R18 モブ律モブ同軸リバ
墓場と夏の終わり。
兄さんの精通。
* * *
九月第一週、土曜日。今日は新学期の日程を書き出してカレンダーにまとめ、新学期早々、目前に迫った文化祭準備に向けて生徒会メンバーへの仕事割り振りを計画する。
予定だった。
「ちょっとその辺、出かけようよ」
皿洗い当番をこなしながら兄は告げた。ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの、「ちょっと、そこの布巾を取って」くらいの気安さだった。正直なところ、逃れられることならば逃げたかったのが本音だ。だがしかし、兄の思惑には思い当たるところが有りすぎるほどに有って。でも、実際、何を考えているのやら想像はつかなくて。
元より、兄の誘いに勝る予定など滅多に、ほとんど無い律は、考えるよりもまず先に二つ返事で応じていた。
その行く先も知らぬままに。
1.
木陰の色濃く落ちたところにそのひとは居た。
目も眩む太陽からひっそりと逃れた、つめたい土と老木の根を分厚く覆う苔と、青く湿った空気と。そこに元より在ったひとかけらのように溶け込んでじっとしていたものだったから、その姿をようやく見つけた頃には下ろしたての半袖のカッターシャツが絞れそうなほどのずぶ濡れになっていた。
やや緊張した、よその敷居をまたぐような、改まった心持ちで木陰に踏み入る。揺らぎなくまっすぐ佇む背中の向こう、なにやら一心に見入っているらしい先を、身を乗り出して覗き込む。
はじめ、それは青白い光の球に見えた。薄暗がりにまだ慣れない目を細め、支えもなしに膝の高さほどで宙に浮かぶ、人の頭くらいの大きさをした仄明るいものを見つめるうち、どうやら生きたもののように蠢くことを発見する。
どうやら悪意はなさそうで。おおよそ事の次第を掴んでしまえば、勝ったのは好奇心であった。ややあって、塊はゆっくりと回転する。纏う光は糸を伸ばしてとろとろこぼれて、地表にはたどり着かず透けるように消えていった。それは蕾の花開くよう可憐にほどけ、ついに瓦解し、顕になったのは赤子の腕ほどの質量がどうやら、ふたつ。
青白くバラバラに波打つふたつがなおゆるゆるととぐろを巻いて、惜しみなくこぼした粘液を分ける様が、番う互いを慈しむように見えてしまうのは己の主観か。見惚れる部外者などつゆ知らず、程なくして、きっとこの世ならざる異形は縮こまり、日陰に穴を開けたような小さな闇の内へと消えて、夏の昼下がりだけが残されていた。
途端、気が遠のきそうなほどに木霊した耳鳴りは、降り注ぐ蝉しぐれ。やや遅れてざあざあと木の葉が擦れるのがいやに遠くのことのようだ。鼓動が耳の奥をどくどくと叩く。カラカラに乾いた喉を吐息が熱く焦げ付かせる。首筋を伝い落ちる汗粒を気怠い風が撫ぜてゆき、胸奥をひんやりと落ち着かせて心地よい。
────。
不意に聞こえた声は近すぎて聞き取れなかった。聞き取れずとも彼には分かる。親しみすぎるほどに親しんだ声が呼んだのは、彼の名前。
いつからこちらを見ていたのだろう。穏やかな兄の双眸は、ひた、とこちらを捉え、決して、外れない。
「もう始まるって。父さんが兄さんのこと呼んでたよ」
承った要件を簡潔に律は伝える。
律の兄、影山茂夫は「うん」とも「分かった」とも答えるでもない。のっそりと立ち上がり、黒いスラックスの裾をかるくはたくと一言、「行こうか」と言う。
振り返った茂夫はいつもと変わらずに、柔和に微笑んでいた。
おぼろげな記憶を頼りに無数にある墓石の合間を縫ってゆくと、程なくして見覚えのある面々を見つけることができた。御影石はすでに親戚の誰かが磨いたらしく、艶やかに水の膜を纏っている。影山家の墓は今年も変わらずひっそりと鎮座していた。
うちの倅です、そう言って父は兄弟を前へ押しやる。「こんにちは、お久しぶりです」
ほぼ無意識の挨拶を律が卒なく済ませ、次いでやや出遅れた茂夫もこんにちはと小さく頭を下げた。
来るぞ。そう構える間もなく、うんざりな大合唱が始まった。
──大きくなったわね。もう中学生かあ、制服よく似合ってるぞ。この前まであんなに小さかったのにねえ。さすがはお兄ちゃん、しっかりしてるな。あら、こちらが弟さん? まあそうなの、おりこうそうで将来が楽しみねえ。
律は愛想笑いを貼り付けて雑音を聞き流す。やり場のない目線を、人と人をすり抜け、隣の墓へ向ける。隣の仏花はしばらく前に供えられたらしい。爛熟し、開ききった花弁を散らし、敷石にへばり付いているのをぼんやりと眺めていた。
薄手の黒ワンピースを纏った初老の女性が線香に火を灯すと雑談もそこそこに止み、神妙な面持ちで各々、墓前に向かって手を合わせる。倣って手を合わせ、やや俯き。そして律は薄目を開けた。
誰も彼もが仏様など信じているわけでもないだろうに、一様に頭を垂れて先祖の墓に手を合わせる親戚と、無数に並べられた墓石。か細く昇る線香の煙。
そして幽霊にも満たないほどの、どこから個で、どこからが群であるかも分からない。雲のように掴みどころのない、数多の何か。
初めて目にするその光景が熱射の見せる陽炎の類や幻で無いことは律にも良く、分かっている。
左隣を盗み見る。瞳を閉じ、目を伏した兄の顔は凪いだ水面のように静かで、その心の内は伺い知れない。その様子を見てどこかほっとした律は生者に倣って神妙に、瞼を閉じた。
帰路は瞬く間に過ぎ去った。比喩では無い。慣れない日を過ごした二人は親戚への別れの挨拶もそこそこに、父の運転する自動車の後部座席へ乗り込んだ。あたりまでは覚えている。高速道のETC通過を告げる合成音声を夢うつつに聞いていた。
律がバック音に飛び起きたときには既に我が家の駐車場に到着しており、車庫入れの真っ最中であった。隣の兄は口の端によだれの跡を残し、片手で寝ぼけ眼をこしこしと擦っている。
「ふたりとも、よーく寝てたなあ!」
からから笑う父へ言い返す言葉も出てこない。律は心臓が粘ついた鼓動を打つのをこらえて、上の空に苦笑する。兄のもう一方の手は両親の座席シートの裏側で、律の指の一本一本をひしと絡めて捉えていた。
