誘い香

兄の匂いに魅せられて、体操着シャツを嗅いでいたらめでたくバレる律の話。
全年齢で性的描写の存在はなく律モブ、モブ律左右決めてないです。
性的描写の存在はありませんが普通にやましいです。

夢の中でネタ出ししていて、起きてから必死で書き起こした思い出のあるお話。

 

 

 

 

 玄関ドアの鍵が開けられるカチャリ、という軽い音がすると、律はくつろいでいたリビングから小走りで現場へ急行する。兄、茂夫がドアを開けると同時に、律は何でも無いような素振りで出迎える。
「おかえり、兄さん」
「ただいま」
「夜ご飯もう少しでできるみたいだよ」
 兄が体操着の入った巾着袋を床に置くと、すかさずそれを拾い集めて、続けて律は言う。
「今日はロールキャベツだって。後は煮込むだけみたいだから。着替えてきちゃったら」
「分かった、ありがとう」
 茂夫は応えながら、白スニーカーのつま先を揃えて廊下へと上がる。そんな様子を察してか、家の奥から母の、お兄ちゃんを甘やかさないの! という声が飛んでくる。
「それじゃ」
「うん」
 母の声は無視して、兄は自室へ、弟は洗濯機のある脱衣所へと急いだ。
 
 暗がりの脱衣所に電気をつけ、念入りに扉を締める。
 まず手を付けるのは、洗濯かごの中に放り込まれている今日一日分の家族全員の洗濯物だ。父の厚手のズボンはボタンやジッパーが引っかかったりしないように裏返す。母の物はブラジャーや傷つきやすいシャツなどは几帳面に種類別のネットに入れてある。そこに兄の部屋着やら家族分の下着や裏返した靴下などをぽいぽいと放り込む。

 そうして訪れるのは、お待ちかねの時間だ。
 先ほど兄から受け取った巾着袋を開く。まずは興味のない給食用のテーブルクロスは真っ先に洗濯機へ入れてしまう。
 兄は上半身に汗をかきやすく、下半身はそれほどでもないらしい。律と同じく、影山家の血筋かもしれない。そんなわけで、体操着のうちズボンの方は裏返して、でも腰回りのゴムだけは湿気っているのを、感触を楽しみながら洗濯機へ。そうして、メインディッシュの、体操着のシャツを取り出した。
 じっとり重い学校指定の白いシャツに思わず顔がほころぶ。今日は「当たり」の日だ。きっと筋トレよりも走り込みのような有酸素運動が多かったのだろう。たっぷりの汗を含んだとびきり極上であろう、宝物を持ち上げ、眺めて、律はシャツに顔を埋めた。
 まずは背中側を堪能する。上半身のうちでも特に背中の方が汗かきらしい。吸い込むにも布地が含む水分量が多すぎて息苦しさを感じるのもまた、愛おしい。新鮮な汗でまだ雑菌も繁殖していないのだろう、あっさりとした、ほぼ無臭のそれを堪能したら次は裏返して前側だ。
 こちらは首周りが最も水分を含み、下に行くに連れ乾いている。なので下から順に、舐めあげるように嗅ぐ。今日も転んでしまったらしい、見た目にはよく払ってあって土や砂は付いていないのだが。汗の塩っぱさよりも砂埃のザラザラした臭気が強い。転んでもまた立ち上がり、健気に走り始める姿が目に浮かぶと、じんわり胸が温かくなった。
 必ず最後と決めているのは、腋だ。腋臭の家系というわけではないが、やはり独特の強い臭気を放つので、最後にしないと他の匂いが解らなくなってしまうからだ。濃厚な、ねっとりとした、とまでは行かないが。あの淡白な顔立ちと色白の肌から想像するにはやや強めの、純水に栗の花のエキスを一滴だけ垂らしたような芳香で、肺胞の隅まで満たしきって恍惚と、ため息を付いた。
 日課の堪能を終え、律は人目を忍ぶように体操服をネットに入れ、洗剤と共に洗濯機に入れてスイッチを付けると、そそくさと脱衣所を後にした。
 
