう言えば秋も深まって、もうそんな時期だった。
茂夫は楽しそうな「企画」を聞きながら、自然と顔がほころんでいた。