家に着くや否や、両親が夕餉と週末の買い出しへ腰も落ち着けぬまま出かけてくれたことは僥倖だった。
疲れただろう休んでなさいと、家に降ろされた兄弟は、各々に当てられた子供部屋のうち片一方へ、示し合わせていたかのように二人揃って入っていった。
一直線にキャビネットへと向かった律は、最下段の戸棚を開き迷いなく一番奥へと手を伸ばす。
部屋の主の数少ない蔵書の類。律も現在使用しているが、それよりも幾分か薄汚れた中学一年次の教科書だとか。通学カバンから直送で積み上げられたらしい、小中学生へと向けられた市主催の観劇会のお知らせ。危険ドラッグへの注意喚起だとか図書委員の読書週間啓発チラシ、とうに締め切った自由参加の夏季合宿。エトセトラ、エトセトラ。
雑多な紙ぺらの束を端へ寄せると、隠匿されたボトルへとようやく辿り着く。もし万が一、他の誰かに見られたのなら、薬品や石鹸の類に見間違えてもらえるだろうか。あまりらしくはない薄紫のラベルに覆われたそれを、キャップ部分を摘んで引っ張り上げると重たい液面がとぷり、と揺れた。
茂夫はシャツの胸ポケットを探る。家の鍵や自転車の鍵を括るリングに束ねられたうち、一番小さな鍵を取り出す。学習机の引き出し上段。部屋に唯一備えられた鍵穴へ差し込み軽くひねると、軽薄な音を立てて錠は外れた。小学校の入学祝いに学習机を買い与えられて以来、「めんどうだから」という至極単純な理由でアイデンティティを放棄されてきた小さな鍵が重役を与えられたのはつい、最近のこと。
念のため。せっかくあるのだから。とは、かしこくて頼れる弟の発案だった。
お目当ての小箱を取り出した茂夫が、さて律の方はと見やれば、未だ床にしゃがみこんだまま。ローションの容器を繰り返し、繰り返し、揺すっては遊んでいる。真っ直ぐな鼻梁の先にボトルを掲げ、骨ばった細い首に喉仏がうすく浮く。面をやや上げ、憂うように目を細める。
さもつまらなさそうにキャップをつままれ弄ばれるボトルは、カーテンの隙間から差し込んだ西日を透かしている。ほんのりとラベンダーに色づいた光の帯が、律のおでこで気怠そうにたぷたぷと揺られた。
知らない人みたいだ。
ふと、そう思った。
誰か、遠い人。例えば話すこともなく卒業を迎えそれきり会うこともないだろうクラスメイト。例えばそれは、夕暮れの雑踏ですれ違ってそれきりの誰か。広告のポートレイトにしゃきりとめかし込んで映るひと。あるいは名前も知らない知らない街に暮らすひと。
生涯、手の届くことのない、出会わずに終わるはずの遠い、誰か。
茂夫はしばし見惚れた。
らしくもなく戯れじみた空想に浸る兄を他所に、弟は一向に振り向く気配がない。
弟は、弟だった。
薄暗い茂夫の自室で、いつもの支度の途中でぼんやりしているのはまさしく弟で。律だ。
誰よりも近くて、よく知る兄弟。
我に返ったところの茂夫はまず、律でもこんなふうにぼんやりするんだな、と思う。だが次の瞬間には、これから為すことのために準備していたことを思い出し、握りしめていたコンドームの小箱をそぅ、と置く。影のように薄い気配をさらに意識して忍び寄り、無防備な背中へと急襲にかかった。
細身の体躯を不格好の羽交い締めに、腕の中へと捕らえる。律は落ち着き払った様子でん、とだけ鼻息を漏らした。まさぐった襟元はよほど暑かったのか、第二ボタンまではだけていて、湿った喉元にたやすく手を潜り込ませることが出来た。わずかに主張し始めた出っ張りを小動物でもあやすよう、指先だけでくるくるとくすぐってやる。
音もなく息を詰めたのをみとめると、戯れのような加減で顎先を辿り、やや角ばった形の良い顎骨を伝う。右の耳介の裏を通り遠回りにくるりと、一周。すべらせた指先をぽかりとひらけた穴へと挿し込んだ。
そうしながら、反対側の肩口を引き下げてあらわになった首筋へと顔を埋める。耳に障れば良いと、鼻息もわざと粗く、肺腑いっぱいに吸い込む。くふ、くふん、と音を立て、鼻腔を汗と、律の湿気た匂いで満たしながら、右の手では再び乾いた耳穴の外周をなぞる。やにわに挿し入れ、そっと抜いてはまた気まぐれにこしょこしょと、ひっかいて。
茂夫は手探りに弄びながら、今は視界の反対に有る、律の右耳のことを思い出そうとしていた。
いま、親指と人差指のあいだに捕まえたのは律の耳たぶ。大きく開けた耳のわりに小ぶりなそこは、薄いのに温か。挟めた指で溶かし崩してしまいそうと思うほどやわらかいのに、ほんの少し、指先に力を込めれば瑞々しい弾力が返ってくる。外周伝いにのぼって、こりこりとした芯に当たる。より薄く、硬い溝へ、中指の先で探ってゆく。
ここまで来て茂夫は迷子になってしまった。いつも見ている耳。帰り道のついさっきまで、すぐ隣にあった耳。指先で、舌先で。
幾度もかたちを確かめた、律の耳。
だのに仔細を思い出そうとした途端、上手く行かない。こんなだっただろうかと確かめるよう、茂夫の思っていたよりもいくぶん複雑な律の耳をなぞり、つまみ、引っ張ってみる。
律の耳はどこを触っても心地が良かった。いろんな表情を持っているのに、みぞの行き止まりも、こりこりとしたでっぱりも、さらさらな耳たぶも、ぜんぶが温かくって気持ち良い。思いつきでうらがわを指先で掻く。少し湿って、ぺたぺたと指に張り付いてきたそこは、舐めればきっと、甘いだろう。
律の耳も首も、匂いも味もさわり心地も体温も、頭のてっぺんからつま先まで、全てが大切だ。だのにこんな近く、これ以上ないくらいに律の背中にくっついても、全てをいっぺんに感じることが出来ないことがもどかしい。
茂夫が上の空の好き放題に耳を犯すのに興じ始めるころ、律の身体はすっかり力が抜けてしまってぐにゃぐにゃと折りたたまれ、ほとんど茂夫が覆いかぶさるようになっていた。
密着させた下腹には二人分のシャツ越しに高揚した体温と、指が動くのに合わせて弱々しい反応が返ってくるのが伝わってくる。埋めた頬を首筋にすりつけると、頸動脈は爆発しそうな鼓動に叩かれて、脆く崩れてしまいそう。
もう良いだろうと、襟首を取っ手に掴み唇をうん、と寄せて、りつ、と囁きを吹き込んだ。
──なに、考え事してたの?