 この日課が始まったのは、兄が肉体改造部とかいうマッチョ集団に入り込んでからのことだ。きっかけは些細なもので、兄が持ち帰る体操着を含む巾着袋が何とも邪魔そうであったので。何の気無しに受け取って脱衣所に運んだ、初めての日のことだった。
 見た目の割にずっしりと重いそれを受け取った時は内心嫌だな、と思った。他人の汗なんて、兄弟のものであっても普通はあまり、喜ばしくないものだ。びちゃびちゃのそれを手にすると蒸散のせいでひやり、とした。気持ち悪い。それが真っ先に出た感想だ。
 しかし、ふと思い至ってしまった。その汗の量の割に思っていたほどの臭気は無い。最初の一歩は純粋な好奇心であった。体操服の上下のうち、特に重たいシャツを顔に近づける。やはり、臭いは無いように思える。もう少し、もう少し。ある所で鼻腔を掠めたのは、掠めるほどに香ったのは、実に薄っすらとした新鮮な汗の臭い。
 自分が汗でびしょ濡れになったときのそれに似ていて、でも不思議とより親しみを感じるような、優しさの滲む香りのような、気がした。
 もう少しだけ近くに、近くへ。その香りに、すっかり油断して理性が薄れてたのだろうか。気がつけば律は、兄の汗まみれのシャツに、びたりと顔を付けていた。

 当然のことながら、日によっては帰りのタイミングの関係で兄の香りにありつけないこと多い。だからといってものすごく気落ちするという程でもないのだが。
 しかしめでたく手に入った日にはもう、絶対に吸わずにはいられないほどに、癖になってしまっていた。

 その日はしとしと降りの雨だった。秋の初めは台風が多い。まだ本州には上陸していないというのに、大型だとか記録的だとか騒がれる台風に十二分に影響を受け、この雨降りということらしい。
 生徒会の議題も、明日は台風の直撃で休校になりそうだし急ぎの審議もないということで、返上して早々の解散となった。
 早く帰ってしまった日というのは、それはそれで手持ち無沙汰だ。取り立てて趣味もなく、差し迫った期限のあるやるべき物もない。明日は休校だろうし課題も特に残っていない。
 傘をさしても強い雨風で濡れてしまった学ランをハンガーにかけて吊るし、中に着ていたシャツも洗濯物置き場へ置き、着替えてしまえば本当にやることが無くなった。
 ベッドに寝転び目を閉じれば、耳に煩わしい雨音ばかりが聞こえてきて、次第に意識は落ちていった。

 起き上がったときには部屋はすっかり暗くなっていた。慌てて蛍光灯を灯して、時計を確認すると、数時間は眠ってしまっていたらしい。乱暴に目をこすって背筋を伸ばす。らしくない日もあるものだ。とりあえず、リビングの様子を確認しようかと階下に降りた。
 ちょうど一階へ降りた所でカチャリ、と音がする。律は考えもなしに、食事によだれを垂らした犬のように、条件反射で踵を返して玄関へと向かう。
 ドアが開き現れたのは。滴るほどにずぶ濡れになった、兄の姿だった。
「ただいま」
「うわ……おかえり。そんなに降ってたの?」
「うん……ちょっと、除霊の方も外だったから」
「タオル、持ってくるよ。廊下濡れちゃうから制服も脱いで、着替えも持ってこようか」
「助かるよ。ありがとう律」
 あの詐欺師め。こんな日まで兄さんをこき使いやがって。
 そんな怒りも一瞬で振りはらって、今はズブ濡れの兄を乾かすことに専念することとした。