下敷きにされた弟はびくり、と肩を跳ねてくれる。健気なおののきの余韻を逃さぬように、このまま蓋をしてしまうため、持てる体重全てを預ける。潰されるがまま為されるがまま。身を任せてくれるのを良いことに、フローリングへと抑えつけてゆく。
この弟は横柄にも思える扱いに憤慨するどころか、むしろ身を任せるのを好むらしい。幾度もの交わりの中でいつしか自然と、心得たことだった。
「少なくなってきちゃったから、今日の分。もつのかなって」
「あれ、ほんとうだ」
注文はしてあるよ。届くのは少し先かも。そう付け加える律をよそに、茂夫は記憶を辿る。新調してから期間はそう空いていないはずだ。そして、茂夫は思い当たるまま、そうか、と呟いた。
「前回使いすぎちゃったかな。回数も、多かったし」
短く爪を切りそろえた中指は耳孔をかぽかぽと犯す。分かりやすく熱を昇らせた耳たぶを、掌に包んで揉み込む。だのにあちらを向いた口から出てくる声は、微かに揺らいではいたけれど、凛と芯が通っている。
澄ましたふうに語るのをうん、と頷いて肯定する。
「……だから、足りなくなったら嫌だなあって」
「うん、今日はやりすぎないようにしよっか」
「そうじゃなくて! ……僕は、別に」
「だめだよ」
「こんなものなくたって」
「だめ」
茂夫はきっぱり言い切ると、律を残したまま起き上がる。床に散乱したコンドームを拾い集め、最後の一包を小箱に収めると、人差し指でぱちぱちと軽くはたいて端を揃える。そして敷かれ放しの待ちぼうけを食っていた布団の上へ、上がる。拗ねるよう突っ伏した律が目線だけで恨めしさを送り続けることに気付いているのか、いないのか。ゆったりと体育座りを作って声をかける。
「律を苦しめるようなことは出来ない。傷つけるようなことは出来ないよ。律も気持ちよくなってくれないなら、僕は嫌だから。律は無理してない?」
「無理なんてしてない」
返答は分かりきっていた。
「それとも、するのが嫌だった?」
「そんな! どうして。なんでそんなこと言うんだ」
「じゃあどうなの」
「どう、って」
「律はどう思ってるのか、ちゃんと聞いたことなかったなって。僕とこういうことして、律は気持ちいい?」
「き、気持ちいい、よ」
含むような物言いに、茂夫はいっそう優しく、そして容赦なく問を重ねる。
「だけ?」
「だけって」
「律の言葉で説明して。僕はちゃんと言ってもらわないと律のこと分かってあげられないから。律は僕とえっちするの、どう思ってるの」
「僕は……。兄さんが好き。兄さんとするのがいい。だから、」
無意味な問答だった。床に潰されたまま微動だにせず、自慢の優秀な弟は花丸満点を答える。絞り出されたその言葉は本心と寸分違わないだろうと、曲がりなりにも十余年兄弟をやってきた勘が告げていた。
そもそも、尋ねるまでもなく分かりきっていることだ。下らない心の隙間がほんの少し満たされると、ようやくのこと我がかわいい弟が不憫な姿で放置されていたことに思い当たった。
「律、こっちおいで」
「待って、先に服脱がないと。ほら兄さんも。皺にして怒られるよ」
「いいよ、まだ休みだし。ちょっとくらい平気だよ」
律はそれ以上言い返さない。しかし床に落とされたローションのボトルは律儀に拾い上げてずるずると、布団へ上がってきた。
「兄さんこそどう思っているの」
「僕は律としたいよ。律とだからしたい」
「兄さんは……、ずるいよ」
独り言のように言う。その刹那、軽やかに律は跳ねた。
俊敏な挙動に茂夫は当然のように反応できず、反応する気もさらさら無い。真正面から肩を狩られ、背中から布団へと押し倒される。どうするつもりかと見守っていれば、スラックスをもたげる勃ち上がりをゆるり、と扱かれた。知り過ぎたほどに加減を知り尽くした器用な細指に煽られてぞくぞくと腰が、揺れた。
「ずっと勃ってたくせに」
「へへ。バレてた?」
「散々押し付けておいてそれは無いだろ。それに、」
律は切れ長のまなこをいっそう引き絞り、薄っすら笑う。
「あのとき、興奮したでしょ」
あのとき、とはあの、昼間に木陰で見かけた奇妙な霊体の交合。なめくじのような、等しい形同士の、幻の交わりを目にした時のことだ。
図星だった。しかし茂夫には分かっていた。
あのとき興奮していたのは、弟の方もだった。執念深く獲物を捉える据わった瞳。興奮のあまり薄く開かれた唇でふうふうと息が漏れる。茂夫に限ってそんな弟を見逃すはずが無い。
だから茂夫は誘ったのだ。それなのに目の前の弟は不敵そうに笑ってくれる。
そのことがどうにも納得行かなくて、半開きの唇を八つ当たり気味に引きずり降ろし、舌を深々とねじ込んだ。
出し抜けの侵入者に驚いたのか、拒むように押し返されるのを完璧に無視して口蓋の裏側、ざりざりと出っ張ったよいところをさすってやればあっさりと根負けした律が、競うように入ってきた。
案外、僕と似てるな。悩ましげに歪む眉頭を見ながら茂夫は思う。薄い瞼はきつく閉ざされたまま、睫毛の先がふるふると羽ばたく。あ、律はかわいい。口内の感触にとろけ始めた思考の波間に分かりきったことが浮かんでは消える。逃したくない一心で、律の頬骨を掴む。抑えつけて、深く、より深い。律の中へと潜ってゆく。
戸惑うように蠢く舌の根をようやく捉えて、くすぐる。噴き出された甘い唾液は引力に従って茂夫の口腔にとろ、とろ、と注がれて、唇の端から零れていく。甘露の一滴が惜しくって、律の舌先を軽く食み、ちう、と音をさせて吸い付く。眉間の皺が羞恥にいっそう深く刻まれる。目尻にわずか、輝くものが浮かぶ。わずかな涙の雫さえ零すに任せるのがもったいなくて、添えた指先で塗り込める。
ふ、と律に手を払われた。引き抜かれた舌先からは融かした唾液が糸を引き、スラックスの黒い布地をより黒く染め、滲みていった。馬乗りに見下ろす眼はすっかり浮かされていて冷気を纏うかのようないつもの切れ味はまるで残されてはいない。てらてらと艶めく唇が袖口でもって乱暴に拭われてしまうのが、酷く惜しかった。
「兄さんこそ。僕が相手で苦しくなったりはしないの」
「苦しく? どうして? 僕は律が好きなのに。好きだからしてるんじゃないか。苦しくなんて、ならないよ」
苦しくない。苦しいことなんて、在るはずがない。律の言うことはときどきよく、難しい。
「じゃあ、兄さんにとって僕はいったい、何者なの」
「律は僕の弟だよ。大事な兄弟だ」
「今でもそう思ってくれるの」
「今も何も、いつだって、律は僕の大切な弟だよ。変わったことなんて何一つ、無いだろ」
諦めるよう視線を逸して、律は言う。
「あと……。その、する時には、ちゃんと……。こっち見ないでって言ってるよね?」
「なんで? ちゅうするときの律、すごくかわいいよ」
律は黙っていた。当たり前のことを当たり前に伝えただけなのに、曇り空の顔を、今にも泣き出しそうに歪ませていた。
茂夫は律の金釦へと手をかける。上から順にひとつ目、ふたつ目までを外したところで、自分で脱ぐと制止された。律はあっという間に上着をはだけ、内に着込んでいたカッターシャツへと手をかける。無駄な脂肪など一切なく、薄い筋肉に締まった腰と控えめに窪む臍とがりくねり、伸び上がり、あらわになる様に釘付けになる。律は茂夫から降り、ベルトをくつろげ、スラックスをさっさと抜き取ると床へと投げ捨てて布団に座りなおす。
やがて二人は、母が揃いで買ってくるおんなじ形の、色違いのブリーフ一枚で対峙する。
「律もちょっと勃ってるね」
「兄さんのせいだろ……!」
腿をやおら開かせ、覗き込んだ感想を述べると抗議の声が降ってくる。茂夫は腹ばいに伏せると律の股の間へ頭を割り込ませ、内腿に微かに浮く靭やかな筋を舌先でなぞり上げた。血の巡りまで透かせるような薄い皮膚をじりじりと、焦げ付かせるようねぶりながら片手では膝を押さえ、もう片手ではグレーの下着を半ば持ち上げて硬さを込めつつ有るものをいいこ、いいこ、と愛おしく撫で回す。
「……っ、んくぅ、ふ……ぅ……、んっ…………」
熱を孕む吐息が頭上を掠める。膝のわきから腿の付け根まで、丹念に舌先を往き来させると肌着を、存在を主張する性器ごと鷲掴みにして引っ張り上げる。局部のすぐ際、腿の付け根の柔肌を露出させると夢中になってむしゃぶりつく。興奮に湧くつばを垂らし、軽い口づけで塗り広げ、ぢゅう、とはしたない水音をさせて吸う。吸ったそばから慰めるようにちろちろと舐め取って、歯を立て、やわやわ齧る。火照る肉の甘さを楽しみながら握りしめた一物の、熟れつつある先っぽを親指と人差指とで捻り上げる。
「ヒ、アぁっ……!」
ついに甲高く嬌声が上がった。冷静で聡明な自慢の弟の理性のメッキがいよいよ剥がれ始めたのだ。きっと自分にしか聞かせることはないだろう、劣情の兆しに茂夫もまた、自身が血を集めて熱いほどに張り詰めるのを感じた。
逃げるように引かれた腰を抑えつけ、布に染みた先走りを塗り込めるよう捏ね回す。裏筋をつつ、となぞりながら下り、玉を込めた白い袋を掌で支える。はちきれんばかりに精を湛えて、性感に引き攣れる二つを揉みほぐす。蕩けそうな愛撫で甘やかしておいたくせに、不意に竿をつたって先端へと這わせ、亀頭をこりこりと捻りながら押し込める。
性器から脳天まで、一直線に駆け昇る悦楽の奔流に、律の腰が危うげに跳ねる。腰の跳ねるに合わせて、しとどに溢れた先走りが洗いざらしの男児下着に染みを広げて、茂夫の指を湿らせる。
「あっ、あっあ……やだ、にいさ……まって、ぁ、や……!」
「律、きもちい?」
「やだ、ヤだ」
「じゃあ止める?」
「や、ぁ、まだイきたくない…………!」
切羽詰まった呼びかけに顔を上げる。そこにあったのは、飢えた雄の形相だった。理知的に澄んだ瞳は今や情欲に燃やされて、目鼻の先にとびきり好物のごちそうを吊るされたけだもののように、獰猛な鈍い光を宿していた。
「なに? にぃさん?」
荒げた吐息は喉奥に淀み、低く唸る。愛おしい弟の欲望の眼差しをかけらも逃すまいと、真っ直ぐに見つめて続く言葉を待っていた。
「へぇ、ソッチのつもりだったんだ」
ずくり。
胎が震えるのを、確かに、茂夫は聞いた気がした。
そのつもりに、されてしまった。
律の肌着へ手をかければ待ちきれないと言わんばかりに腰が浮かされる。たっぷりと蜜を吸ったブリーフを剥ぎ取り、ぶるり、と律の自身が弾みをつけて飛び出す。敏感な粘膜は包皮をせり上げて半ば顕になり赤々とした頭を覗かせる。血液に膨れた鈴口はカウパーをてらてら零し、茂夫は思わず唾を飲む。雄の臭気を無遠慮に撒き散らすそれをうやうやしく含もうと、寄せた唇はしかしたどり着かず、つかえた胸には頑なな律の右腕が突き付けられていた。
「兄さんばっかり。……ずるい」
しかし落とされた言葉はあべこべに、おぼつかなかった。律はずいと身をかがめる。有無を言わさぬ強固さで「貸して」とだけ言い渡し、下着の前窓へと手を突っ込む。茂夫は思わず顔をしかめた。所作の乱暴さとは裏腹に弟の手のひらは張り詰める中心を、底なしに甘やかした。
「きもちいんだね」
平坦な律の声が刺さる。甘い痙攣に呑まれそうになりながら声のする方を伺う。
だが、それきりだった。唇はすでに伏せられて、引き寄せられるかのように、茂夫の先っぽを包んでいた。
吸い付かれ、享楽を引き摺り出されて、ため息が漏れる。律の肩にしがみつき、喉奥の行き止まりに感じ入る。安心な弟に身を委ね、自ら理性を手放した。
刹那のことだった。
「はッはっ、はぁ……ぁ、ああ……?」
猛りの中心がじんじんと痺れている。衝撃が駆け抜けていったとほぼ同時に眼下の弟は、ビクリと身体を震わせ、やがて決壊するように、むせ始めた。ようやく茂夫は悟る。どうやら自分は、粗相をしてしまったらしい。
「あ、あぁ……! ごめんね、律、その、漏らしちゃった、みたいで……はやく口、ゆすがないと」
「…………おめでとう、兄さん」
「え?」
げほげほと喉をひっくり返さんばかりの咳を慌てた様子でどうにか収め、息も絶え絶えの弟は疲労を滲ませながら笑っていた。茂夫はますます、混乱を極めた。
「ほら」
そう言って、律は両の手のひらで器を作り、自らの唾液を集め始めた。くつくつと喉を鳴らして、奥の奥から絞り出すように。
「……ほとんど飲んじゃったみたいだ」
「うそでしょ、汚いよ……」
「だから、違くてほら。ここ」
絶望的に沈みきった茂夫の目前に、律は手のひらに溜めたものを指先で小さく混ぜながら指し示す。そこには確かに、薄まって、混ざりかかった白い濁りがあった。
「精通、おめでとう」
促されるまま、茂夫は恐る恐る手を伸ばし、人差し指にすくい取ってまじまじと眺めてみる。
そうか。これが、精通。
認めてしまえば存外すとんと、腑に落ちた。
「だからって、飲まなくて良かったのに」
「いっつも汁は飲んでたから」
「それもそうか」
「苦くてちょっとびっくりした」
「やっぱり……ごめん」
茂夫に謝られることが耐え難い弟と、律への申し訳なさに混乱した兄との「ごめん」と「いいよ」の押し付け合いは収集が付かないまま、平行線をたどった。着地点を見失った頑固者同士の応酬は出発点をはるか後方に置き去りにした頃に、「ごめん、すごく眠いや」との茂夫の申出によりあっさりとお開きを迎えることとなる。
宣言するや否や限界突破し、ふらふらと危うい船を漕ぎ始めた茂夫へ今度こそ有無を言わさず部屋着を渡し、具合良く敷かれた布団に寝かしつける。引っ張り出されたままお役御免となった道具を片付け、床に脱ぎ捨ててあった制服を腕に取るとかすかに、線香の匂いがした。
2.