 律の手渡したハンドタオルにより髪の毛から、スニーカーの中まで浸水したつま先までを拭い、Tシャツにスウェットを身にまとった茂夫はほこほことした顔でリビングへと向かった。ことを、律はしっかりと確認した。
「じゃあ、洗濯物全部貰っちゃうね」
 と、「独占宣言」をした律は、ウォッシャブルな学ランに靴下から、いつもの巾着袋まで。兄の汚れ物全てを抱えて今、洗濯機の目の前、脱衣所に居た。
 何となく緊張して、隅々までびしょ濡れの獲物たちに対峙する。シャツも靴下も、洗濯機へと入れる前に鼻を近づけてみるが、どれも生乾きの雑巾のような、黴の生えそうな臭気を放っており、とても良い匂いとは言い難い。
 すっかり気落ちしながらいつものお楽しみ、巾着袋へと手を付ける。袋自体もずぶ濡れ、中身も当然、雨がずっしりと染み込んでいて、いつもとは様相が違っている。あまり期待はせず、惰性でシャツに顔を埋めて、吸って、吐いて。そして律は、再び大きく、息を吸い込んだ。
 それは今まで嗅いだことのないマリアージュであった。じとじととした濃い雨の臭気の奥深くに、兄の、いつもの体臭がごくわずか、ぽつねんと隠れている。本当に兄の匂いがするのか、それとも嗅ぎなれすぎて幻臭がしているのかは分からない。その隠れ具合、密やかさに魅入られて律は目を閉じて神経を研ぎ澄ませ、深く、深く息を吸った。
「律」
 呼びかけられて律は文字通りに飛び上がった。
「ズボンにティッシュ入れっぱなしだったから出さなきゃと思って」
「あっあの、え。そう? あ、はは」
 真っ白になった頭から意味不明な返答を絞り出す。
「もう入れちゃった?」
 狼狽する律には目もくれず、茂夫は洗濯機をかき混ぜ、お目当てのズボンを取り出してポケットをひっくり返し「あ、あったあった」と、納得している。
「邪魔してごめんね」
「え……っと。ああ、うん」
 茂夫はそれじゃあ後はよろしく、とポーカーフェイスに薄っすら微笑みを滲ませる。何事もなかったとばかりにリビングへと帰っていった。

 兄は去り、白白とした脱衣所の扉を呆然と見つめる。
「う…………ぅぅ。っ、はぁ…………」
 律は叫ぶことも嘆くことも出来ず。ただ、その場に蹲り。涙のない嗚咽を漏らした。

 翌朝はずいぶん早くに母の一声で目が覚めた。
「律、学校から連絡網が来てたわ。休校ですって」
「ん……う、分かった……」
 自室までやってきた母に返事をしながら、律はベッドから重たい身体を起こした。屋内に居ながら、外では轟々と恐ろしげな音を立てて風が吹きすさぶのが聞こえてくる。ニュース番組の天気予報を見るまでもなく、これでは間違いなく休校であろう。
 となれば。やることは一つ。母が隣の部屋、もう一つの子供部屋を開け、同様にアナウンスするのを聞きながら、律は再びベッドに身を預け、惰眠を貪る選択をした。

 とは言え。身体に刻まれた体内時計は正確なもので。いつもの登校時間にはスッキリと目が覚めてしまっていた。やることもなく、しっかりお腹も空いており。仕方なしに律はリビングへ降りることとした。
 リビングには母の姿しかなく、折込チラシの整理をしながらソファで寛いでいる。
「あれ、母さんだけ?」
「お父さんも仕事休みで寝てるわ。シゲも寝てるみたいね」
「そう」
 律は避けたい人の居場所を認識して少し、ホッとして朝食のおかずを物色し始めた。
「卵焼きなら作ったけど。あとは冷凍にしてあるハンバーグがあるから温めたらどう?」
「はーい」
 母の教えに従い、律はキッチン台の端に置かれた粗熱が取れた頃の卵焼きをお盆に載せ、ハンバーグを取り出すべく冷凍庫を開いた。そこで、妙なものを見つける。
「ナポリタン味……?」
 どう見てもアイスのような包装を施されたそれには、でかでかと「ナポリタン味」の印字がしてあった。ナポリタン味とはつまり、スパゲッティのアレであろうか。まさか、そんなはずは。しかし、袋には丁寧にスパゲッティのイラストまで添えられていて。裏返して名称を確認すると確かに「氷菓」と記されている。
「スパゲッティナポリタン味の……アイス……」
 どうも頭の中で合致しない二つの要素に頭を悩ませながら律は一旦、冷凍庫を閉じた。
「母さん、誰か変なアイス買った?」
「知らないわよ。どうせお父さんでしょ」
「そう……」
 心構えをしてから再び冷凍庫を開ける。よく見ればナポリタンアイスは二つあった。と、言うことは。一つ拝借してもいいのだろうか。あまりにアンバランスな存在にすっかり好奇心がそそられている。
「えっ……律もそう言うの興味あるの?」
「いや……でも二つあるよ?」
「好きにしなさい」
 そっけない母親の声を聞きながら、律は心のうちで食後のデザートに決めていた。