花沢輝気は苦笑していた。
彼に限って、わざわざ輝気を頼って来た時点で予め想定出来たことだった。
なぜならば。
あの彼が、これほどまでに取り乱すものなど、輝気は他に知らなかったのだから。
SNS通知に気づいた輝気はポップアップした珍しい差出人に目を丸くすることとなる。
──宿題 教えて ください
大急ぎで開くと表示されたのは、そんなたどたどしいメッセージ。ラストには目がバツなった青い顔のおまけ付きだ。彼が絵文字を選ぶ姿を想像してみたら本当に困り果てて慌てふためくときの顔がありありと目に浮かぶようだったから。あまり深く考えずに「いいよ!」と即答し、そのまま流れるようなタップ操作で「OK!」の文字を掲げて賑やかに踊るハゲチラカシモンキーのスタンプも送信した。かくして久方ぶりに彼を輝気の部屋へ招き入れる事となった。
さて、お茶とジュースはまだ残っていただろうか。牛乳は昨日買い足したから大丈夫なはず。あとは、座布団も用意しておこう。その前に掃除機かけも。
彼を招き入れるまでのタスクを一瞬のうちに脳内でリストアップし、スマホのディスプレイを切り、意気揚々と立ち上がった。
招き入れた影山茂夫は落ち込んでいた。
あの輝気が、華やかなスマイルで親友を歓迎しようとドアを開きかけたまま、固まるほどに、どん底の絶望。もらい落ち込みを慌てて振り払い、「とりあえず入ってよ」と促しながら輝気は内心、これは骨が折れそうだと冷や汗をかいた。
折りたたみ机を広げいざ尋常に茂夫と、茂夫の持参した難敵と対峙する。初めに取り出したるは英語のワークブック。次いでホチキス留めの数学プリントと理科と社会の教科書が飛び出す。殿を務めるは作文用紙。
即ち、ほぼ全科目。
想像されるデスマーチ。
まさかあの影山くんにこんな一面が? という驚き。
再び遠のきかけた平常心を取り戻すべく輝気はオレンジジュースをほんの少し含んで口の乾きを潤すと、恐る恐る尋ねた。
「……一応聞くけど、自由研究は終わってるのかい?」
「その辺りは終わらせてあるよ。あと、家庭科とポスターとか。出来てるかはよく分からないけど……」
「終わってるなら良かったじゃないか!」
そう、この際、中身は無視だ。どんな内容で仕上げたのか、友人としての興味が無いでもなかったが現在のミッションは終わらせることにある。
「じゃあ、これだけ済ませれば良いんだね?」
「うん。どうしても分からなくて……」
「よし、まずはやれるだけやってみようか」
半分は申し訳なさそうに縮こまる茂夫への慰め。もう半分は輝気自身への鼓舞だった。
一番やっかいそうな相手から手を付けることにする。
勿論、作文用紙だ。一度泥沼にはまり込めば時間をジリジリ削り取られると悪名高い。書きかけのそれらを手に取りざっと目を通す。一枚、二枚、と捲るにつれ、想像とは違った様子に、輝気は面食らった。400字詰の作文用紙は二枚と半ばを過ぎたところまで埋まっており、白紙で残る数行には幾度も書いては消しゴムのかけられた跡がくっきりと残されている。
その内容は。
「これは作文じゃないし、読書感想文……でもないね?」
曰く、それは社会科の宿題で。好きなニュースを選んで調べ、考えたことを書くとのことだった。上手いまとめが思いつかずに悩んでいたと相談を受け、輝気は再度、原稿用紙に目を滑らせる。
「地理の都市開発とか、理科とか……その辺り、かな」
本棚から教科書に資料集を数冊見繕い、心当たりのページを開いて茂夫に指し示す。資料集のまとめのページがそのまま使うことができそうで、真剣に見入っていた茂夫の顔がぱっと明るくなった。
幸先の良いスタートに輝気はひとまず、胸をなでおろした。
残りのオレンジュースを飲み干す。ぷは、と輝は息を吐き出して、水たまりとなったコップの跡に重ねて置くと、溶け残りの氷が涼しげに鳴った。
「もう殆ど終わりそうじゃないか」
「花沢くんのおかげだよ」
そう謙遜する茂夫を制止しながら、輝気はクッキーに手を伸ばす。
実際に輝気の仕事は殆ど残されていなかった。
ワークブックもプリントもほとんどが終わっており、残してあった僅かな問題を解く手伝いをするだけだった。教科書類は予習。読んで分からなかったという箇所を二人して、あれでもないこれでもないと言い合いながらスマホで検索を終えたところだった。
ほとんどお役御免となり暇を持て余した輝気は、茂夫が教科書のわずかな余白に大ぶりの文字でゆっくりと書き込みする様子を見守りながら茂夫の持参した茶菓子を楽しんでいた。
そう言えば。デスマーチに身構えるばかりすっかり忘れていた疑問をふと、場つなぎ程度の気持ちで口にする。
「意外だな。弟くんとは一緒に宿題やらないんだね」
「う、」
影山くんが凍った。輝気はそう錯覚した。
室温が3℃ほど落ち込んだかと思った。
その顔はついさっきに見覚えのある絶望顔で。おや、と輝気は考えた。よくよく考えなくとも、宿題を聞くだけだったのなら、わざわざ輝気を当たらなくても良かったことでは無いだろうか。
「その。僕で良かったら。……何かあったら相談に乗るよ」
精一杯に選んだ言葉のつもりだったが、却って逆効果だったらしい。今度は重力が、倍になったような気がする。鉛のように重い空気に耐えかねた輝気のトラウマが危うく蘇りかけた頃、ようやく茂夫はぽつりぽつりと、とても話しづらそうに語り始めた。
影山律は後悔している。
そんなつもりではなかったのだ。しかし、こんなつもりでなかった、が通じるならば後悔なんて存在し得ないのだ。
つい現実から目が逸れた。
改めて、現状に向き合う。兄の部屋は既にもぬけの殻だ。リビングには母さんだけ。トイレもキッチンも見て回り、信じられない思いで窓の外を覗くと、兄の自転車はもう無かった。
「律、宿題教えて」
「うん、これが終わったら。その辺で少し待ってて」
ノックなしに部屋に入ってきた兄へ、条件反射で気安く返事をした。机に向かう律の元へつかつかと兄は寄ってきた。そして机に手を乗せながら、何してるの、と無邪気に覗き込んだ。
これがいけなかった。何してるの。語尾にやや遅れて届いた兄の吐息が、あたたかなそよ風が、律の耳を灼いた。耳奥に反響した兄の声が脳の奥まで延焼する。聞き慣れたはずの声に、喉が詰まる。じゅ、と唾液が湧いて想起された息苦しさは、それはつい昨日の。
咳をしてもうがいをしても。わき続けるつばきをいくら飲み込んだって纏わり付いてこびりついたままだった、生のままの、兄の。
「ごめん! やっぱり、今日は無理だ」
「え? 分かった、けど。どうしたの急に、」
「いいから! 今は一人にして。……出ていって、ほっといてよ」
目も向けずに、追い出したのがついさっき。自棄になって叫んだ後で、しまった、と恐る恐る顔上げた時には部屋のドアがゆっくりと閉められるところであった。