 白米に卵焼き、数日前に冷凍にしていたハンバーグを温めて、昨日のおかずであったほうれん草の胡麻和えという、律の朝食は中々バランスの良いものになった。一人でごちそうさまでした、をして食器類を洗って干し、冷凍庫を開ける。
 ついにナポリタン味とご対面である。色とりどりに賑やかな包装を破くと、これはまた鮮やかなオレンジの棒アイスが出てきた。瞬間にもう、トマトソースのような臭いがした。色味としてはトマトのリコピンを感じる。実物を目の前にして尚、味の想像がまるでつかなかった。
 眺め回して、意を決して、齧る。かき氷のような軽い、粒氷が砕けるサクサクとした食感。それが溶け出すと、珍妙な味が口いっぱいに広がった。
「……?」
 混乱しながらもう一口、小さめに齧る。まずはピーマンのような苦い臭いが鼻から抜ける。口に含んで味わえば炒め玉ねぎの甘さもしっかりと感じる。中にはトマトゼリーなるものが入っていて、ぶにぶにとしており。甘いのに塩っぱい。食べるほどに混乱する味の不協和音。しかしそれはそれで、癖になるような。
 ソファに腰を落ち着けて神妙な顔で律はアイスを齧っていた。
「おはよう」
 そんな律に声をかける者が居た。
 寝起きで、黒い髪の毛にぴょこぴょこ寝癖を付けた、茂夫だった。
「お、おはよう」
 律は昨日の事件を思う。出来ることならば今、出くわしたくなかった相手だ。後ろめたさに胸を押しつぶされそうになりながら律は挨拶を返した。
「何それ。みかんアイス……?」
「だと良かったんだけど。聞いて、ナポリタン味だって」
「ナポリタン?」
「そう。スパゲッティの」
「スパゲッティナポリタン……」
 茂夫は直立不動にしばし固まり、そして言った。
「一口貰っても良い?」
「良いけど……うん、味はあんまり……」
 律は何故か申し訳無さそうにアイスを渡す。つもりだった。
 律がアイスバーを差し出すより先に、茂夫はにょっきと首を伸ばし、アイスを少し大口で齧った。
 迫り、そして去っていった兄の顔を認識して、無意識のうちに律は鼻孔を膨らませていた。
 家族共通のリンスインシャンプーの人工的なフローラルの匂いがする。さらに、嗅ぎなれてしまった兄自身の匂いは、したのだろうか。必死で拾おうとした兄の匂いはしかしすぐに、ナポリタンのトマト臭にかき消された。
「うーん。美味しくはない」
「だよね」
 茂夫は短い感想を言うと、朝食の準備をしにキッチンへと向かった。
 律は、残りを無心で口に突っ込んで無くしてしまうとハズレ棒をゴミ箱へ捨て、逃げるように自室へ帰った。

 自室で律は勉強机の前に座ると、深いため息を吐いた。あんなことがあったばかりだというのに。兄にすっかりバレてしまったと言うのに。
 無意識に兄の匂いを探している自身にすっかり嫌気が差していたのだ。
 外出も叶わず。さして広くもないひとつ屋根の下で兄から逃げ回る方法ばかりを、聡い頭は空回り気味に考え込み。風の煩い一日は過ぎていった。

 翌日は台風一過の晴天だった。雲ひとつ残さず洗い流された青空の元、律の気持ちは土砂降りに沈んでいた。
 きっと兄さんは、このような天気の良い日は外での筋トレや心肺機能向上に努めるはず。まだ暑さも続いている。絶好のお宝日和のはず。だった。
 少なくとも、二日前までは。
 何もかもが上の空、心ここにあらずの状態で学校生活は過ぎた。生徒会での審議ですら、自分の発言の番だというのに気づかずにぼんやりしていて。神室会長にはさも面白いといったように「影山くんでもそんなこと、あるんだねえ」と言われてしまい。生徒会室が笑いに包まれる一幕もあった。
 散々な気持ちで帰路につき、早々に自室に籠もった。集中もできない教科書とノートを広げて、決着の付け方の分からない気持ちとひたすら、闘った。
 そのうち、階下で鍵の開けられる音がする。ただいま、と言うのは兄の声だ。聞こえないふりをして身を固くし、教科書のページを捲った。
 やがて足音は二階へと登ってきて、あろうことか部屋の前で止まった。耳をふさいで体を丸めてしまいたい。穴があったら潜り込みたい。どうかそのまま通り過ぎてくれ。そんな願いの数々も虚しく、ノックの音が冷酷に響いた。
「……はい」
 返事する声は裏返っては居なかっただろうか。そんな余計な心配をしていた。
「律、入るよ」
 返ってきた声は何とも呑気なものだった。まだ制服姿の兄が部屋へ踏み込んでくる。もうやめてくれ。来ないでくれ。断罪から逃れるように身体を仰け反らせる律へお構いなしに茂夫は近づいてくる。
「はい。これ」
 そして手渡されたのは。
 体操着の入った、きっと兄の体臭をふんだんに含んだ、巾着袋であった。
「ひ、ぃ」
 喉が引き攣って悲鳴のような音が出た。
 動くこともままならず。目線だけで、伺うように兄を見る。いつもながらのことであるが、表情の薄い兄は、しかしわずかに微笑んですら居るようで。慈愛が感じられた。元よりそんな人間ではないので当然ではあるが、からかいや嘲りは一切含んでいない。
 聡いはずの律の脳は空回りに回った。
「……いつから、知ってたの」
「え?」
「いや……うん……。何でも、無いよ」
 結果、ひねり出したのはまるで意味のない質問であった。
 己の無力さをひりつくほどに痛感しながら、律は、兄直々のプレゼントを終に、受け取った。
 洗濯機へ運ぼうと自室を後にしようとした、律はしかし呼び止められる。
「ここで良いよ」
「ひっ」
 「何」を「良い」と言っているのか。分からない律ではなくて、瞬時に悲鳴を漏らした。
 信じがたい現実に直面しながら、自分のものではなくなったような身体は勝手に動き、兄の赦しを得て巾着袋の結び目を解く。

 いつにも増してぐっしょりと湿気を含んだ体操着だ。ズボンまで汗が染み込み、学校指定の赤は色濃くなっている。しかし、ズボンの方は臭気が少ないことを知っている。知っているが、その水分を、兄の努力の証は余すところなく堪能しなければならない。一番汗を吸った腰ゴムを揉み込むように水分を感じ取り、しかし放り込む洗濯機はここには無いので、何となくしわを伸ばして丁寧にたたみ直し、床に置く。
 その一挙手一投足を、つぶさに見つめててくる汗の主、最愛の兄の視線の熱さに火傷しそうである。
 チリチリと、心の底まで焼かれてしまいそうに思いながら、お待ちかねを取り出す。シャツを嗅ぐ時はまず、背中からと決めている。だが、絞れそうなほどに水気を含み過ぎていて正直、臭いを嗅ぐどころではなかった。それでも律は、シャツに顔を埋める。匂いというよりかはむしろ、この状況そのものに酔っ払ってしまったようだ。
 ひっくり返して前側も嗅ぐのも忘れない。今日は砂埃の匂いはしないようだ。転倒せずに走りきった兄を思って目頭が熱くなる。
 残りは。本人の目の前で腋、という箇所を嗅ぐのはいかがなものだろう。一瞬、そんな常識が過る。許されたくて、上げた視線の先で兄は、愛する弟の望むこと。求めること。全てを促すような瞳でじい、とこちらを見ている。
 良いのだ。これで、良いんだ。
 確信を持って律は、兄のシャツの腋に鼻を近づける。流石にこの汗の量だ。ほんの僅かな、アンモニア臭。そしてより近付けば、皮脂の甘さも感じるようだ。一息、またもう一息。完全に鼻を覆ってしまったら息ができなくなるほどの汗だから。ギリギリまで近付き堪能し、そして終えると、一つ大きくため息を吐いた。