胸の奥は冷え冷えと後悔に満たされているのに乱れて打つ心臓が苦しくて、身体がバラバラになってしまったみたいだった。落ち着きたくて大きく深呼吸を繰りかえす。焦るほどに言うことを聞かない身体は、今度は酸素に溺れかけげほげほと咳き込んでしまう。
すぐに追いかけなくちゃいけない。なのに思い通りにならない身体が憎らしくて。律は自身の内でもがき苦みながら、意識の彼方に家の玄関が施錠される音を聞いた気がした。
「同じことを弟くんにも話してみたらどうだろう」
一通り、茂夫が話し終えたらしいのを見計らい花沢輝気は苦笑しながら一言、アドバイスした。
「でも律は、一人にしてくれって言うんだ」
思いつめたように茂夫は言う。話しながら、茂夫はじりじりと、書き込みを進めていく。
「影山くんは、弟くんがどうしてキミを避けるのか、原因に思い当たることは無いんだろう?」
「う。確かに、避けられては、いるけれど……はっきり言われると……。原因か、うん。無いかな。特に。だから、どうしたら良いのか分からないんだ」
「らしくないじゃないか」
「律が、今日はほっといてくれって言ったんだ。無理に聞き出そうとするのも悪いかも知れないだろ」
茂夫は語気を強める茂夫を前に輝気は思案した。
なるほど。
「やっぱり、らしくない」
そしてばっさりと、切り捨てた。顔を上げた茂夫の瞳孔がきゅ、と小さくなったのを真っ向に受け止めながら輝気は続けた。
「キミも、随分と変わったから。僕は、どんどん先に進んでしまう影山くんはやっぱりすごいと思ってるよ」
おかげでぜんぜん追いつけやしないよ、と。輝気は整った目尻をくしゃりと歪めて少し、笑った。
「僕が思うには。弟くんを大事にしたくて、だから考えすぎているんだ」
「当たり前じゃないか」
「だからさ。もう一度、キミらしさに立ち返ってみたらどうだろう」
「僕、らしさ?」
「僕に話したみたいでいいんだよ。キミはいつも、どんな時だって、キミの思うことを恐れず素直に話してくれただろ。だからみんなだって、君みたいに素直に強くなれるんだ」
「でも、どうやって」
「僕に話したみたいで良いんだよ。君たちが仲良いのはよく知ってるつもりだけど。兄弟だってちゃんと話をしなきゃ、意外と知ってるようで知らないことって出てくるんじゃないかな。……違うな。むしろ兄弟だから、かな。たまには場所を変えたりして、二人でじっくり話すためだけの時間とか作ってみたらどうだろう。例えばほら、今みたいにさ」
まあ、僕が言うのも野暮かもしれないけれどね。僕は一人暮らしの一人っ子だし。と、付け足しながら輝気ははにかんだ。
茂夫は、鉛筆に付いた消しゴムを唇に当てて、くるくると回した。
「……そうだ。やっぱり花沢くんに相談してよかった」
そしておもむろに書きかけの教科書を閉じ、帰り支度を初めた。嫌に納得した様子で、行動の素早い茂夫にややたじろぎながら、輝気は尋ねる。
「これで、宿題は片付きそうかい?」
「うん、やるだけやってみるよ」
やたらと嬉しそうにありがとう、と言いながらもう気が早くも腰を浮かせている茂夫は迷いのない、輝気の知る、強い影山くんそのもので。
これで良かったんだろうか。
まあ、良いのだろう。
何があったって影山くんだったならきっと、上手くやるだろうし。
そう思うより他にない、輝気であった。
3.
開け放しの車窓から効きすぎなくらいの冷房と引き換えに、生暖かい外気が吹き込む。目の覚めるような磯の香りを孕んだ風が鼻奥をくすぐり、随分遠くまで来てしまったことを悟る。見知らぬ町の家屋が、畑が、やって来ては去ってゆき、残像を残しながら防風林が駆け足に走り抜け、次に視界の開けた時には蒼い海がのっぺりと広がっていた。
「ちょっとその辺、出かけようよ」
唐突な提案に、確かに律は、二つ返事で応じた。しかしこれは。少なくとも律にとっての「ちょっと」「その辺」の範疇ではなかった。
その辺、と濁した割には兄の足取りは確固たるものであった。
住宅街を抜けて繁華街を突き進み、まっすぐ駅にたどり着くと兄の用意した切符を手に握らされていて。あれよという間に改札を抜け、電車に延々、揺られていた。
ほら見て、電線に鳥がいっぱい並んでる、だとか。あんな形の屋根見たこと無いね、どんな部屋があるんだろう、だとか。兄は他愛のない話をいやに饒舌に振ってくる。気まずくて、それどころでない律はああ、とか、うんそうだね、だとかを交互に繰り返すばかりだ。レパートリーに乏しい二人のお喋りが止むのは時間の問題だった。
海無し県の味玉を経って数時間。いつの間にか県境まで超え、やってきたのは埋立地沿いの公園だった。
「最近、ここに水族館ができたんだって」
カイヒンコウエンのサイカイハツで出来たことを新聞で読んだのだと誇らしげに言いながら、茂夫は掲示板とにらめっこしている。真新しい地図にはイルカのキャラクターがでかでかと描かれていた。
駅構内の渡り廊下を進み「公園水族館この先50m」の看板で角を曲がるとすぐ、水族館はあった。無機質な白色のLEDが目に滲みた駅から一転、わずかな電球ととブラックライトが床をかすかに照らしており、海藻を模した巨大な門が吹き抜けに高々聳えている。本格的な水族館が現れて少し、興味がそそられたことは、間違いではない。
水族館なんて来たのはいつぶりのことだろう。確か、小学生の遠足が最後だったか。たまに家族で出かけたことも有った気がする。いつのまにか縁遠くなっていた水の生き物たちの宝庫は、視界いっぱいの巨大水槽で兄弟を迎え入れた。イワシの大群が鱗をきらめかせて渦を巻き、巨大なエイが悠々と空を舞う。岩陰では色も形もとりどりの魚たちが顔を出しては去ってゆく。ここまでのは、初めて見たかも知れないと律は感動を覚えていた。
「ほら、あの辺り、あんなのも居るんだね」
茂夫が指差す。
水面を見上げて、律は固まった。念の為、掲示にざっと目を通す。ゆったりと身の表面を波打たせ、浮かぶように泳ぐいきもの。丸みを帯びた胴体から長く触手のような突起を進行方向とてんでばらばらに、だらりと脱力させている独特のシルエット。到底魚とは思えない、かつて見てきたどんな生物とも結びつかない、それの正体。じっとねめつけるように観察していると、大きなウミガメが実体を持たないそれの真ん中を突っ切っていった。
「兄さん、それは違うやつだ」
声を潜めて伝える。意図するところは伝わったのか、茂夫はハッとした顔を見せ、それ以上、それには触れず水槽へと視線を戻しどこを見るでもない様子でぼうっと眺めていた。
「律、次はどこへ行こうか」
海浜公園のベンチに腰掛け、茂夫はパンフレットを広げている。
水族館を一周、見て回って出てきても、意外と時間はお昼どきをやや過ぎたくらいだった。イルカやアザラシのショーも見なかったからかも知れない。それか、薄暗いところにいると時間が遅く感じるのか。イルカのキャラクターに見送られながら駅とは反対の出口から出ると、しばらく目がくらむほど眩しかった。