 何だか燃え尽きたような心地でフローリング床にへたり込む。そんな、情けない弟を兄はやはり、慈愛の目で見つめるのであった。
「ありがとう、兄さん。……じゃあ、これ、洗濯機入れてくるから」
 そう言って、律は自室を後にしようとして、しかし立ち上がることは叶わなかった。
 茂夫は床に膝を付き、床に座る律に目線を合わせて。覆いかぶさってくるのだろうか? そのように錯覚したときには既に、背中に腕が回されていた。
「兄さ……?!」
 突然のことに理解は追いつかず、しかし鼻腔をくすぐるものがあった。
 まずは、家族共通のボディソープの石鹸臭。そして、家屋にまで染みる洗濯洗剤の香り。新鮮なかきたての汗の香り。それらの主張の裏にはまろやかな、乳の香の甘さのような、なにか優しい香りがする。
 それは今まで嗅ぎ慣れていたあらゆる兄の、所持物とも異なる。兄、そのものの香りだった。
 律は兄を抱きすくめて、うなじに顔を埋める。さらさらと今は乾いているそこも、つい先程までは汗でじっとり湿り気を帯びていたのだろうか。しかし汗の鋭さより、甘い、兄の匂いのほうが強かった。
 もっと。もっと嗅ぎたい。どうか、この香りに溺れてしまいたい。欲のままきつく抱き寄せたところで、待った、がかかった。
「り、つ。苦しいよ」
 苦しい。その言葉に過剰なほどに反応して、律は跳ねるように退いた。
「ご、ごめん、兄さん」
「ううん。大丈夫」
 我に返ってしまえば、何をしていたのかまるで分からない状況だった。急速に冷める熱。満潮のように戻ってきた理性は今、やるべきことを思い出させる。
「……じゃあ、洗濯機、入れてくる」
「うん。よろしく」
 今度こそ立ち上がった律は、几帳面に畳んだ宝物を拾い上げると、脱衣所へ向かった。

 後の日のことだ。
 自室で「やさしい入門腹筋と背筋の効率的トレーニング」を読みふけっていた茂夫は、ノックの音に顔を上げた。
「はあい」
「入るよ、兄さん」
 やってきたのは案の定、弟だ。今日もこれくらいに来ると、茂夫は思っていた。
「どうぞ」
 茂夫は両の腕を広げる。吸い込まれるように律は腕の中に収まり、茂夫を捕え、首元に顔を埋める。首元から顎骨、耳の後ろから後頭部まで伝う。
 首から上が終わったならば再び下方向へ、胸元を伝う。そして最後の仕上げは、わずかに兄の腕を持ち上げて、脇の下に潜り込み、大きく一つ。息を吸って、吐いた。
「ふふ……」
 くすぐったがる茂夫だが、嫌そうな素振りはまるでない。むしろこの新たな日課を、喜ばしく思って居るようですらあった。
「……ありがとう」
 とろんとした、うつろな目の弟の髪をくしゃくしゃと撫ぜて茂夫も言う。
「うん、また明日」
「おやすみ」
「おやすみ、律」
 律が去った部屋で茂夫は本を閉じる。もう夜も遅い。今日はこのくらいにしておこうか。歯も磨いたし後はもう布団を敷けば寝るだけだ。
 茂夫は部屋の隅から敷布団を引っ張って来て敷くと、部屋の明かりを消した。