「別に、どこでも良いよ」
ぶっきらぼうに律は答えた。
確かに、きれいな公園だ。手入れの行き届いた芝生が青々と敷きつめられていて、日が照っているのにいくぶんか涼しく感じる。レジャーシートを広げて寝そべっている人もいる。レトリバーと散歩する女性が通り過ぎて、海を見る。海は広い。鉄の手すり越しに水平線がべったりと続いている。遠くに見える船は商船か観光船か、区別する知識は持ち合わせて居なかったが近くで見ればきっと、笑ってしまうくらい大きいんだろう。
「向こうのビルにお店が色々はいってるみたいだ。ナップザック買い替えたいって言ってたよね。あとで見に行ってみようか」
「別に今日じゃなくてもいいよ」
平和な昼下がりのレジャースポットに兄と二人。こういうのは良い休日と言うのだろう。しかし律は気が気でなかった。
言わなくてはならないことが有るはずだった。ただ一言、謝れば良いとも思えなくて、自分ですら決着の付けられていない情動の正体が分からない。世話を焼きたがる兄がうっとおしくすら思えてきて、心の整理が付けられない。
「ここの公園、奥の方に噴水もあるって。もう少し休んだら散歩しに――」
「いい加減にしろよ!」
律は叫んでいた。
ジョギング中のおじさんが驚いて一瞬こちらを見た。何よりも叫んだ本人が一番に、驚いていた。自身が、よりによって兄に対して、こんな短気を起こしたことは一度もなかった。
また、やってしまった。
この所の僕はこんなのばかりだ。自己嫌悪で胸が真っ黒に塗りつぶされる。自分が自分でなくなったように身も、心もコントロールが効かない。泣き出したくて手足を思い切り投げ出して暴れたくて、でもそのどちらも叶わない。理性の働くところの律は自身の中に答えを見つられないままこわごわ、兄を伺った。
だが兄はいつも通り、柔和に笑っていた。心なしか、嬉しそうですらあった。
「律」
名前を呼ぶ。茂夫は、改めてその名をなじませるよう、すう、と息を吸って、吐いて。
「一度、きちんと話をしたくて。だから律と二人で、兄弟だけの時間を取りたくて」
海原の彼方から汽笛が響く。汽笛の主は水平線の向こう側へ見えなくなっていることに律は気付かない。
「やっとぶつかってきてくれた」
それはもう、嬉しそうに、茂夫はクシャクシャに笑っていた。
「にいさん、言いたいことがあって」
「うん」
「こないだは、宿題のこと。僕もなんであんなになったのか分からなくて」
「うん」
茂夫はとろけるようなうん、で促す。
「兄さんを傷つけたかったわけでもなくて、そんなつもりじゃなかったんだ。でも、なんだか違和感があって、苦しくて、」
促されて律は、いたずらを告白する子供みたいな気分になっていた。どうにかしなくちゃいけないことは分かるのに、一度ぶつけてしまった言葉と態度はもう元には戻らなくて、どうして良いのか分からない。
「僕の方こそ、ごめん」
なのに。繋がらない言葉を吐き続ける律を遮って、兄は謝った。
「悪いのは僕の方だ」
「そうじゃない」
「だって僕が、にいさんを」
「律、ちゃんと聞いて」
律は、黙った。聞き分けよく弟がこちらを向いたのを認めて、茂夫は話し始めた。
「きっと、僕らはもっと、話をするべきなのかも知れないね。律が何を思ったのか、僕にもわからないけれど……。でも分からないことだって含めてもっと話をして、いいのかも知れない」
律は黙って聞いていた。兄の言うことは要を得ない。それでもじっと、続く言葉を聞いていた。
「分からないこととか、嫌な気持ちとか。そういうのももっと話してぶつけ合って。ぶつけられる覚悟もして。僕たちはそういうことをずっとしないでいたから。だから謝らせてほしいんだ」
茂夫は律を見る。
「ごめんね、律」
「……うん。こっちこそ、ごめん。兄さん」
律は兄の言葉を咀嚼していた。ぶつ切れの言葉を拾い集めて、反芻して、全てがすっきりと理解できたわけではなかったが、きっと正解だろうという言葉を選んだ。
「あっ!」
なのに、突拍子もなく茂夫は叫んだ。先程まで覚悟だとか、色々と言っていたくせにおずおずと言った風に伺ってくる。
「もしかして。……やっぱり怒ってる?」
「何を?」
「えっと。いきなり飲ませちゃった。こと」
ぶふふ。
間の抜けた音に驚き茂夫が唖然とする。目が点になった茂夫をよそに、律は身体をくの字に曲げてぴくぴくと痙攣を始める。やがてがくがくと胸を揺らして、腹を抱えて笑い始めた。
「ひひ……、まさか兄さんがそんなこと気にしてたなんて……ははは……」
「そんなこと、って」
む、と不愉快そうな顔をした茂夫を見て、律は笑いをぶり返したらしく、またひくひくと肩を揺らせた。
「そんなことは、気にしてないけど」
「けど?」
「けど……そうか、そういう事かもしれない」
ひいひい笑って、笑い終えて律はしんみりと、独り言のように続けた。
「兄さんが、出るようになったのがなんだか寂しいような変な気分というか、そういう、嫌な感情かと思ってたけど」
「律なんてとっくに来てたくせに」
ぷうと頬をふくらませる茂夫を律は無視する。
「でも逆だ。僕の気持ちを置いて当然、兄さんは成長するし。ままならないこととか一緒じゃなくなっていくこととか、そういうことも嬉しかったから、嬉しすぎて混乱したのかも知れない」
「……やめろよ、こんな所でそんなこと言うの」
「あ、外だった。ごめん、うっかりしてた」
「我慢ができなくなる」
言葉に出すまでもなく、茂夫の瞳は既に律を狩っていた。
「汚いよ? いいの?」
からかう律には返事をせず、ずんずんと茂夫は歩いている。律だって歩みを緩めるつもりはない。公園の一番端、周りの建物も殆ど無い海際に立てられた小さな小屋。二人で照らし合わせた地図の通り、人気のないそれはあった。
「持ってたんだ」
「必要だっていうから、兄さんと一緒のときは一応持ち歩いてるよ」
律は嫌味ったらしく言ってみる。コンドームだけ取り出して、ナップザックは扉のフックに掛けた。
「で? どっちやるの?」
「……挿れる」
茂夫はひったくるように袋を奪い、チノパンからもそもそと自身のものを探り始めた。
「待って、それじゃ付けられないから」
律はコンドームを取り返すとトイレットペーパーホルダーの上に置いた。
「まだ、ふにゃふにゃじゃん」
「律だって勃ちきらないで付けてるじゃないか」
「それは……だって、付くから……」
言葉を濁しながら、律はズボン越しにものを撫で擦る。狭い個室だから、身体を捕らえることもたやすくて、便器の後ろ側、パイプとの隙間に兄の細身を追い込んで身体をピッタリと密着させる。慣れない態勢で奉仕を受ける兄がピクピクと反応するさまが直に伝わってきて、律は最高に興奮していた。
「ぁ……や……、ねえ、そろそろ、付けるから」
そう言いながら茂夫は律の身の隙間から腕を伸ばしてコンドームを入手する。
「あ、まだだって」
「もういける」
揉み合いながら強引に袋を破ろうとした、その時。ぱちん、と嫌な音が響いた。固まる茂夫が恐る恐る掌を開くと、真っ二つに避けたゴムの残骸が有った。
「あの、二枚目……」
「まさか本当にすると思ってなかったし、一枚しか持ってきてないよ」
茂夫は悲しげにじい、と律を見つめ、やがて、だんだんと腹が立ってきたのか、腹を立てられる筋合いは律には無いのだが、むっすりとむくれていた。そんな表情の移り変わりを目と鼻の先に愉しんでいると、一瞬、視界から兄が消えた
「ひゃ、」
「実は耳、好きだよね」
耳元で囁きこまれて、しかし自ら追い込んだ僅かな隙間に身動きが取れず、律はいやいやと仰け反った。
「囁くの止めてって」
「だって大声、出せないじゃん」
どこを見ても狭い個室と、兄の顔。兄の体温が近くて、無遠慮な海風にひゅうひゅう吹かれる尻ぺたが心もとなくて。小箱ほどの空間に異様な期待が満ち満ちる。身を捩り、絡みつかせて、逃れて。隙間での攻防を制して律は再び、兄を壁に組み伏せた。
「ねえ、もたもたするなら。僕が挿れたいんだけど」
仕返しとばかりに耳元へ、脅しつけるように言う。
「でも、ゴムもないし」
「良いじゃん、こないだやり損ねたんだし」
「そういう問題じゃ」
「良いでしょ」
兄弟は黙った。潤んだ瞳と瞳が、ぶつかりそうなほどせめぎあう。外気に通じた個室トイレは、しかし成長ざかりの身体を二つ、目いっぱいに詰め込んで蒸し暑い。顎を伝って流れ落ちる汗だけが、動いている。熱気の小箱に浸けられた彼らに選択の余地は無かった。
「腰、痛くない? 大丈夫?」
「ん、なんとか……」
降ろした便座を椅子代わりに座り込んだ兄へ向かう。脚を広げようともぞもぞと落ち着かない様子で居る首筋を汗がつたい落ちていた。
「すごい、速いね」
手持ち無沙汰に首筋に手を這わせて律はつぶやく。どくどくと兄の命が脈打つのをてのひらいっぱいに掌握する。
「暑いからね」
そう言って兄は、おいで、とばかりに両腕を広げた。
首筋を掴んだまま、律は自身を、兄の中心へうずめる。直に触れる粘膜がビリビリと痺れるようで、じっくり、時間をかけて、まるでまだ慣れていなかった頃のように丁寧に腰を落とす。てのひらの中では筋肉と脈動とがばらばらの生き物見たくビクビクと暴れている。根本まで差し込んで律はふうー、と大きく息を吐ききって、初めて息を止めていたことを知った。
同じくして、茂夫の身体も脱力する。中はやわやわと意志なく律の肉棒を食みながら、命のリズムは乱れることなくとくとくと刻まれている。貴い振動を身に感じながら律はふと、思いついてしまった。
「兄さん、知ってる?」
「んぅ……、なに?」
「最中に、首の動脈抑えるとすっごく気持ちいいって」
律は動いた。唐突すぎる提案にきっと兄は理解していない。答えを待つつもりもなく、脈をその指で締め付けた。
まずはほんの、数秒だけ。はやる自身の鼓動を叱りつけながら、三秒、抑え浸けてみる。苦しそうな様子はない。何をされているのかすらわからないと言ったようできょときょととしている。次はもう少し、長くする。把握できない状況ながら生理的に危機を感じたらしい茂夫がびく、と身体ごと跳ねたので、落ち着いて押さえつけ、時間が来たので手を離す。
「どう、兄さん。気分悪くなったりしない」
茂夫は顔に真っ赤に血を上らせながら素直に、こくこくとうなずいた。身体が跳ねたのは本当に、単に反射的なものらしい。困惑と、期待とがないまぜになりながら、あくまで信用している弟へ、身を委ねるつもりらしかった。
「それじゃあ動くよ」
ここまで来て、もう焦らしは要らない。真っ先に、茂夫の一番、良いところをごしごしと穿つ。たまらずに揺れる腰を嬉しそうに横目に見ながら、細い首を締め付けた。
数える時間が永遠に感じられる。一秒、二秒、三秒。変化はない。か細い喘ぎが食いしばった歯の隙間から漏れている。聞こえないふり。兄の顔が真っ赤に熟れる。どくどくと、耳の中で鳴るような心臓の音は果たしてどちらのものだろう。とろけそうな中を、攻める。そして、ついに。
「ひっ?!!! あ!! あぁーーっ! ひぃ、い、ぃあっ!」
攣れるような呼吸と、決壊した喘ぎが収まらない。見たこともない兄の姿に恐れをなして律は手を離した。
ぜひゅ、ひゅうと掠れた呼吸が喉笛を鳴らして、目の焦点は定まらない。焦点の定まらぬ目から、律は逃れることが出来なかった。
「に、にいさん、大丈夫だった……? やりすぎたかも、ごめん、気分が悪くなったりとか」
「言ったでしょ」
「えっ」
トロンとした、据わった目を妖しく揺らし、突きつける。
「ちゃんと、言いたいことがあったら、言うから。だから、ねえ、……良いよ、続けて。今の、もっかい」
「良いけど……、頼むから声だけは抑えてね」
「うん」
「ねえにいさん、ほんとうに分かってる?」
「うん、」
「ここ、外だから。僕らの他にも誰か居るかも知れないし」
「うん」
うん、を繰り返す茂夫の手はいつの間にか、律の首にかけられている。急所をその手に捉えながら弟を害する気持ちは、さらさらない。食い込みもせず、撫でるように這わされたその手の感触にしかし弟は確信する。
何があっても僕らはこうして、ずっと、繋ぎ留めあうんだ。まして逃れることなど、到底できはしないだろう、と。
*繋ぎ、留めずとも
文化祭を前日に控え、校舎は浮足立っていた。剣士の格好をした男子が二人、大ぶりのパネルでチャンバラしながら廊下の向こうより走ってくる。スイングで迫り来るパネルを間一髪で避け、ホッとしたところに、彼らの後ろから怒号が響く。色とりどりの模造紙を両腕いっぱいに抱えた女子はセーラー服に黒のマントを纏っている。あのクラスの出し物は演劇だろうか。気合の入る彼らは1‐2の教室に弾丸のように飛び込んでいった。
目的の教室には長蛇の列が出来ていた。法被に気ぐるみ、メイド服。人いきれでむせ返り、たまらず手元の書類でパタパタと仰ぎながら最終確認する。出店名と出店場所、責任者よし。食品を提供するから衛生管理の書類もしっかり、判を押して持ってきてある。
肉体改造部の出し物は部員が丹精込めて打った力うどんの屋台だ。せっかくだから運動がてら文化祭でも部活動で出し物がしたい。出店は、そんな下級生からの提案だった。
肉体改造部の名が呼ばれる。
「はい、律」
生徒会の担当者へそろえた書類を提出し、確認の印を付けてもらう。引き換えに無事、出店許可証を受け取れた。これであとは、戻って屋台を組み立てられる。
「兄さん、がんばってね」
茂夫は去り際に小さく、手を振った。